てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第2回本 de てつがくカフェ報告

2012年06月24日 07時48分16秒 | 本deてつがくカフェ記録
昨日、第2回本deてつがくカフェがいつもお世話になっているサイトウ洋食店で開催されました。
今回は事前予約制で13名の方にご参加いただきました。
課題本はカフカの「断食芸人」。
選書に何か意図があったわけではなく、いつまでも課題本が決まらない中で「ええい!」と力技で選んだものです。
選んだ後になって、シュールすぎるかも・・・と一抹の不安もよぎりましたが、ご参加いただいた方々にはさまざまな視点から多様な解釈が出されました。

「断食芸人」はカフカ晩年の作品です。あらすじは上記に貼り付けたリンクからウィキペディアをご参照下さい。
まずは、参加者から一読した感想を挙げてもらうところから始めました。

「カフカは基本的に何を言いたいかわからない作品ばかりだが、それは寓話性が強いという意味でもある。最後の台詞がポイントではないか。」
ここで「最後の台詞」とは、断食芸人が死の直前に発した次の言葉です。

親方:「まだ断食しているのかね」「いつになったらやめるんだ?」
芸人:「どうかご勘弁願いたい」
親方:「いいとも」
芸人:「いつもいつも断食ぶりに感心してもらいたいと思いましてね」
親方:「感心しとるともさ」
芸人:「感心してはいけません」
親方:「ならば感心しないことにしよう」「しかし、どうして感心してはいけないのかな」
芸人「断食せずにはいられなかっただけのこと。ほかに仕様がなかったものでね」
親方:「それはまた妙ちくりんな」「どうしてほかに仕様がなかったのかね」
芸人:「つまりわたしは―」「自分にあった食べ物を見つけることができなかった。もし見つけていれば、こんな見世物にすることもなく、皆さん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね」(池内紀訳)

この最後の台詞が何を意味するのかは、今回の議論の焦点の一つとなりました。
それについては「身体に必要な食べ物というよりも、自分の魂に合った食べ物を見つけられなかったという意味ではないか」という意見が挙げられました。
また別の参加者からは、「自分に合った食べものとは職業のことだったのではないか」という意見も挙げられます。
いずれも自分の存在と関わる糧、そんなものが見つからない中で逆説的にも自己の生を否定することに邁進する「断食」という行を芸にせざるを得なかったのではないかという意味が見えてきそうです。

そんな芸の真の意味が、しかし他者から理解を得られないことに芸人は常に苛立ちます。
しかし、そうであるにもかかわらず「断食」を貫く芸人には、「孤高の人」というイメージがあるとの感想も挙げられました。
たしかに、断食芸人の芸に対する「誇り」と観客や興行主たちとのズレに引っ掛かりを覚えます。
すなわち、それは断食という超人的な行に対する芸人自身の「誇り」と、その行に向けられる疑惑(「密かにつまみ食いしているんだろう」とか)や商売としての芸としか見られないことへの不満とのズレです。
こうした自分を特別と思いたい断食芸人の主観性と、しかしその自尊心が他者に承認されないことの物語。
ここで「自尊心」とか「誇り」という言葉が、この物語のキーワードとして浮上します。

ある参加者は、この物語は「強さと弱さの物語」だといいます。
その意見によれば、そもそも芸人というのは「」ともいわれるように、時代や国を問わずいつでも最底辺の人々であるとのことです。
そして、その最底辺にある人々が自己を失わないために必死に芸にプライドを持たざるを得ないのが、この断食芸人の姿だというわけです。
その証拠に、芸人が要所要所で自分以外の他者を馬鹿にする様が描かれます。
しかし、それは自尊心をもてない弱さの反転に他なりません。
弱き存在がかろうじて自己を保つための物語、その行としての断食を芸とせざるを得ない存在の物語。
そして、その姿は原発事故によって農業を失った結果、自死を選ばざるをえなかった農家の姿を思い起こさずにはいられないという意見も出されました。
フレンチ料理を職とする参加者によれば、それを失っては自分の存在も何もなくなってしまうもの、それが断食芸人にとっての芸であり、自分にとってはフレンチであると言います。
そんな自己の存在の根源と結びついた行、それが芸人にとって断食だということです。

