てつがくカフェ@ふくしま

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第3回本deてつがくカフェ報告

2012年10月29日 01時02分45秒 | 本deてつがくカフェ記録
第3回本deてつがくカフェは13名の参加者が集い、サイトウ洋食店にて開催されました。
課題図書はジョージ・オーウェルの『動物農場』。
同書の冒頭タイトルには「おとぎばなし」と書き記されてありますが、旧ソ連の全体主義や権力闘争に対する風刺がきいた大人向けの内容となっています。
物語のストーリーとしては、農場主であるジョーンズ氏を農場から追い出し、動物達が自主管理で農場経営に取り組んでいくのですが、その反乱(革命)当初に打ち立てられた理念が頓挫していく過程が描かれます。

まずは参加者に自己紹介とともに、読後の感想を述べてもらうことから始められました。
「大衆の忘れっぽさや能力の異なる動物たちが国を作ることの難しさ。」
「石原新党がつくられようとしている現在の社会状況にマッチする物語だと感じた」
「スローガンの単純化は普遍的な原理主義の方法」
「民衆が体制に屈服していく過程がコワかった」
「読んでも感情移入できなかった。その理由として、なぜナポレオンが独裁者に変貌したのか、そのきっかけがよくわからなかったことがある」?」(ナポレオンは演説は苦手だが政治的根回しが上手く狡猾で、後に独裁者と化す雄ブタ。)
「「動物農場」はなんと旧い組織であるかと感じた。インターネットなど情報を入手する自由度が広がる現代からすると、今では考えられない話である」
「最後の場面で人間と動物の見分けがつかなくなった場面が印象的だった。」
「ナポレオンは人間になろうとしたのか?」
「一読してトロツキーとスターリンの権力闘争の風刺だと感じた。読後間もないので、それ以上の印象から離れて今は考えられない」
「この物語の悲劇性を救っているのはモリーの存在だ。いかなる体制になろうとも、自分の幸せを自分で見つけようとするモリーにゾッコンになった」(モリーはかわいらしいけれど頭が空っぽで、おしゃれ好きの白い雌馬。自分の欲求に負けてしばしば動物農場のルールや理念に反してしまう行動をとる。)
「人間の行動を動物に戯画化した物語だけれど、その背景にはキリスト教的な考え方が感じられた。日本の動物に対する文化であれば動物とは一心同体という感情を持ち、家畜を財産とみるようなこの小説の描き方には共感できないものを感じた」
「誰でも守れそうな掟(「七戒」)なのに、誰も覚えていない場面が特徴的だった」
「寓話は人間のことをうんとわかりやすく、混じりけなしに表現する。この小説にはザラザラしたリアリティがありすぎて、今も現実に起きているこの物語の状況をどうすればいいのかと思っている」
「自主管理の共同性は永続できないのか」

感想からは、さまざまな視点で全体主義や権力闘争の問題を描き出そうとするこの物語のユニークさが浮かび上がりました。
まず、「七戒」と呼ばれる動物農場の基本理念=ルールが、物語の進行とともにいつのまにか変更されていく様は、私たちの現実場面でいくらでも目にします。
原発事故以前には厳格に守られていた被曝放射線量の許容限界値が、事故勃発とともに変更されていったケースや、復興予算がいつの間にか被災地以外に用いられていた事実。
あるいは、「社会福祉と消費税の一体改革」をうたって成立したはずの消費税増税法案が、いつのまにか差し込まれた「附則」によって公共事業へ用いることが可能にされてしまった事実。
物語は大衆の「忘れっぽさ」が頻繁に描いていますが、そればかりではなく、法が「いつのまにか」改変(改竄?)されていることへの恐ろしさが、議論の中ではしばしば話題に挙げられました。
また、東電提供の地方TV番組のように、原発に対するイメージ操作は以前から存在したけれども、最近目立つ政府提供の公共放送にもプロパガンダ的な要素があり、派手ではなくても視聴者にじりじりと浸透していく効果があるのではないかという意見も出されました。
やはり、どうしても原発事故という現実と重ね合わせて読まずにはいられない内容のようです。

