道楽ねずみ

ドイツに関するものを中心に美術展,オペラ,映画等の趣味の世界を紹介します。

高須四兄弟~幕末維新を生き抜いた大名家の兄弟1(新宿歴史博物館)

2014年10月26日 | 美術道楽
新宿歴史博物館で高須四兄弟展を開催していますが、その関連のイベントとして、この博物館が、平成26年度歴史講座 「高須四兄弟~幕末維新を生き抜いた大名家の兄弟~」と題する講演会を開催しています。5回に渡る通しの講演を聞く内容で、競争率の高い中を無事に当選しましたので、まず第1回目の回に行って参りました。

第1回目は、10月25日(土)に開催され、中岡進氏(若松城天守閣郷土博物館副館長・学芸員)による「会津藩主・松平容保について」と題する講演でした。

奥州藤原氏の時代からの会津の位置づけ、戦国時代から徳川幕府の時代までの会津の支配者の略歴、保科正之の幕府における活躍ぶりなどをうかがった後、松平容保の先代の藩主が会津に養子に来た経緯、松平容保が養子になった経緯などうかがいました。そして、容保が京都守護職を引き受けさせられた経緯や孝明天皇からの手紙をもらった話、禁門の変の話、それと白虎隊の話などもうかがいました。
特に面白く感じられましたのは、保科正之の活躍の話でした(講師の先生も、手放しで褒め称えることのできる保科正之の話の方が本当はお好きだったのかもしれません。)。
松平容保が、春嶽から会津家訓(かきん)を持ち出されて京都守護職を引き受けてしまったことの解説には、会津の人の立場から見てもお家が存続するか否かという場面で家訓もないだろうにという気持ちもおありのように感じられました。
容保は孝明天皇からいろいろ物をもらって感激していましたが、天皇から衣を賜ると言うことは実はそんなに珍しいことではなかったとか、孝明天皇は御宸翰も乱発していたとか初耳で大変興味深く思いました(容保は天皇から直筆の御製の歌も頂戴していたようですが、こちらの方は非常に稀なことであったということです。)。

次回は一橋茂栄の話です。

ウィルヘルム・デ・クーニング展(ブリジストン美術館・中央区京橋)

2014年10月15日 | 美術道楽
ブリジストン美術館にウィルヘルム・デ・クーニング展を見に行きました。
あまり名前を聞かない画家ですが、抽象絵画であること、アメリカではあのジャクソン・ポロックと並び称されるほどの存在であること、しかもこれまたあのキミコ・パワーズのコレクションをベースにしていることを聞けば、道楽ねずみとしては出かけない訳にいきません。
それほど沢山の作品が展示されていたわけではありませんが、デ・クーニング展はやはり出かけてよかったと思いました。
形のなくなり方の程度は様々で、最初に展示されている《マリリン・モンローの習作》などは、まだまだ形がわかりますが、多くの作品はもう何を描いたのか分からなくなっています。それでも女性を描いた絵では、口紅を塗った大きな口を描いていることが多く,そこだけは分かることが多いような気がします。人物を描いた絵は女性ばかりであったようです。
色使いはピンク系統の色が多く、例外的に黄緑色ベースの作品もありました。
その中で、色使いが少なく、落ち着いた感じを受ける、他の作品とは別の印象の作品もありました。この作品はいいなと思いましたら、デ・クーニングがパワーズ夫妻に送った作品のようです。こんな作品を送ってもらえるパワーズ夫妻は、本当にすごいコレクターだったのだと実感することができました。


デ・クーニング展にあわせて常設展も抽象絵画に焦点を絞ったコーナーがありました。「セザンヌ、キュビズムから抽象絵画へ」、「ピエール・スーラージュ―新収蔵の作品を中心に」、「堂本尚郎とザオ・ウーキー」とそれぞれ題するコーナーでは、各種の抽象絵画が展示されており、道楽ねずみは大喜びです。特にザオ・ウーキーの作品がよく思われました。ブリジストン美術館といえば印象派と思っていましたが、本当は層の厚いコレクションをしているようです。

企画展、常設展とも気に入りましたので、再度出かけようと思います。

東山御物の美―足利将軍家の至宝―(三井記念美術館)

