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合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

238≫ 優しさの意味  

2014-05-31 13:29:54 | インポート

 わたくしごとですが、自分はこのようなブログを開設していながら、合気道にかかわる他の方のブログはほとんど見ておりません。合気道人口から考えればおそらくかなり多くの方が、わたしのものなんかより見て楽しい、読んでためになるブログを提供されていることでしょう。

 そういうわけで、ブログを開設している他の方々がどのような立場におられるのかも知りませんが、立場というものを考えると、あるいはわたしは若干危ないことをやっているのではないかと思うこともあります(合気道のセンセイの立場なんてなにほどのもんじゃい、というご意見はあろうかと思いますが)。

 極論すれば、指導を受けている立場の人は何を言っても許されると思いますが、指導する立場の者はやはり言論の幅に一定の縛りがかかるのは致し方ないでしょう。まがりなりにも指導する立場にある者は稽古者に対して、一般的に考えて本流とか本筋とかいわれるような技法と理念を伝える義務があるわけですが、それに対して、本ブログをご覧いただいている皆様はお分かりの通り、多くの部分でわたしは必ずしもそうでないことは隠せない事実です。

 というより、どちらかといえば意図して大勢に反するような論を展開することのほうが多いと自覚しています。信念でやっていることですから、おいそれと変えることはできませんが、ちょっとヤバイかなと思うことはあります。

 そこまでわかっていてなぜ改めないかと自問することもあるのですが、結論を言えば、いま合気道が進もうとしている方向をすんなり受け容れられないからだということです。では、論を進めるためには、わたしに見えている現在の合気道の姿とはどういうものか、それを明らかにしておく必要があるでしょう。

 合気道が開祖の唱えられた愛と和合の武道であることに、わたしはいささかの疑念も抱いておりません。それはすべての合気道家に共通する思いに違いありません(そうでない人は合気道をしてはいけないのです、論理的に言って)。問題は、愛と和合という言葉の優しさに導かれて(というか、だまされて)、技法までが優しくなってしまうことです。相手にあまりダメージを与えず、見た目もきれいで、舞を舞っているかのように優雅な合気道が広く受け容れられているのではないでしょうか。ここに武道としての大きな勘違いがあります。

 武道というものは、どんな詭弁を弄そうとも、そもそも敵を征圧する格闘法であることから離れるわけにはいきません。それは外形的にも本質的にも世俗的な優しさとは無縁のものです。ある人の言によれば、一撃必殺というのは一撃で息の根を止めることで相手が苦しまなくて済むようにしてやることだそうです。武道の優しさとはそういうものでしょう。そのためには技法はとことんまで研ぎ澄まされなければなりません。技法自体が優しくなってはいけないのです。

 武道で優しさを言うのなら、それは技法そのものではなく、技法を操る人間の心構えについて語られるべきです。一撃必殺の技を練磨する過程で、また、稽古を離れた日常生活など、人に接する場面でこそ優しさは発揮されるべきものです。必殺の技だからこそ、その技量を持つ者は徹底的に優しくなければいけない、それが武道修練の定めです。

 以上述べたことは、わたしにとってはごく当たり前のことだと思うのですが、合気道は最強の武道だとか必殺技法を隠し持っているとかいうわたしの表現は、どうもすんなり理解してはもらえないのではないかという自省はあります。実はそのようなことは開祖もおっしゃっていることなので、もし理解を得にくいとしたらあるいはわたしの表現方法が稚拙なせいかと思います。作文をもっと勉強する必要がありそうですね。

 わたしは合気道を通じて本物の武道家でありたいと願っていますが、そのためには合気道が本物の武道であり続けなければならないという、これはどうも、枝が幹を支えるという奇妙な論理に陥る図式をわたしは恐れているわけです。杞憂ならばよいのですが。