そのような議論の過程で、論点はいくつかに絞られていきました。
まず、「自主管理の共同性は永続できないのか」という問いに関して。
革命の同志とは一つの同じ目的に向かうものたちのことですが、この物語では独裁者ナポレオンの独裁によって一変します。
それに関して、やはり全世界の人々(動物たち)が同じ目的で一致するのは困難なのではないかという意見が出されます。
たしかに、物語の中では革命を成就した動物農場の動物達が、同じ奴隷状況にある他の農場の動物達や、自然に生きる野生の動物達にまで「動物の平等」と、人間支配からの解放を共有しようと訴えかけますが、なかなかよい反応が得られません。
なるほど、その理念に理解は示すけれどもなかなか動こうとしない人々に苛立ちを覚えるのは、現実社会でも社会運動に携わる人々にとってはリアルな状況ではないでしょうか。
しかし、それに対しては、むしろ目的はみんな共有できるけれども、その実現の方法が一致しないということではないかとの意見も出されます。
世界中の誰もが自由や平等や平和といった理念を求める点では一致できるでしょう。
しかし、いざその理念を実現しようとすると、あるものは武力を用いて実現しようとするし、またあるものは非暴力で実現しようとするものもいます。
動物農場に関して言えば、人間支配からの解放と動物の平等という革命時の理念では一致していたけれども、その実現過程で徐々に分裂が生じてきたという点では、手段の不一致にあるのではないかということです。

しかし、これに対しては、そもそも権力闘争のライバルであるナポレオンとスノーボールは、はじめから目的が一致していただろうかという疑問も出されました。
というのも、はじめからナポレオンは野心家として描かれており、革命当初から秘密警察や親衛隊を髣髴とさせる「犬たち」を密かに育て上げています。
そんなナポレオンが動物農場の理念をはじめから目指していたとは思えない、むしろ革命当初から自分が支配者になることを目論んでいたのではないかというわけです。

では、こうしたナポレオンの独裁体制以外に、革命の理念を実現・継続できた組織や共同体の可能性はなかったのでしょうか。
これについては独裁者がすべてを統括するピラミッド型ではなく、各人が得意分野をそれぞれに活かしながら成り立つ「惑星」型の組織が提案されました。
それによれば太陽系のように太陽を中心におきつつ、しかし支配関係にはない水平的な関係性を保持する組織です。

そうはいっても「もしもリーダーが○○だったら」という空想は尽きません。
たとえば、もしも動物農場のリーダーがボクサー(他の動物たちから尊敬されていてナポレオンも一目置く。ひたすら真面目に働く律儀者の牡馬だが、物覚えはよくない)だったらどうだろうか、あるいは、まだ人望や知性もあったスノーボール(ナポレオンとともに動物農場のリーダー的存在であったが、権力闘争の末にナポレオンに追放される)であればどうだろうか。
もしもスターリンではなくトロツキーだったら…という議論を思い起こします。
それぞれのキャラクターの特徴を踏まえながらもその可能性も議論されました。

しかし、結局それは強いリーダー待望論に結びつくし、たとえ誰がリーダーになったにせよ、うまくいかなかったのではないかとの意見が出されます。
個人的な意見を付け加えさせてもらえれば、そこに人間の行為や共同作業の根深い問題が潜んでいるからではないでしょうか。
つまり、人間の営みはモノの制作とはことなり、いくら目的に向かって設計どおりに進めても、必ず齟齬をきたすという性質があるからではないかということです。
その性質とは、すなわち人間は理性的であると同時に気まぐれで予測不可能に満ちた存在だという点です。
もし、一者がある理念をもとにした社会設計どおりに進めれば、それは自ずと予測不可能性を本質とする人間性に暴力性を働かせざるを得ないことに至ります。
さらにいえば、それは目的というよりも方法の一元化によって引き起こされ、そしてそれが物語の悲劇的な顛末をもたらしたのではないでしょうか。