2014年10月14日 | 美術道楽
日本橋の三井記念美術館で開催中の「東山御物の美」と題する展覧会に行きました。

東山という名からも連想されますように、足利将軍家のコレクションを構成していたものの展覧会でして、「東山」といいましても足利義政だけではありませんし、何せコレクションの主体が足利将軍家なのですから、その後今日に伝わるまでに徳川将軍家等々の手を経ており、現代になってからの所有者も三井家だけでもなかったようで、根津美術館の所蔵品なども展示されていました。

展示は、主として茶器と絵画に分かれておりました。その中で後者はさらに、中国の皇帝が愛した宮廷画院画家の作品と禅宗の絵画(牧谿や玉潤など)に分かれておりました。
李迪筆の雪中帰牧図(大和文華館所蔵)、紅白芙蓉図(東京国立博物館所蔵)、牧谿の羅漢図(静嘉堂文庫美術館)、さらには宋の亡国の皇帝徽宗の作と伝えられる鴨図(五島美術館)なども観ることができました。
しかし、私には、ヒビが入ったものと同様のものを新調しようと後世になってからの中国に製作を依頼したものの、もはや新たに製作する技術はないとして、かすがいで修復して送り返されたという青磁輪花茶碗が一番印象に残りました。

アート・スコープ2012-2014 旅の後もしくは痕(原美術館・品川区北品川4丁目)

2014年10月13日 | 美術道楽
原美術館で開催中のの展覧会「アート・スコープ2012-2014」―旅の後(あと)もしくは痕(あと)と題する企画展を見に行きました。ダイムラー・ファウンデーション ジャパンと原美術館主催で,特定非営利活動法人アーツイニシアティヴトウキョウ(AIT)の協力ということです。日本とドイツの間で互いに現代美術のアーティストを派遣・招聘し、異文化での生活を体験しながら交流をはかることを目的とするダイムラー・ファウンデーション ジャパンの文化・芸術支援活動「アート・スコープ」プログラムの一環として開催されたものです。

展示されているのは2012年にドイツから招聘されたリタ・ヘンゼンとベネディクト・パーテンハイマー、2013年に日本から派遣された村遼佑と大野智史の合計4名の作品です。

リタ・ヘンゼンの作品は、和紙のドローイングを重ねたインスタレーションや《天より落つ》と題する、床に紙の球体をばらまいた作品が興味深く感じられました。


《天より落つ》




ベネディクト・バーデンハイマーの作品は、日本人の芸術家を後ろ向きに撮影した《方向転換》と題する作品が興味深かったです。

《つかの間の記念》

都内の場所を転々としますが、これは水道橋の界隈でしょうか。



《方向転換/杉本博司》



《方向転換/会田誠》

六本木の森美術館でしょうか。





今村遼佑

《風と凧(炭酸水、時計、窓の外》



《風の強い日#2》




部屋全体の様子



大野智史の作品は、絵画でもっともなじみ易い作品でしたが、写真がありません(写真撮影が許可されていなかったのかあるいは最初に観た作品で写真撮影が原則許可であることを知らなかったため。)。



パルジファル(新国立劇場・渋谷区本町)

2014年10月10日 | オペラ道楽
新国立劇場でオペラParsifalを見ました。
前にオペラトークのところでも書きましたが、新国立劇場のオペラ芸術監督が飯守泰次郎監督に交代してから最初のオペラですし、新国立劇場がワーグナーのメジャーなオペラ作品(つまり、初期の作品で今日では上演されなくなっているものを除いた作品)の中で今まで唯一上演していなかった作品の上演ということもあり、注目されていた上演でした。

見た感想なのですが、結論から書きますと、オケはまだ改善の余地がありますが、歌手と演出はとてもよかった(演出は一部変と思うところもないわけではなかったのですが。)という印象です。

