てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第31回てつがくカフェ@ふくしま報告―「〈おとな〉とは何か?」―

2015年08月23日 10時44分17秒 | 定例てつがくカフェ記録
昨日、「イヴのもり」にて第31回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
テーマは「〈おとな〉とは何か?」。
参加者は19名。
今回はブログで予告していたように、ネオソクラティックダイアローグの手法を導入しながら、参加者同士の合意を探りつつ「おとな」の在りようを定義していこうと宣言して始めました。
以下その議論の記録です(ただし、記録者の解釈が含まれるので、発言者の意図や内容とずれがあるかもしれませんが、その際にはご容赦ください。)



「では、話し合いの切り口として、大人と成人を一緒にしていいのか、というところから確認させて下さい。あるマサイ族の家にお嫁に行った女性が夫に年齢を聞くと、「わからない」と答えたそうです。そもそもマサイ族には年齢がなく、少年時代と戦士時代、老年時代のどこに属しているかが重要になるのだそうです。そこでは男性だけが大人になる特権を持っていて、男性だけが財産処分権をもっています。日本では年齢で自動的に成年になるけれど、「おとな」になるというのは年齢では決められないものではないでしょうか。」

「大人と成人は複線的に考えられるものではないでしょうか。この時点では「おとな」とは何かわかっていない、成人とは何かはわかっていないので、まず大人の定義をはっきりさせてからその区別を議論した方がよいと思われます。」

「大人と成人とは重なり合いながらも、ちょっとずれる部分があるでしょう。その上で、私なりに定義すると、成人とは自立して責任ある行動を取って社会に貢献することが求められる人。大人は求められるのではなく、能力がある人ということになります。」

「ポイントは「求められる」のが成人で、大人はその「能力がある」というところですね。」

「生物としての大人は生殖能力を持った段階のことを指すならば、当然高校生になれば大人だといえると思います。ただし、社会的な大人はそれとはまた異なるものでしょう。いくら生殖能力が身についたら大人と言ってみても、小学生を大人とは言わないですから。」

「私が、この人大人だなぁと思ったのは、小学校4年生の時にある女の子の友達が「へぇ、あなたはそう思うんだ」という言葉を聞いたときです。大人の部分もあるけれど子どもの部分もあることがその人の個性。年齢は関係ないでしょう。他者には他者の意見があっていいんだということを理屈ではわかっていても、自分のものとしてそれを理解できることが大人なのだと思います。」

「大人って評価的な言葉ではないでしょうか。あの人は大人だよね、という風に。では、大人と評価できる人はだれかというと、人と人との間に立つときに、その場にいる人を共有させることができる人を大人と呼ぶのではないでしょうか。自分自身のことだけでいっぱいいっぱいになっているのは、まだ子どもです。」

「アリエスの『子どもの誕生』という本があるように、「子ども」という概念がある時代から作られたのと同じように、「おとな」という概念もまた、時代や社会に要請された概念に過ぎないでしょう。それについて大人とは何かと問うても、「大人=NOT子ども」という定義の事例をたくさん挙げることはできるけれど、それに意義があるとは思えません。もっと「大人」という概念を絶対化せず、相対化してみればいいのではないでしょうか。」

「それは大人とは何かを問うことは無意味だということでしょうか?」

「いや、無意味とまではいわないけれど。結局、大人も社会の要請によって生まれた概念ではないでしょうか。地域によって大人の定義はずいぶん異なりますし。

「先ほどの発言で成人と大人の区別があったように、大人ってどこか文学的なもののような感じがします。社会的に共有はされている言葉だけれども、その意味は変わりうるものですし、それは社会がつくるものでしょう。その点で、割と「大人」という言葉は肯定的な意味で使われるけれど、本当にそんなにいい意味なのかなと思います。」

「日本では調整能力があるのを大人というけれど、欧米のように自己主張が強いことが大人とする社会もあるよね。」

「子供っぽい大人や大人っぽい子供もいる。成人の定義はできるけれど大人の定義は非常に多様で、大人として求められる素養はたくさんあるけれど、その場面で変わることはあります。」

「「大人」という言葉自体にいい悪いはないのではないでしょうか。図々しいという言葉はいい意味では使われないけれど、「図る」ことを重ねるという意味ではいい意味でもあるでしょう。それで、言葉の語源を調べてみたのですが、その言葉の中には本質みたいなのが含まれていることに気づかされました。「お」は奥深い、「と」は統合、「な」は格の語源があるそうです。ここからも大人の本質が示されていると思いました。」