では、誰がなっても動物農場の行く末はけっきょく破滅的な未来だったとすれば、いったいどうすればよいのでしょう。
これについては、革命初期の動物農場に生まれた幸福感が継続することはできなかったのかや、誰がリーダーになってもその幸福感が永続する仕組みとは何かが問われました。
その問いについては、能力の異なる人々がいかにして一緒に社会作りに取り組めるのかと表現した意見もあります。
動物農場の物語では、理知的な動物から愚鈍な動物まで様々なレベルが存在します。
当初、革命の意義やその理念を現実化するために、すべての動物の識字率を上げるためのい努力もなされました。
しかし、それはいつのまにか失われていき、むしろその愚鈍さは法や歴史の改竄に利用されていきます。
それでも、現実の私達の民主主義社会では、いちおうある程度の能力は同等であるとみなしているのが原則であるし、やはりそれに向けた教育こそが重要な役割を果たすと野意見が出されます。

また、革命が必然的に独裁体制や全体主義体制に結びつく病理をもつものだとするならば、革命に関与した人物は以後の国家建設には関与しないという原則を確立すべきではないかとの提案もありました。
つまり、革命によって旧体制を破壊する原理と、その時点での理念を引き受けつつも新たな社会建設に取り組む原理ではおよそ異なっており、そこは切断することで革命以後の社会作りから暴力の要素を排除するという仮説的提案です。

そのことを、革命を起こした側が自らの行動を正当化することが粛清などその後の暴力的要素を生み出す原因だと指摘する意見も出されます。
何事においても、政治は自らの政策や選択を正当化せざるを得ません。
そもそも正当化できない政策など支持もされなければ、事後的に持ちこたえることはできないでしょう。
しかし、その意見によればその正当化そのものが、革命の理念の永続化を阻むのだということになります。
いわば、革命側が行使する権力のやましさというものです。
たとえば、アメリカの広島・長崎原爆投下は一般市民の大量虐殺を引き起こしましたが、その選択でさえもアメリカ側は歴史的な正当化を行って言うことはいうまでもありません。
しかし、そこに大量虐殺という「やましさ」が含まれている以上、いくら革命の理念や正当性を主張してもいずれ破綻する要素が含みこまれており、むしろそれを隠蔽しようとすればするほど、物語が描く悲惨な結末を招かざるをえないのだというわけです。

さて、議論は歴史の進歩という論点についてもふれられました。
なるほど、動物農場に診るまでもなく、歴史上革命は同じことの繰り返しで、理念を掲げ理想的な社会が実現されたかと思えば、その後は腐敗していく例に事欠きません。
そのことに失望感を示す意見も出される一方、それでも人間の歴史は進歩しているのだと見なす意見も出されました。
いくら物語りに描かれる情報統制や粛清がリアルに思われるといっても、てつがくカフェで政治批判をしたことで粛清されることはまずないでしょう。
あるいは、情報公開の制度化はまだまだ不十分だとはいえ、政府情報の秘匿をよしとしない原則を現実化しています。
「人権」という概念によって、やはりそれが不完全ではあるにしても、私達はかつての民衆とは比較にならないほどの自由を享受できると評価しても差し支えはないでしょう。
すると、どんなに革命が暴力を繰り返す出来事だとしても、以前よりは少しでもましになっていると思いたいというわけです。
とはいえ、平和な日本社会といえども、公権力によって社会的に抹殺されるという意味での粛清は現実化していないでしょうか。
それについて議論では、大阪市職員のタトゥー禁止問題など幸福追求権という憲法レベルの問題を残したままその地位を追われる事態が話題に上げられましたが、そのような見方は果たして深読みだといえるでしょうか?