演出ですが、特徴的なところは、聖杯の王アムフォルタスをとても弱い人間として、そして聖杯の騎士をとてもエゴイスティックに描いているということです。
舞台は中央に何度も折れ曲がった道が置かれていまして、ほぼそのセットで統一した舞台です。
第一幕目の幕が上がりますと、なぜか折れ曲がった道の奥の方に3人のお坊さんがいます。もちろん台詞はありませんが、舞台の重要な場面ではこのお坊さんたちが登場します。あたかも「ニーベルングの指環」のラインの乙女たちのようです。ニーベルングの指環を意識した演出のように思いましたが、そもそもパルジファルとニーベルングの指環では、聖槍とヴォータンの槍、クリングゾルとアルベリヒの去勢などストーリーの面でも共通するアイテムやエピソードが用いられているので、ニーベルングの指環との共通点を感じたのはある意味で当たり前のことかもしれません。
さて、舞台が聖杯の城に移りますと、舞台場面と観客との間には薄いヴェールが存在しています。こうしてみると聖杯の城は「可視化」の進んでおらず、不透明で窒息しそうな世界に見えます。辛気くさいアムフォルタスをヴェール越しにみていますと、この世界ではいいことは何も起きないような気がしてきます。この王とエゴイスティックな騎士たちでは、いかにも悪いことが起きそうな予感がしてきます。ここは、不道徳な行いをしてしまったオイディプス王が支配するテーバイなのかと思ってしまいます。
そして、グルネマンツの眠気を誘う歌が続いた後、ようやくパルジファルの登場です。
パルジファルは聖杯を、ファッションショーの舞台の脇でかぶりつくような姿勢で見ていますが、途中ですごすごと後ろに行きますし、子供が杯を持って走っていくのを受け止めることもできません。パルジファルは、聖杯を気にしながらも何もできません。パルジファルの魯鈍な様子がよく表されていると思います。

第2幕は動きがあります。聖杯の騎士の仲間に入れてもらえず、自ら去勢したという異教徒のクリングゾルとその配下として働かざるを得ないクンドリーとのやり取りから始まります。クンドリーはクリングゾルを童貞と冷やかします。ここでのクンドリーは下着が見えてかなり妖艶です。クリングゾルはクンドリーの股間の間に槍を突き立てたりと、この槍、それと槍を表すような舞台の上の矢印形のセット(ほかの場面で出てきますが、アムフョルタスはこの矢印形のセットの上でいたことが多いようです。)は、いずれも男性器と関係があるのかなどと想像も沸きます。
そして、つぎにクンドリーとパルジファルとやりとりに移ります。「ファル・パルジ」などと軽薄な芸能人が発言するような台詞もでます(オリジナルの台詞です。)。パルジファルは、ファルパルジ、つまりアラビア語の聖なる愚か者にもかけているのだそうです。もちろん、パルジファルの名前は、本来的にはアーサー王を守護する円卓の騎士の一人パルツィヴァール(パーシヴァル:この人名は戦前の方には山下奉文が破った英国の将軍の名として知られていると思いますが。)が語源と思いますが・・・。
パルジファルはクンドリーの口づけを受け、なぜかそれだけで直ちにアムフォルタスの苦悩などなどすべてのことを悟ります。そして、自らの使命を自覚し、クリングゾルと対決し、その槍を受け止め、手に入れて、クリングゾルは滅びます。

第3幕目、またグルネマンツが登場します。ここで、パルジファルが出てくるまでが長く、グルネマンツの説明の歌で再び眠くなります。パルジファルはクンドリーに洗礼を施しますが、ここで登場するクンドリーは第2幕目の妖艶なイメージとは一転して、敬虔なキリスト教徒のイメージです。パンフレットにも書いてありましたが、まさしく「マグダラのマリア」です。
そして、先王ティトゥレルの葬儀が執り行われる聖杯の城に舞台が移りますが、相変わらず城は不透明なヴェールに覆われています。アムフォルタスは、先王ティトゥレルの棺を前にしても、痛みを伴う聖杯の儀式を執り行うことを拒否しますが、多数の騎士達に取り囲まれ、強引に持ち上げられ、力ずくで儀式を行うことを強要されます。ここでは、騎士達に聖なる要素など皆無で、自分のことしか考えていない極めてエゴイスティックな存在に描かれています。
そこにやっとパルジファルが現れ、聖槍でアムフォルタスの傷を癒し、アムフォルタスの代わりに聖杯の儀式を執り行いますが、アムフォルタスは息絶え、パルジファルは自らも袈裟のような布を纏い、クンドリーとグルネマンツにも同じような布を掛けて、舞台後方の3人のお坊さん達のもとに去っていきます。