237≫ ありうべき変化

2014-05-20 20:35:01 | インポート

 合気道は大先生がお隠れになった時点でこの世から一旦なくなり、その後は教えを受けたそれぞれの先生方の理解にもとづくそれぞれの合気道として命脈を保っている、そのように黒岩洋志雄先生はおっしゃっていました。したがって、現在の合気道はかつて大先生がお示しになった高みを目指して再構築している最中であり、それゆえ未完の武道である、というのがわたしの一貫した考えです。ですからその理屈で言えば、未来の完成に向けて合気道は常に変化しているというのが論理の帰結になります。問題は、その変化が好ましい変化か、ダメな変化かということです。その、良いか悪いかを判断する基準は何か、それを今回は探ってみたいと思います。

 明らかにするといっても、合気道というものに対する見方、考え方は百人百様ですから、すべての人が等しく納得する答えはないかもしれません。しかし、最大公約数のようなものはあるはずですし、そもそもそれがなければひとかたまりとしての合気道というものが存在できません。

 わたしの見るところ、現在までその最大公約数的な共通理解というものが明らかにされないまま、これは正しいがそれは間違いだというように、それぞれ個々の理解にもとづく主張がぶつかりあって、ある場合には分裂を招いたりしたのです。

 ここはやはり大先生にご登場いただくのが最良の方法でしょう。大先生がわたしたちに示されたのは要するに、愛と和合の真心をもって大きく和するの道に精進せよ、ということです。その愛と和合の精神を獲得するための方法として、大先生は合気道という最強の武道をわたしたちに授けてくださったのです。

 そうであるならば、わたしたちがまず実践すべきことはその最強の武道をしっかりと練磨し自分のものにすることです。愛と和合を語る人はその最強の武道にふさわしい人物であらねばならないということではないでしょうか。

 合気道は気、心、体を練磨することによってその核心にたどり着けるといわれます。ところが、わたしはここでそれらについて語るだけの能力、識見を持ち合わせていません。気については明確にその本質をお伝えするだけの能力がありません。心のありようは修練の結果であって前提ではないと思っています。また、体については各人の個性によるところが大きいので、一般論の範囲を出ることに意味を見出せません。要するに、それら3点についてはどうぞ個々でお考えいただきたいということです。個々でということは皆に共通のものではないということです。

 それでは皆に共通しうる基準とは何でしょうか。わたしはそれは技だと思います。それも、技法の細々したことではなく、本質の部分、すなわち武技としての有効性、言い換えるなら制敵技法として使い物になるかどうかということです。スポーツ化した現代武道といえども、文字通り一瞬にして相手の死命を制する能力を持っています。それを極力安全側に振って稽古なり試合なりをやっているわけです。

 合気道においても、そうした能力を確保しないと武道とはいえないとわたしは思っています。そこで今回のテーマに立ち返れば、好ましい変化とはその武技としての本来の戦闘能力を高める方向の変化であり、ダメな変化とは耳あたりの良い言葉を弄して武道としての牙を抜くような変化です。たとえば、『気を通せばつかんだ腕は放れない』というようなファンタジーです。

 変化を受容するときの判断基準として、そのような現実主義的な物指しを共通理解のための基本に据えたいとわたしは思っています。それはもちろん好戦的な愚か者とは一線を画すものであることは言うまでもありません。

※第8回特別講習会はつつがなく終了いたしました。遠路ご参加いただきました皆様に厚く感謝申し上げます。


236≫ 受容される変化 序

2014-05-07 14:36:00 | インポート
 前回は、現代武道たる合気道も時代の変化と無縁ではありえないということを申しました。そこでの変化は玉石混交であり、受け入れるべきものとそうではないものをしっかりと判別し、正しい方向を見失わないことが何より重要です。

 それでは、どういうものが受け容れられ、どういうものが捨てられるべきか、その判断基準は何かということが示されなければなりません。ただこれは、数学の公式にように客観的、合理的にすべての状況にあてはまるような形で表されるものではなく、当事者の主観あるいは価値観に左右されるものであることは認めなければなりません。