粛清の話題に関しては、若い世代から暗殺などモヤモヤする状況が飛び交うなら、いっそ戦争のほうがましだという過激な意見も飛び出しました。
この意見に対しては、一笑に伏せない深刻な事態が見出されるとの意見が出されます。
というのも、社会の複雑化や価値観の多様化によって閉塞感が増幅する中、若い世代も戦争など分かりやすい事態に救いを求める傾向は、けっして珍しいことではないといいます。
だからこそわかりやすく、単純化されたスローガンを連呼する強いリーダーに惹かれてしまうのだし、そこに『動物農場」の現在的なリアリティがあるのだというわけです。
しかも、忘れっぽい大衆は、そのリーダーがかつてどのような発言をし、どのような行動を取ったかはすでに忘れてしまっている。そこに民主主義社会が全体主義に結びつく弱点があるということでしょう。

終盤の議論は「あるべき組織論」をテーマに議論を深めてほしいとの要望が出されたものの、話題は「革命による犠牲」の問題を中心に展開してしまいました。
ある参加者は犠牲の意味を辞書で調べたところ、ある目的のために身を挺することだと知り、それまでの悲愴的なイメージから尊さを感じるようになったといいます。
その点で言えば、動物農場の目的のために愚直に働き続けるボクサーの姿には崇高さを感じるものでしょう。
参加者の中には、全体主義=悪というイメージは否定しないものの、そのような社会体制の中で愚直に努めた人々の生き方を軽んじるわけにはいかない、むしろそのような人々は幸せであったかもしれないといいます。
なるほど、過去の独裁や全体主義体制に対して、われわれはそこで生きた人々を不幸であったと評価しがちです。
しかし、そのような歴史的評価はあと知恵に過ぎないともいえるでしょう。
では、ボクサーは幸福であったのか?
たしかに彼は幸せであったかもしれません。
世のため人のため身を捧げることに、ある種の幸福感が伴うことは誰しも経験があるのではないでしょうか。
その姿は周囲から見ても、やはり賞賛に値する姿でもあります。
その意味で、動物農場が目指す公の目的とボクサー個人の目的は一致し、その目的のためには自分の生命も省みなかったボクサーの姿はやはり崇高であり、実際、物語の中でも彼は動物たちから尊敬される存在でした。
しかし、たとえそうであっても、ボクサーの生き様にはやはり手放しで「よい生き方」だったと言い切れない悲壮感があります。

これに対しては「無知」であることの不幸を指摘する意見が出されました。
無知であることが生み出す不幸といえばよいでしょうか。
それは主観的には幸福であったかも知れなけれども、その主観的な目的と客観的な公の目的との一致がすべての動物に要求されたときに、社会全体が無類の暴力をふるう様を想像できるからではないでしょうか。
むしろ、モリーのように公の目的に適応できず蔑まれる姿にこそ、人間らしさ(動物らしさ?)を感じてしまうものです。
全体主義の恐ろしさというのは、むしろ個人が主体性によってあたかも誰にとっても当然視一致すべきものとされるところにあるものでしょう。

これに対しては、様々な歴史を経験してきた人間は、いまやここで描かれるほど無知ではないだろうとの意見も出されます。
そして、現段階では多様な人間は違ったままでいながら、同じ目的を共有できる社会をどのようにして作っていけるかという課題があるのではないかというわけです。

それでも昨今のリアル政治の状況を見ていると、ほんとうに社会は変っていけるのか不安であるという意見も出されました。
そのためにもやはり教育の重要性が訴えられます。
その中で、日本国憲法前文に触れる意見もありました。
起草者の夢と政治を推し進める政治とのずれという問題は、動物農場の変貌の過程に重ね合わせることもできるかも知れません。

ところで、今回のカフェではしばしば哲学の力という問題に触れられました。
ある参加者によれば、哲学とは経験を積み重ねていくことでその内容に深みを増すものであり、
意味の分からない文章でもある日突然、その意味が分かる瞬間が訪れたりするものだといいます。
別の参加者からは、3.11を経験した後では、そんな哲学の力こそ必要であると確信するとの意見も出されました。
では哲学の力とは何でしょうか。
ある参加者によれば、哲学にできることとは結局、ものの見方や考え方にしか関われないのだけれど、それによって世界や社会が変っていく可能性を担保できるかもしれないといいます。
生活の中で忘れっぽい大衆の性質が指摘されましたが、まさに考え方を示していくだけでなく、それについて議論を交し合えるカフェという空間こそは、民主主義の原点であるとも考えさせられものです。