わたくしごとですが、自分はこのようなブログを開設していながら、合気道にかかわる他の方のブログはほとんど見ておりません。合気道人口から考えればおそらくかなり多くの方が、わたしのものなんかより見て楽しい、読んでためになるブログを提供されていることでしょう。
そういうわけで、ブログを開設している他の方々がどのような立場におられるのかも知りませんが、立場というものを考えると、あるいはわたしは若干危ないことをやっているのではないかと思うこともあります(合気道のセンセイの立場なんてなにほどのもんじゃい、というご意見はあろうかと思いますが)。
極論すれば、指導を受けている立場の人は何を言っても許されると思いますが、指導する立場の者はやはり言論の幅に一定の縛りがかかるのは致し方ないでしょう。まがりなりにも指導する立場にある者は稽古者に対して、一般的に考えて本流とか本筋とかいわれるような技法と理念を伝える義務があるわけですが、それに対して、本ブログをご覧いただいている皆様はお分かりの通り、多くの部分でわたしは必ずしもそうでないことは隠せない事実です。
というより、どちらかといえば意図して大勢に反するような論を展開することのほうが多いと自覚しています。信念でやっていることですから、おいそれと変えることはできませんが、ちょっとヤバイかなと思うことはあります。
そこまでわかっていてなぜ改めないかと自問することもあるのですが、結論を言えば、いま合気道が進もうとしている方向をすんなり受け容れられないからだということです。では、論を進めるためには、わたしに見えている現在の合気道の姿とはどういうものか、それを明らかにしておく必要があるでしょう。
合気道が開祖の唱えられた愛と和合の武道であることに、わたしはいささかの疑念も抱いておりません。それはすべての合気道家に共通する思いに違いありません(そうでない人は合気道をしてはいけないのです、論理的に言って)。問題は、愛と和合という言葉の優しさに導かれて(というか、だまされて)、技法までが優しくなってしまうことです。相手にあまりダメージを与えず、見た目もきれいで、舞を舞っているかのように優雅な合気道が広く受け容れられているのではないでしょうか。ここに武道としての大きな勘違いがあります。
武道というものは、どんな詭弁を弄そうとも、そもそも敵を征圧する格闘法であることから離れるわけにはいきません。それは外形的にも本質的にも世俗的な優しさとは無縁のものです。ある人の言によれば、一撃必殺というのは一撃で息の根を止めることで相手が苦しまなくて済むようにしてやることだそうです。武道の優しさとはそういうものでしょう。そのためには技法はとことんまで研ぎ澄まされなければなりません。技法自体が優しくなってはいけないのです。
武道で優しさを言うのなら、それは技法そのものではなく、技法を操る人間の心構えについて語られるべきです。一撃必殺の技を練磨する過程で、また、稽古を離れた日常生活など、人に接する場面でこそ優しさは発揮されるべきものです。必殺の技だからこそ、その技量を持つ者は徹底的に優しくなければいけない、それが武道修練の定めです。
以上述べたことは、わたしにとってはごく当たり前のことだと思うのですが、合気道は最強の武道だとか必殺技法を隠し持っているとかいうわたしの表現は、どうもすんなり理解してはもらえないのではないかという自省はあります。実はそのようなことは開祖もおっしゃっていることなので、もし理解を得にくいとしたらあるいはわたしの表現方法が稚拙なせいかと思います。作文をもっと勉強する必要がありそうですね。
わたしは合気道を通じて本物の武道家でありたいと願っていますが、そのためには合気道が本物の武道であり続けなければならないという、これはどうも、枝が幹を支えるという奇妙な論理に陥る図式をわたしは恐れているわけです。杞憂ならばよいのですが。
ある目的を持った集団があっても、規模が大きくなって行くにつれてその運営のために本来の目的とは相容れない論理が幅を利かせてくることは珍しいことではありません。
大先生の講話に、「皆が合気道、合気道と言っているがその中にはただの一つも真の合気道はありません。ことによると、自分が合気道を作る以前の古い武道よりも低いものもあるのではないかと心配している」という趣旨のものがありました。
稽古者はこの言葉をよくよく吟味して、自分の修行する道が真に合気道と言えるのか、我が身を以って証を立てなければなりません。
稽古という制限された争いの形の中で、争わないことを学び、それによって勝ちを収めていることを知るのが合気道のごく初歩的な部分だと思うのですが、巷間よく耳にする「合気道は争わない、相手と争ったらその時点で自分の負けだ」というような言葉は一体誰の口から吐かれたものでしょうか?
愛と和合という担いだ神輿の中におわす何者かの正体に対峙せぬ限り、愛と和合の合気道はただの言葉、竹光やなまくら刀に等しい輝きを持たぬはったりで終わってしまいます。
相手よりも圧倒的に強くなければ、許せるだけ優しさは持てないはずです。「言向け和す」にも強さの裏付けが必要であると思います。
それでも私は、管理人様や多くの道友の方々同様(と言って良いものでしょうか)合気道のもつちからを信じています。誤解を生む表現かもしれませんがかなりの暴論を申し上げれば、合気道が上達しないのも本道を外れるのも合気道に対する信心が足りないからなのです。怒られるかもしれませんが、下手な人は合気道よりも下手な自分を信仰しているから下手なのです。
これだけ大口を叩いているので、今まで以上に合気道に真摯に向き合わなければ大先生に叱られますね。
何はともあれ今はまだまだ稽古と鍛錬あるのみです。
幹、根、そのものであられるのです。
先日の講習会、お疲れ様でした。私も是非とも参加させて頂きたかったのですが
何分にも遠く、また悲しいかな、情けないかな仕事の都合もありまして。
いつもagasan師範のブログを楽しみにしております!
寿陵余子様
本ブログでは、ご理解ある皆様のおかげで言いたい放題させていただいていますが、それでも、ちょっとヤバイかなという自覚のもとで多少矛先が鈍ることもあります。
その点、寿陵余子様の切れ味は素晴らしいです。畏れ入っております。とりわけ、合気道に対する信心が足りない、というのは言いえて妙です。
わたくしは、真の合気道を得たいならば大先生の人生を追体験するしかないと思っています。もちろんそれは絶対に不可能なことなので、せめて想像力を発揮して理念と技法の変遷をシミュレートするくらいの努力は必要でありましょう。そうすることによって大先生がある時点、時点でどのようなことをお考えになったかを推測することが少しはできるかもしれません。
そうすることによって、わずかずつでも合気道の持つ本当の力を感じ取ることこそ修行の目的であろうと思っています。
それに向けて、わたくしも稽古と鍛錬に励むことといたします。
N 様
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
講習会というのは面白いもので、教えるつもりが逆に教えられることも多く、なんか自分のために開いているような気分になってまいります。まことにありがたいことです。
講習会に限りませんが、肝心なのは一歩でも核心に迫ろうという心構えだと思います。そうであれば、参加するしないにかかわらず、いつどこでも進歩につながるチャンスはあります。
とはいえ、機会がありましたらどうぞお出でください。