しかし、断食とはそもそも芸なのか?
そんな疑問も提起されました。
それに対する解釈はいくつかに分かれました。
断食芸人自身の言葉よれば、「いかに断食がたやすことであるかであって、それはこの世で最もたやすいことといってよかった」となります。
しかし断食がたやすいはずがない、それは弱き存在が痩せ我慢的に放った言葉であり、断食とは何もできない人が生業にせざるを得なかった芸なのだ。
というのも、芸とは本来特別な才能や特殊能力を用いるものであって、断食という行はその意味で言うと誰でもできるという点で芸とは呼べないということです。
これに対しては、断食はやはり特殊な能力ではないかという解釈する意見も挙げられます。
そもそも断食芸人は現実に存在したのかという問いも投げかけられましたが、ある意見によれば、それは実在し、歴史的に見れ断食を行うものが聖者として崇められた時代から19世紀末には芸人として存在していたとのことです。
その中で、実は断食が精神的な疾患によって食べたくても食べられない人間が実際に存在したという指摘がなされました。
すると、これはある意味で特殊能力だということもできそうです。
いずれにせよ、この物語で言う「断食」が最底辺の弱きものが自分の存在を保つためせざるを得ない行なのか、それとも周囲とは異なる特殊能力のなせる行なのか、その解釈によって随分異なる読み方になりそうです。
いずれにせよ、他者から承認されないことの苦しさ、社会での生きにくさが断食を芸とせざるを得なかったのではないかということです。

では、この断食芸人にとってのゴールとは何だったのでしょう?
彼はサーカスの親方との対話の直後、息を引き取りますが、彼にとって断食による死がゴールだったのでしょうか。
そのような問いかけが為されました。
本文において断食芸人の最期の場面は次のように描かれます。

「とたんに息が耐えた。
薄れ逝く視力の中に、ともあれ断食し続けるという、
もはや誇らかではないにせよ断固とした信念のようなものが残っていた。」(池内紀訳)

池内紀訳と山下肇訳とでは、その訳語にかなりの違いがあります。
山下訳では「信念」ではなく「確信」と訳されています。
それだけで随分意味合いは変わるものです。
それにつけても、最期まで断食を貫いたという「信念」(「確信」)が消え入る視力の中に残されたということは、彼の断食芸は目的を果たしたということでしょうか?
それにしては死とともに藁くずと一緒に葬られたという惨めな最期とのギャップがあります。
いや、須らく死とはそんなものではないか、
たしかに彼は彼自身の価値を全うしたが、そもそも人生に目的を求めることがそもそも無意味だ。
あるいは、断食し続けることが目的であって、死んでは元も子もないのではないか。
そもそも断食の偉大さというのは、自ら生命の否定へ向かわせながら生き続ける緊張、というか矛盾にあるのではないか。
しかし、死は同時にその偉大さを無化することでもあります。
それが破綻したとき、しかし彼の目に残る「信念」は幸福を意味するのかどうか。
様々な解釈が提示されて、なお興味深い論点です。

一方、彼の死と同時に、彼に代わって檻には生命力みなぎる豹が入れられます。
この最後の場面に登場する「豹」もまた意味深です。

「断食芸人は藁くずと一緒に葬られた。
代わって檻には一匹の精悍な豹が入れられた。・・・豹にはなに不足なかった。
気に入りの餌はどんどん運び込まれた。
自由ですら不足していないようだった。
必要なものを五体が裂けるばかりに見に帯びた高貴な獣は、自由すらわが身に備えて歩き回っているかのようだった。
どこか歯なみのあたりにでも隠し持っているらしい喉もとから火のような熱気とともに生きる喜びが吐き出されていた。
見物人にとってそれを耐えるのは、なまやさしいことではなかったが、人々はぐっとこらえて、ひしと檻を取り巻き、一向に立ち去ろうとはしないのだった。」