「古文にも平安時代にはすでに「おとなし」という言葉が使われていて、「年寄りはおとなしく云々」というくだりはいい意味で使われています。源氏物語でも自分の立場をわきまえて矩(のり)を超えないことを「おとなし」という意味で用いられています。」

「確かに、日本的な大人のイメージですね。」

「『論語』では、「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰えず」とあるように、心の赴くままに行動しても「のり」を超えない境地に至るのは70歳だということになりますね。すると、大人になるというのはけっこう先の話だなぁ。」

「小浜逸郎の定義・分類によれば、「大人」は生物的・社会的・心理的大人の3つの層に分かれているそうです。その上で、心理的レベルで大人を定義してまとめるのは大変だろうなと思いました。でも、人間の場合、生殖能力が身に着いたことだけで大人とは言わないでしょう。というのも、人間の場合は遺伝子を残すだけでは終わらない。産みっぱなしではなく、育てられるレベルまで問われるのが人間です。だから、人間は文化を伝えるという社会的レベルで再生産可能なものが大人ということになるし、それだと議論は進むと思います。」

「意識的に自分を見つめられる段階が大人じゃないでしょうか?」

「それは心理レベルでの大人かな。」

「文化の再生産ということに関していえば、もともと王族ではない下級地主層のジェントルマンが、新興階級としてあえて王族や貴族と同じ振る舞いの仕方を子孫に伝えようとして、子弟に上流階級の徳目を身につけさせようと教育したことも関係するんじゃないのかな。」

「いや、私は徳目の話をしているのではありません。それは心理レベルの話だと思う。」

「うーん、でも身に着けているものをもって初めてジェントルマンとして認められるわけだから、それは大人として認められるということにもなりそうだけどなぁ…」

「文化の再生産という言葉に関して、今の議論は、人類として持続していくために子どもに文化を伝えていくのが教育であるという議論と、上流階級に参入するための資格(資質)を文化として子弟に伝えていくものも教育だという話が混同されています。」

「自分自身のことを離れて、他者のために何かをしようとし始める、他の人の責任を取るということが大人なのではないでしょうか。」

「今の議論に関して言うと、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」を見た世代が大人になってリメイクし、その内容を発展させようとすることは、大人として次世代に責任をもって受け継ぐということになる例だと思います。」

「すると、大人とは何ですか?」

「大人とは次世代に文化を受け継がせる責任を持っているもの、ということになります。」

「どうしても再生産という言葉が引っ掛かりを覚えます。文化が伝えられていくことは大事だけれど、社会には変化も必要でしょう。そうすると再生産という言葉が引っ掛かるのです。」

「大人は文化を再生産するもので、それをブレイクスルーするのが子どもということでしょう。」

「社会的なブレイクスルーの例は?」

「革命です。」

「ロック、パンクの世界では大人は悪いものとして見なします。だから、そういう文化にある人々は社会を壊してしまうから子どもだということになるでしょう。でも、そういう人々が世の中を変える権利を持っている、悪い大人が支配している世の中を変えていくということを彼らは訴えます。だから、子どもは正しいんだけれど弱い、大人は悪いけれど強いという枠組みがあるのではないでしょうか。革命もそういう構図を持っていると思います。」

「安倍首相は子どもだと思うんですけれど、権力を持っていても考え方が子どもの議員もいるから、子どもが正しくて弱いかと言えば、100%そうだとは言えないですね。」

「政治の世界にいる人は子どもばっかりだと思う。その時の子どもという意味は、何も分かっちゃいないという意味です。子どもの正しさは純粋、自然な感覚ですが、伝統と創造ということに関して言えば、慣習を破るものが子どもの力で、大人は伝統を保守するものでしょう。」

「子どもらしさはいいものだという価値観を引き継いで言えば、子どもっぽさが残っている方が魅力的だというのが日本社会ではないでしょうか。欧米では、子どもは未完成な人間とみる社会であるのに対して、日本社会では子どもらしさは悪い意味では使われない。そこには子どもの可能性に期待するという意味があるように、社会が悪い時ほど子どものイメージがもてはやされるものではないでしょうか。」

「大人の本質を考えると、精神的社会的レベルの座標に自分をおいて自分自身を見つめることができる、意識して自分を見ることができるのが大人かなと思います。距離を取って客観的に自分を見ることができるのが大人なのです。」

「他者の視点でメタ認知的に自分を省みることができるのは大人かなと思う。社会の再生産に関して言えば、社会を変えていくのも結局は大人です。未来の視点で社会を見ていけるのが大人。子どもにないスキル、人格をもっているのは大人ということになりますが、それだけだと単なる文化の再生産になってしまいます。他者の視点で見る力があるからこそ社会を変えていくことができるのではないでしょうか。」