 したがって、合気道に何を求めるかによってその基準が違ってくることは大いにあり得ることです。それでも、同じ合気道という名称のもとでなされるのであれば、最大公約数的なくくりがあるはずです。そのことを今回は吟味してみようと思ったのですが、その前に、普段の稽古のあり方をまずは検討する必要があるようです。

 さて、合気道とは言うまでもなく開祖 植芝盛平翁によって生み出された現代武道です。それは、日本武道の淵源から永い時を経つつも、その真髄を失うことなく、しかも高度に洗練された技法と理念を保有する日本武道の究極のかたちです。もちろん、日本武道は原初においては闘争に役立つ技術として自然発生的に世に現れたもので、それが長年月にわたり様々な社会事象にもまれる中で、最終的には人格の陶冶に資する技芸となったものです。

 もともと人と争う技術が人間形成に役立つことになる理由は、ごく大雑把にいえば、その修練過程における精神のあり方の飛躍的進化によります。しかし、本当にそのことを実感しているのは一握りの優れた素養の持ち主だけであって、わたしを含め多くの人は、その飛躍的進化があるということを知識として持っているに過ぎません。『武道家らしく立派でなければいけない』という道徳のレベルです。知っているのと身についているのは違います。ですから、時には、猛烈な稽古を重ねたにもかかわらず人格破綻しているような武道家が現れてくるのです。つまり、武道の修練がそのまま人格の陶冶につながっているわけではないことの証明です。

 さて、そうは言うものの、武道の稽古がなんとか人間形成に結びつかないと、世のほとんどの合気道指導者は存在価値がなくなってしまうでしょう。そうならないように、今回のテーマはその結びつきの必然性を語ろうとするものです。

 武道家としての開祖植芝盛平先生は、戦わなくてよいとか、戦ってはいけないというような単純なことを言ってはおられません。自分は必ず勝つとおっしゃっているのです。戦えば必ず勝つ、この信念がなければ新しい武道を生み出すことはできません。だからといって、人と争うことを勧めているわけではもちろんありません。
 
 どうしろと言っておられるのか。それは、必勝の技法を身につけ、その結果として戦う必要のない状況を作り出せということです。そのためにはいい加減な修練では全く足りません。生涯の全てを費やしてやっと足りるかどうかというレベルです。そうだとするとしかし、ほとんどの人はその成果にたどり着くことは不可能でしょう。

 現実的にわたしたちにできるのは、精神の飛躍的進化に関わる実感とその知識の中間のあたりを目指すことでしょう。知識にいくらかの体験を加える程度ならできるでしょう。その場合、知識とは大先生の表された愛と和合の世界の構築に合気道を通じて寄与することの可能性を知ることであり、体験とはその合気道稽古における相手への感謝の念を持つことです。わたしたちはそれを当面の目標にしようではありませんか。

 さて、その稽古における技法の不易流行を考えるのがそもそも今回のテーマでした。ただ、何を目指すかがわかっていないと途中で生ずる変化において何が玉で何が石かが区別できないので、長々屁理屈を述べたのです。そういうわけで、本題は次回ということにいたします。

【第8回 特別講習会のご案内】
再三お知らせしております標記講習会を来る5月18日(土)に開催いたします。
左のリンク欄から=大崎合気会=ホームページをご覧ください。

 


235≫ 変化は避け得ない

2014-04-23 16:47:20 | インポート

 例のXPのサポート終了で、わたしもご多聞にもれず右往左往しました。以前に買っておいてそのままにしていたウィンドーズ7搭載機に替えたのですが、この乗り換えがわたしのようなごく普通のPC利用者にはなかなか難しいことでした。