この場面を、19世紀社会の文化の転換場面そのものだと解釈する意見が出されました。
それまで断食=禁欲という宗教文化が残っていたものが、まさに快楽主義に変わったという象徴が「豹」ではないかというのです。
この「豹」が何を象徴しているのか。
自由すら不足していない、生きる喜びに満ちている存在が檻に入れられていることの不可解さ。
哀れなほどみすぼらしい断食芸人の容姿とのコントラスト。
社会が断食芸に興味をもたなくなった時期、それとともに断食芸人が生きる目的でもあった観客を恐れるようになったというのは、社会の転換そのものを意味しているということでしょうか。
(たしかに、池内訳では「観客」が山下訳では「大衆」になってもいることも気になります。)
このあたりから断食芸人は「感じる能力のないものに、わからせるなどできるものではない」と、観客へ絶望していきます。
まるで自称天才の芸術家を思わせるような口ぶりです。
自分の作品の偉大さは、大衆ごときの趣味判断ではもはや計り知れないのだ、と嘯くかのように。
すると、芸とは芸人本人の思いだけで自立的に成り立つものなのでしょうか?
真の価値がわからない悪趣味な観衆など、真の芸にとっては不必要な存在だということになるでしょうか?
これは芸(術)とは何かという問いにも結びつきそうです。
ただ彼自身は、「探るような子どもたちの目の輝」だけには「栄光の時代の再来を予感させるもの」があると望みを見出すのですが。

さて、最後にこの「断食芸人」の物語が果たして寓話なのかという点について問いを提起させていただきました。
なるほど、カフカといえば一読してでは理解できない寓話作品が数多くあります。
この作品もその一つだとすれば、どのような意味が見出せるでしょうか。
ある物書きの参加者によれば、「書く」という表現行為は「書かざるを得ないから書く」という面があり、それは性に近いものではないかといいます。
だからといって、自分の書きたいものだけを書くなどということは稀であり、むしろ表現者にとって「書きたいもの」というものは朧気でしかないのではないかといいます。
カフカの場合もそうではないか。
彼が何かの意味を描こうと意図して寓話を書いたのではなく、書きたいことを朧気に浮かべながら物語を書くという方が真実に近いというわけです。
その意味で言うと、むしろそれが何を意味するかどうかは読み手にかかっているとも言えるでしょう。

それにしても、「書きたいから」ではなく「書かざるを得ないから」という表現は断食芸人の最期の「断食せずにはいられなかっただけのこと」という言葉と符合します。
その意味で言うと、生前は評価されなかったにもかかわらず、「書かずにはいられなった」カフカ自身が「断食芸人」そのものということも言えるでしょう。
ただし、この作品をカフカの私小説と評価することに対しては、この作品のおもしろさを著しく損なうということであまり賛成を得られなかったのですが。
その一方、私たちの生活に還元して考えてみるに、「就きたい仕事に就く」のではなく「就かざるを得ないから就いた」というのが私たちが仕事に就く際の実際かもしれません。
しかし、その過程で「誇り」や「存在価値」を自ら付与していくことで自身の存在を維持していく。
将来の就職に希望を抱く学生さんの前で歯切れ悪く、そんな意見を述べる社会人の言葉が印象に残りました。

カフカの不思議な世界に戸惑いを感じながらも、今回もまた豊かな思考の時間を過ごすことができました。
「断食芸人」の本質をめぐっては、その後の懇親会で引き続き性愛の問題などに展開するなど、とても興味深い論点がまだまだあることに気づかされたものです。
次回はAOZ(アオウゼ)で定例の哲学カフェです。
また皆さんとお会いできることを楽しみにいております。
会場をご提供いただいたサイトウ洋食店さまには心より感謝申し上げます。



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