「大人が意図的に「社会を変える」ということではないんじゃないかな。「社会は変わった」というのが歴史の実際ではないでしょうか。大人が社会を変えるというのはどうかなと思います。」

「例えば、ドイツが原発事故を機に原発依存を止めて再生可能エネルギーにシフトしたのは大人の判断でしょう。」

「ドイツの原発の話に関して言えば、社会の良い部分を残しながら改良していくというもので社会の根本的な変化とは言えないのではないでしょうか。社会を根本から変えてしまう革命は、すべてをぶっ壊しながらその先は考えないものです。だから、大人は社会の根幹を変えないために変えるものではないでしょうか。」

「なるほど、社会の根幹を変えるのではない改良主義を担うのが大人であるということですね。それに対して子どもはすべての根幹を破壊しかねない革命的な存在だと。」

「大人は修正主義といってもいいよね。」

「全部が見える位置にいるのが大人で、その中でできる最大のことができるのが大人です。大人ができなかったことを新しい形で生み出すのが子どもです。だから、大人と子どものそれぞれの力の良さという両輪がうまく回って、世界は動いているのかもしれません。」

「大人は子どもに比べると一般に知識豊かで経験豊かであるといえ、大人は大局的に長期的に判断できる存在ということではないでしょうか。」

「大人は未来につないでいくことを担うわけですが、過去に目が向いていないと大人になれないと思います。今の社会が成り立っていることをふり返って自分があることを考えて先につなげることができる存在。子どもにはそれが欠けている。子どもには過去と未来のつながりを感じられないはずなので。」

「子どもと大人というのは年齢的なものではなく、大人的なものと子ども的なものは共存しなければいけない。大人になるためには訓練は必要ですが。」

「議論の冒頭に出てきましたが、大人というものを考える上で根幹にあるのは、自立という言葉ではないでしょうか。心理的なものとは別に、経済的に自立することが大人の必須条件でしょう。そこを探らないと心理的な議論で終始してしまう。必要条件の話と十分条件の話を分けるとすれば、前者の話をしていかないと議論は収拾がつかなくなると思います。」

「経済的自立と言えば、ヒモは大人?」

「専業主婦も大人だと思うので大人でしょう。」

「ニートは?」

「子どもでしょう。」

「病気で入院している人は?」

「能力論で定義すると大人に当たらないかもしれません。」

「メタ認知ができる人が大人という意見に共感できます。改良できる人。子どもは純粋さがあってブレイクスルーできる純粋さはあっても、意識的に選択できません。」

「でも、他者の立場に立って物事を考えるというメタ認知は、ある程度気の利いた小学生でもできますよ。」

「貧しい国で働かざるを得ない子どもたちの方が大人なような気がするので、自分で選べるというのは大人の条件にならない気がします。やむを得ず社会に投げ込まれる分だけ大人な気がするけれど、なぜそういえるのかはわかりませんが。」

「私の子どもは発達障害の傾向があるので週3日しか働けません。だから、経済的自立という点では大人とは言えないけれど、大人になっていないとは言えないと感じます。というのも、自立とは親子の間柄でも対等な人間として自分の意見を言えることができる存在だと思っているからです。すると、経済的自立をもって大人の基準は決められないな。自分で決断ができる意味での自立が大人の条件ではないでしょうか。」

「自分の意思を言って、かつ他者に認められるようになるのが大人だと思います。それに関して言えば、責任を取るということとが大人の定義になると思います。ニートでもその人が犯罪を犯せば、当人に罪を償ってもらいますよね。」

「責任を取れるのが大人というのは腑に落ちますね。」

「なぜか高校球児が大人に見えますよね。白鳳も私より年下だけれど私より大人に見える。それは一つの共同体の中で自立した存在だからではないでしょうか。経済的自立も、この社会の中で自立しているからですが、するとその社会に適応していくことが大人なのだといえます。」

「でも、学校生活に適応している小学生が自立しているといえないでしょう。」

「自立と適応はイコールなんですか?」

「私はイコールだと思います。」

「一応の完成が大人だとすれば、教育しなければいけない対象が子どもです。教育段階を終えた人が大人で、教育を与えられる状態が終わった段階で子どもは終了です。」

「18歳選挙権をもつということは大人として行動しなければいけないということでしょう。大人を創り出すのが学校教育だとすれば、今回の18歳投票権の導入は、高校卒業段階がそのラインであることを鮮明にしたことになる。社会に責任を持たされるということで。だから高校教育の責任は大きいと思います。」