 新しいPC(7が新しいかどうかはさておき)にはメールやワープロ、表計算などのソフトが付いてないので無料ソフトを取り込むことにしたのですが、きとんと使えるようになるまでなんだかんだで10日ほどかかりました。でも、買えば何万円かするソフトとほぼ同等に使えるものが、ネットで探せば無料で手に入るというのも、考えてみればすごいことではあります。ソフトそのものを売るという考え方ではなく、それを提供することによって別のメリットが生まれるということなのでしょう。物の価値ということを考え直す必要があるのかもしれません。

 それにしても、いろいろ問題はありながら社会が全体としては今回の事態(サポート終了)を容認しているように見えるのは、コンピュータというものは日々改新されるべきものという認識が行き渡っているからでしょう。そして、対症療法的な改変がたくさん重なった結果、合理性や機能性に障害が出てきたところで今回のようなフルモデルチェンジで一気に問題の解決を図ろうという、版元の経営判断なのだろうと思います。

 わたしもそのような流れに身を浸しながら、これは現代武道たる合気道のあり方にも似ていると思いました。いろいろなものが日々更新されていく現代にあって、それとあまり関係のなさそうに見える武道でも、人間の営みである以上、時代の流れと無関係ではいられません。それは合気道創始から戦前、戦後にいたるまでの折々に見せた大先生の心境と技法の変化を訪ねればわかります。

 合気道以外でも、例をあげるまでもなく、試合のある武道の技法は日進月歩で向上(かどうかはわかりませんが)しています。ちなみに、40年以上も前の大学生時分のことですが、わたしは体育の授業は柔道を選択しましたので、それなりに柔道技法に関心を持っていました。そのうち今でも覚えていることに背負い投げの打ち方の変化があります。背負い投げは基本的には立ったまま技を施すのですが、そのころ、全日本選手権などで、畳に膝をついて投げる人がぼちぼち出てきました。背負いの動作に入りつつ頭を低く下げて膝をつき、そこから今度は尻を高く持ち上げて投げる方法です。

 これはそれなりに有効なやり方で、今も目にしますが、大学の授業でご指導くださった先生も、またわたしが所属していた合気道場の道場長(柔道経験者)も期せずして『あれは危険だ』とおっしゃっていました。投げられる側としては受身をとる体勢を十分に作れないまま頭から畳に突っ込むような形になり、首を折る恐れがあるからという理由でした。先生方の言は教育者としての当然の配慮であったと思います。柔道創始者の嘉納治五郎師が教育者であったことを考えれば、彼も同様のことを言われたのではないかとも思います。

 もっとも、投げられるほうもそれへの対処法を研究しますから、後には膝つき法の出初めのころのように見事に決まるということも少なくなり、逆に今ではなんかもっさりした技法に見えてしまいます。

 ひるがえって、合気道はどうでしょうか。わたしは合気道は達人養成システム内蔵型の武道だと思っています。ですから、理念はもちろん技法においても近視眼的な捉え方にはなじまないもので、安易な変化は望ましくないと考えています。ただしそのことは全ての変化を嫌うということを意味するわけではありません。物事の変化というものは、その変化の時点では玉石混交であり、よくよく吟味されるべきものであると考えますが、変化そのものを厭うべきではないということは言えると思います。

 では、何をもって好ましい変化というのでしょうか。そのことは次回に言及しようと思いますが、要は、合気道の理念を強化する方向に働く変化のことだとだけ申し上げておきます。

 PC更新の話からやや強引に合気道のあり方につなげた感が免れませんが、つまりは現代という時間帯において、合気道といえども時代の変化の波と無縁ではありえないということを言いたいわけです。そしてその時代の波に一番翻弄されたのは他でもない先駆者としての大先生であったに違いないということです。

※またまた【お知らせ】です

これまでもお伝えしておりますように、黒岩洋志雄先生の合気道理論と技法を軸に、≪遣える合気道≫とはどのようなものかを共に考究する=第8回特別講習会=を平成26年5月18日(日)に開催します。