以前のオペラトークの記事でも書きましたが、そもそも絶対的な善悪がないのがパルジファルのストーリーですが、演出として特徴的でしたのは、クンドリーの取り扱いです。パンフレットにも「マグダラのマリア」のようであると書いてありましたが、まさしくその通りです。善行も悪行も行い、特に2幕目では悪の面が強調された役回りになりますが、3幕目では最終的に洗礼を施され、完全にパルジファルの使徒になります。マグダラのマリアとイエス・キリストが夫婦であったかどうかは知りませんが、クンドリーはひょっとしたら今後パルジファルの妻のような存在になっていくのかもしれないなどとも考えてしまいました。いずれにせよ、パルジファルのもたらす新たな世界において重要な役割を果たす人物であることは間違いなさそうです。クンドリーは、本来、十字架にかけられたキリストを嘲笑したために呪われ、何度も生まれ変わって大変苦しい人生を歩まなければならない運命にある女性で、仏教の輪廻転生のイメージから作られた存在ということなのですが、この演出ではクンドリーは輪廻転生しないことによって救済されるのではなく、普通に現世の中で新たな世界で救済されるのですから、最終的には仏教的な要素からは離れていくように思われます。

これに対し、代わって滅びるのはアムフォルタスの方です。いったいアムフォルタスと騎士達は何なんだろうと思います。アムフォルタスは性欲に負け、痛みに苦しんで駄々をこね、騎士達も自分の利益のためにはアムフォルタスの苦しみなど全くどうでもよいようです。最後は、クンドリーが死なない代わりに、アムフォルタスは息絶えてしまいますので、アムフォルタスの方はマイナスのイメージばかり強くなります。その上,最終的に、パルジファル,クンドリー、グルネマンツの3人は聖杯の騎士達のもとを離れ,お坊さんたちの側に向かうのですから、聖杯の城の世界もクリングゾルの世界と同様に滅びてしまうか、少なくとも廃れてしまうのでしょうか(これもニーベルングの指環の最後でワルハラが炎上するのとイメージが重なります。)。
パルジファルは、クンドリーの接吻で全てを悟り、アムフォルタスの苦悩も理解し、そこで「共苦」というものが出てくるというのですが、アムフォルタスの弱さが強調されているせいか、パルジファルがアムフォルタスとの「共苦」を感じる必然性が乏しく思われ、「共苦」と言われてもピンとこないように思います。
お坊さんを出して仏教を強調した演出でしたが、私にはクンドリー=マグダラのマリアの演出と両立しているのか、少し違和感がありました。1つの考え方としては、弁証法的に捉えて、クリングゾルの世界、騎士達の世界の両方が廃れ、両者が止揚(aufheben)された新たな世界=お坊さん達の世界??が誕生するという捉え方もできるのかもしれませんが、お坊さんたちの世界がどのようなものである手がかりのない以上、そのようなとらえ方でよいのか私にもわかりません。


いろいろ演出についての自分の感想を書きましたが、意欲的で面白い演出であったことは間違いありません。お坊さんや袈裟の登場はいささか奇抜でしたが、それ以外は道具はシンプルにして、オーソドックスな基本線に従いながらも、ところどころに代わった演出を施した内容でした。

歌手の皆さんは、クンドリー役のエヴェリン・ヘルリツィウスが歌声、演技とも素晴らしかったのをはじめ、皆さん大活躍で、素晴らしかったです。

ところがです。残念ながらオケはまだまだ改善の余地があったように思います。金管楽器の一部が、ときおり音を外しており、周囲とあわなくなっていたり、単独で妙な音が出ていたりと、音楽に詳しくなく、普段気がつかない自分でも気づくようなミスがあったようです。そのせいでしょうか、飯守監督が監督就任後演奏する最初のオペラであったにもかかわらず、監督が出てきた時にブーイングも一部あったやに聞きました。
私自身はオケだけのためにブーイングをするのは酷と思います。飯守監督のもとでの新国立のオペラは今後も見に行く予定が続いておりますので、楽しみにしたいと思っております。

(余談)今回、久しぶりに1階後方の座席で観ましたが、私が眠くなった第1幕目のグルネマンツの歌いは皆眠かったようで、自分の周囲の観客の皆さんも皆そろって「討ち死に」状態でした。皆さんいかにもオペラを観るのは慣れているという感じの方であったにもかかわらずです。近くのご夫婦の方が,クンドリーの「眠い」という台詞を聞いて、自分も眠いよと言いたくなったといっておられたのは笑えました。