「いや、18歳投票権が認められようが認められるまいが、それ以前から高校教育は社会に出ることを前提に行われていたわけですから、この制度によってより大人になるための責務が重くなるということではないと思います。むしろ、シティズンシップ教育で多様性を育むとか言う割に、その一方で大人になるための教育システムが学校教育に一元化されることの方が問題ではないでしょうか。昔は勉強ができなかったりヤンキーだったとしても、地域の祭りのときに活躍したりおとなの一員として見なされていたと思いますが、地域社会の崩壊や学校化社会の進展とともに、彼らのような存在を受け止める領域が失われるるあるように思われます。その結果、大人を育成する社会システムが単層化しつつある点が危機的だと思います。」

「たしかに、大人として育てたり、大人として認める領域は社会にもっとあったよね。」

「大人になりたい人もなりたくない人も社会的に要請されて初めて大人になるのだとしたら、大人になるって受け身的なものかもしれませんね。」

「そろそろ終了まで残り10分となりました。ここでベタですが、皆さんは大人なのですか、という質問をさせてください。大人だと思うとしたら、なぜそう思えたのでしょうか?」

「今の質問でわかりました。私の場合、周りの親や大人に言われてきたことが自分の言葉で言えるようになったときに、大人になったと思えたのです。」

「今の意見でいうと、小学生のお姉ちゃんが、親に言われることと同じことを妹に説教する場合にも当てはまるのではないでしょうか。」

「いや、実体験を言えているか、おうむ返しで言うのかでは相当違うのではないでしょうか。」

「バイトで初めてお金をもらったとき。自分で稼いだという機会に大人になったと感じました。経済的自立に至ってはいないんだけれども。」

「私の場合は、17歳の時に家を出て大学の寮に入ったときですね。そして、バイトで稼いだときもです。家庭にいるときはわけもなくむかむかしたけれど、自分で生活し始めたときに大人になったと初めて感じました。あと、社会人になったときと、家庭を持って子どもに対して責任を持ったとき。誰かのために責任をもつということが大人になったときに感じたものです。」

「仕事がら子どもと関わるので、そのときは大人でなければいけません。そんな時に自分は大人だと感じます。」

「自分のことを子どもだなぁと思うことがあるけれど、皆さんの話を聴いて自分で選ぶことや経済的自立という考え方でよいのであれば大人の一員かなと思いました。」


ご覧いただきましたように、「おとな」の定義に関して合意を形成するという当初の目論見はみごと破たんし、いつものてつカフェの展開となりました…
あらためてファシリテーターとしての未熟さを痛感させられました。
というよりも、福島の哲学的対話の〈かたち〉が根付いてきたということでしょう。

今回、私自身は皆さんの議論を聞きながら最後にハンナ・アーレントのエッセイ「教育の危機」を想い起したということを述べさせていただきました。
アーレントはそのエッセイの中でこう言っています。

「つねにわれわれの希望は各世代がもたらす新しいものに懸かっている。
しかし、われわれの希望はひとえにこのことを拠りどころとするため、旧いものであるわれわれが新しいものを意のままにしようとし、その在り方を命じようとするならば、われわれはすべてを破壊することになろう。
まさに、どの子供にもある新しく革命的なもののために、教育は保守的でなければならない。
教育はこの新しさを守り、それを一つのものとして新しいものとして旧い世界に導き入れねばならない。
旧い世界は、その活動がいかに革命的であろうと、来るべき世代の立場からすればつねに老朽化し、破滅に瀕しているのであるから。」
(アーレント「教育の危機」259~260頁,『過去と未来のあいだ』所収,みすず書房)


実は、いまから約20年ほど前にこのエッセイを読んだ時分には、フツーの保守的で権威主義的なおっさんがいうようなことを何でアーレントほどの思想家が言うのだろうと訝しく思っていたのですが、年齢と経験を積み重ねるとともに、このエッセイの重要さが身に染みてわかるようになってきました。
そして、この文章の意味が腑に落ちたとき、若い頃と違った私自身になっているのだなぁと気づかされたという意味において、「大人になった」ことを実感させられたものです。
今回の議論の中で出された大人の保守性と伝統文化の伝達、革命的な子ども性という議論は、図らずもアーレントの論と重なり合うものだったと理解しています。
新しい革命的なもののために大人は世界を保守しなければならないということ。
これを担える大人とは何か。
社会的に自立した存在が大人だという議論とはまた別の論点をいつの日かもう一度深め合いたいと思う機会となりました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