いつの間にか1月も最後となりました。
本来1月9日の時に書くべき記事を落としていたことに気づきましたので,遅ればせながら書きます。
1月9日は,南宋末期に活躍した文天祥がクビライ・カーンの命によって処刑された日です。
文天祥は1236年生まれ。1258年に進士及第(科挙試験合格)。科挙の首席合格者のことを状元といいますが,文天祥も首席合格であったため,その後,文状元と呼ばれることもあります。
文天祥が進士及第となった年には,既にモンゴル帝国によって金も滅ぼされており,南宋も常にモンゴルに脅かされることになります。文天祥は丞相の賈似道(賈似道は諸葛孔明の顰みにならって出師の表を書いて出陣しましたが,モンゴルに惨敗しています。)の覚えが悪かったこともあり,辞職を余儀なくされたりしますが,モンゴルとの戦いの中で軍を率いて戦うようになります。
文天祥はモンゴルに捕らえられますが,その才能を惜しんだクビライ・カーンから辛抱強く帰順を要求されます。しかし文天祥はこれに頑として応じず,クビライも最終的に文天祥の処刑を命じることになります。1283年1月9日,文天祥は処刑されました。
日本でも文天祥は,浅見絅斎が紹介して以来,幕末期,そして明治以降も忠臣の鏡としてもてはやされます。そのためか,日本では,文天祥やその作の「正気の歌」は,どうも右翼がかったイメージになってしまっているのはいささか残念です。
【余談】
浅見絅斎が特に賞賛した人物は,文天祥よりもむしろ明代の方孝孺(永楽帝に「燕賊簒位」と大書した書を渡し,処刑された人物)であったような記憶です。
そのうち,方孝孺のことも取り上げたいと思います。
本来1月9日の時に書くべき記事を落としていたことに気づきましたので,遅ればせながら書きます。
1月9日は,南宋末期に活躍した文天祥がクビライ・カーンの命によって処刑された日です。
文天祥は1236年生まれ。1258年に進士及第(科挙試験合格)。科挙の首席合格者のことを状元といいますが,文天祥も首席合格であったため,その後,文状元と呼ばれることもあります。
文天祥が進士及第となった年には,既にモンゴル帝国によって金も滅ぼされており,南宋も常にモンゴルに脅かされることになります。文天祥は丞相の賈似道(賈似道は諸葛孔明の顰みにならって出師の表を書いて出陣しましたが,モンゴルに惨敗しています。)の覚えが悪かったこともあり,辞職を余儀なくされたりしますが,モンゴルとの戦いの中で軍を率いて戦うようになります。
文天祥はモンゴルに捕らえられますが,その才能を惜しんだクビライ・カーンから辛抱強く帰順を要求されます。しかし文天祥はこれに頑として応じず,クビライも最終的に文天祥の処刑を命じることになります。1283年1月9日,文天祥は処刑されました。
日本でも文天祥は,浅見絅斎が紹介して以来,幕末期,そして明治以降も忠臣の鏡としてもてはやされます。そのためか,日本では,文天祥やその作の「正気の歌」は,どうも右翼がかったイメージになってしまっているのはいささか残念です。
【余談】
浅見絅斎が特に賞賛した人物は,文天祥よりもむしろ明代の方孝孺(永楽帝に「燕賊簒位」と大書した書を渡し,処刑された人物)であったような記憶です。
そのうち,方孝孺のことも取り上げたいと思います。