今回のテーマは『間合い』です。

東北の片田舎までおいでいただける方はどうぞお気軽にご参加ください。

詳細は本ページ左のリンク欄から≪大崎合気会≫ホームページをご覧ください。


234≫ 渇いた馬  

2014-04-14 14:53:16 | インポート

 普段の稽古でのわたしの指導は、技法については結構説明が多く、自分で言うのもナンですが、なかなか親切ではないかと思います。いろいろ悩んで技を見につけてきた者としては、知っていることはできるだけ教えてあげたい、そうすればその人はその次の段階からスタートできると思うからです。

 でも、このごろ、それは必ずしも最良の方法ではないのではないかと考えるようになってきているのも事実です。どんな道であれ、自らの足で歩むとき悩みは付き物で、それを一つひとつ乗り越えることこそが修行というものであり、悩んで考えて答えを見つけることなくして目標に達することは難しいのではないか、という思いも片方にはあるのです。なにしろそれはわたし自身が歩んできたあり方そのものでもあるわけですから。

 これまでも述べていますように、わたしが今日まがりなりにも合気道家のはしくれとして斯界の末席に連なっていられる最大の理由は、入門から2年ほどたったころに黒岩洋志雄先生と出会ったことにあります。それまでのわたしは、合気道愛好者としては可もなく不可もなくといった程度のごく普通の稽古者でありました(今でも普通の合気道愛好者ですが)。ただ、生まれつき、完全なもの完璧なものを好む性癖があって、物事の根本がわからないと満足できないという面を持っていました。合気道においても、たとえば今やっていることが本当に武術的な意味で役に立つのかという疑問を持っているような、あまり素直とはいえない稽古者ではありました。

 そのような疑問に正面から答えてくださったのが黒岩先生でした。それはこれまで何度も言ってまいりましたのでここで繰り返す必要はないでしょう。そのことよりも、ここで屁理屈をこねるならば、答えをいただけるということは、こちらが、何が問題なのかということを明確に把握していて、その答えを欲しているということをきちんと伝えることができるということです。わたしはそのことによって合気道の素晴らしさを知ることができました。

 もしわたしが、最初から何の疑問も持つ必要がないような優れた指導者のもとに入門していたとして、それでも今より合気道家としての満足感や幸福感を得られていたかどうか、ここはちょっと考えるところです。疑問のないところに答えはない、とはいえないでしょうか。いつも水に恵まれてのどが渇くことのない人と、渇いたのどに水を得られた人とどちらが幸せか、これはまあ難しい比較ではあります。

 それが自分自身のことであれば、どう転がっても自分の責任ですから心の決着はつけることができますが、ひとに指導するということになると、そのあたりの按配がなかなか難しいと思うのです。

 そうしてみると、わたしはどうも教えすぎる傾向があるようです。完璧を求める性質が指導するときにも表れるからだと思いますが、こちらの間合いを相手に押し付けるのはよろしくないのかもしれません。

 馬を水場まで連れていくのは馬子の仕事だが、水を飲むか飲まないかは馬の勝手だといいます。とはいえ、その場合でも渇いた馬であってほしいとは思うのです、自分がそうであったように。

 わたしの指導を受ける方を含めて馬呼ばわりしているようで申し訳ないのですが、あくまでも物の喩えですので誤解なきよう。そんなところで間が悪いのですが、下に講習会のご案内を載せております。だからというわけではありませんが、今回は『間合い』ということを軸に内容を組み立ててまいります。ご興味がありましたら、お気軽に遊びにおいでください。

 やっぱり教えすぎちゃうかもしれませんけどね。

【お知らせ】

これまでもお伝えしておりますように、黒岩洋志雄先生の合気道理論と技法を軸に、≪遣える合気道≫とはどのようなものかを共に考究する=第8回特別講習会=を平成26年5月18日(日)に開催します。東北の片田舎までおいでいただける方はどうぞご参加ください。

詳細は本ページ左のリンク欄から≪大崎合気会≫ホームページをご覧ください。