インターネットでワイマールと検索したら「ワイマール 麻生」とか「ワイマール ナチス 麻生」という選択肢が出てきました。日本人は本当にナチのたとえが好きなものだと呆れます。
さて,ワイマールのゲーテハウスも1994年12月に行って以来,実に20年近く経ってからの2回目の訪問です。
随分と入り口が近代化されたものと感心します。
ゲーテが使っていた馬車は,昔は貴重な展示品だったのに,今ではどうでもいい物のようで,入り口の近くの真っ暗な土蔵のようなところに打ち捨てられていました。路上に並ぶ観光馬車の方がよほど立派です。
ゲーテが「もっと光を」と言って息を引き取ったベッドも,今やその部屋に立ち入れないようになっています。
それと,最近できたと思われるシュテファン・バルケンホール作のゲーテの彫像もありました。
ゲーテはワイマールに招聘され,ここで政治にも携わり,意欲的に活動をしました。もっとも,ゲーテの活動が意欲的だったのは首から上だけではなく,下半身も含めてでありまして,年をとってからも若い女の子が大好きだったゲーテは,その意味では志村けんや加藤茶ともあまり変わらないような気もします。
話は変わりますが,たまたま今日の美術カレンダーも,フランクフルトのシュテーデル美術館に収蔵されているアンディ・ウォーホル作のゲーテでした。ティッシュバイン作の有名なゲーテの絵がベースでしょうか,今回の旅行の最終日にはシュテーデル美術館に行って,ウォーホル作とティッシュバイン作の両方のゲーテを見ました。後日紹介します。
閑話休題
ところで,私はこのワイマールのゲーテハウスを見ると,思い出すことがあります。私が最初に訪れた1994年の時点では,天安門事件からまだ日が浅かったため,中国は欧米諸国からまさに四面楚歌状態でした(今でも,世界の鼻つまみ者という気もしますが。)。天安門事件はPeking Massakerと呼ばれ(因みにNanking Massakerは日本の南京大虐殺です。),李鵬がドイツを訪問し,ワイマールのゲーテハウスを訪問した際には,ドイツの精神を侮辱するのかと抗議する大規模なデモが開かれ,その様子はニュースでつぶさに知ることができました。このことは当時の情勢を考えれば,よく理解することができます。東ドイツの社会主義体制は,ソ連から見捨てられたこともあり,自然と崩壊してくれたのに,中国は何のためらいもなく夥しい市民に発砲して,それによって体制の延命を図ったのですから。中国の天安門事件に対するドイツ人の目はとりわけ厳しいものがありました。
1989年は1848年と同様に世界史の曲がり角ではありましたが,うまく曲がりきった国もあれば,曲がるのを拒否して自国民を車輪でひき殺して突き進んだ国もあるようです。
そして,それから年月が経ち,中国は天安門直後には先進国の中では唯一友好的な態度を取っていた日本をうまく使いながら,他方で,自国民向けには民主化の代わりに愛国教育という奇妙な論理のすげかえを行った上で,経済的には驚異的な発展を遂げました。今ではヨーロッパの各都市には中国人観光客が我が物顔で跋扈するようになり,ヨーロッパ諸国も中国という資本主義でも社会主義でもない拝金主義としかいいようのない国家,そして人権や個人の尊厳といった概念とは両立しえないこの不可思議な国家に嫌悪感を抱きながらも,そのマネーの前に迎合するしかなくなってきました。
ゲーテハウスを再訪して何とも深い嘆息が出ました。
さて,ワイマールのゲーテハウスも1994年12月に行って以来,実に20年近く経ってからの2回目の訪問です。
随分と入り口が近代化されたものと感心します。
ゲーテが使っていた馬車は,昔は貴重な展示品だったのに,今ではどうでもいい物のようで,入り口の近くの真っ暗な土蔵のようなところに打ち捨てられていました。路上に並ぶ観光馬車の方がよほど立派です。
ゲーテが「もっと光を」と言って息を引き取ったベッドも,今やその部屋に立ち入れないようになっています。
それと,最近できたと思われるシュテファン・バルケンホール作のゲーテの彫像もありました。
ゲーテはワイマールに招聘され,ここで政治にも携わり,意欲的に活動をしました。もっとも,ゲーテの活動が意欲的だったのは首から上だけではなく,下半身も含めてでありまして,年をとってからも若い女の子が大好きだったゲーテは,その意味では志村けんや加藤茶ともあまり変わらないような気もします。
話は変わりますが,たまたま今日の美術カレンダーも,フランクフルトのシュテーデル美術館に収蔵されているアンディ・ウォーホル作のゲーテでした。ティッシュバイン作の有名なゲーテの絵がベースでしょうか,今回の旅行の最終日にはシュテーデル美術館に行って,ウォーホル作とティッシュバイン作の両方のゲーテを見ました。後日紹介します。
閑話休題
ところで,私はこのワイマールのゲーテハウスを見ると,思い出すことがあります。私が最初に訪れた1994年の時点では,天安門事件からまだ日が浅かったため,中国は欧米諸国からまさに四面楚歌状態でした(今でも,世界の鼻つまみ者という気もしますが。)。天安門事件はPeking Massakerと呼ばれ(因みにNanking Massakerは日本の南京大虐殺です。),李鵬がドイツを訪問し,ワイマールのゲーテハウスを訪問した際には,ドイツの精神を侮辱するのかと抗議する大規模なデモが開かれ,その様子はニュースでつぶさに知ることができました。このことは当時の情勢を考えれば,よく理解することができます。東ドイツの社会主義体制は,ソ連から見捨てられたこともあり,自然と崩壊してくれたのに,中国は何のためらいもなく夥しい市民に発砲して,それによって体制の延命を図ったのですから。中国の天安門事件に対するドイツ人の目はとりわけ厳しいものがありました。
1989年は1848年と同様に世界史の曲がり角ではありましたが,うまく曲がりきった国もあれば,曲がるのを拒否して自国民を車輪でひき殺して突き進んだ国もあるようです。
そして,それから年月が経ち,中国は天安門直後には先進国の中では唯一友好的な態度を取っていた日本をうまく使いながら,他方で,自国民向けには民主化の代わりに愛国教育という奇妙な論理のすげかえを行った上で,経済的には驚異的な発展を遂げました。今ではヨーロッパの各都市には中国人観光客が我が物顔で跋扈するようになり,ヨーロッパ諸国も中国という資本主義でも社会主義でもない拝金主義としかいいようのない国家,そして人権や個人の尊厳といった概念とは両立しえないこの不可思議な国家に嫌悪感を抱きながらも,そのマネーの前に迎合するしかなくなってきました。
ゲーテハウスを再訪して何とも深い嘆息が出ました。