■スタッフ
【指揮】飯守泰次郎
【演出】ハリー・クプファー
【演出補】デレク・ギンペル
【装置】ハンス・シャヴェルノッホ
【衣裳】ヤン・タックス
【照明】ユルゲン・ホフマン

■キャスト
【アムフォルタス】エギルス・シリンス
【ティトゥレル】長谷川 顯
【グルネマンツ】ジョン・トムリンソン
【パルジファル】クリスティアン・フランツ
【クリングゾル】ロバート・ボーク
【クンドリー】エヴェリン・ヘルリツィウス
【第1・第2 の聖杯騎士】村上公太/北川辰彦
【4人の小姓】九嶋香奈枝/國光ともこ/鈴木 准/小原啓楼
【花の乙女たち】三宅理恵/鵜木絵里/小野美咲針生美智子/小林沙羅/増田弥生
【アルトソロ】池田香織

【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団



14:00スタートでも第2幕と第3幕の幕間はもうこんなに暗くなる時間です。



皆既月食

2014年10月09日 | 風流道楽
昨夜は皆既月食を観ました。

2年前に皆既日食を観ましたが、今回の皆既月食も曇天の中ではありましたが、雲に隠れない限りはよく見えました。
冒頭の写真は皆既食が終了する直前のものです。

残念ながらすぐに雲に覆われてしまい、また隠れました。
次のは雲で分からなくなる前のものです。




Canon5d Mark3+Canon EF70-200mm F2.8L IS II USMの組み合わせでとりましたが、さすがによく撮れるので驚きました。

印象派のふるさとノルマンディー展(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)

2014年10月08日 | 美術道楽
損保ジャパンの美術館(長いので省略しました)で開催中のノルマンディー展に行きました。
ずばりノルマンディーの画家ということで、ル・アーブルのアンドレ・マルロー美術館を中心に、オンフールのウジェーヌ・ブーダン美術館、ヴィエルキエのメゾンヴァウリー=ユゴー美術館などの協力も得ながら開催された美術展です。
ターナー、ブーダンなどの風景画が中心で、やはりノルマンディーの海辺の景色が多かったようです。このほかクールベの「海」の絵もありましたし、モネの「サン・タドレスの断崖」という絵もありました。
またヴァロットンの風景画も2点展示されていました。木々の表現にまた特徴のある絵で、最近まで開催されていたヴァロットン展のことなど懐かしく思い出しました。
さらに、デュフイの絵も沢山来ていまして、こちらの方が単純な風景画よりもアクセントがあり、私は今回の展覧会ではデュフイの絵が一番印象に残りました。

レアンドロ・エルリッヒ展 - Fragments of Illusion -(ART FRONT GALLERY)

2014年10月06日 | 美術道楽
代官山のアート・フロント・ギャラリーに行って参りました。
レアンドロ・エルリッヒ展と言いましても、ギャラリーなので本来的には販売品です。

レアンドロ・エルリッヒは金沢21世紀美術館のスイミング・プールで有名な作家です。
当然、ねずみ属にはおよそ購入不可能な金額の作品群ということは分かっていましたが、見てみたくなり出かけました。

「雲」と題する作品群は、特殊なガラス(イスラエルの軍事用の強化ガラスと聞いたような気がします。)を何枚もあわせてその中に曇りを表現して、その形でいろいろな作品の名前を付けていました。冒頭の写真は「雲」の作品を案内からとったものです。

そのほか、円形の模型を4分の1ずつ区切って四季の移り変わりを表現した作品(各スペースの仕切りも鏡にしてあるので、各シーズンの世界が一面に広がっているように見える。)や非常用の出口の表示の中に螺旋階段が表現されている作品などとても興味深く見ました。
値段の表も見ましたが、全く購入不可能という訳でもありませんでしたが、やはり美術館やギャラリーで見ていれば十分という気持ちになりました。


購入予定もないまま来たのに、よい作品を親切に見せていただき、ギャラリーの方には感謝に堪えません。

帰りにヒルサイドテラスの別のギャラリーで開催中のバーニー・フュークス THIS IS AMERICAと題する別の展覧会も行きました。




新たな系譜学をもとめて/ミシェル・ゴンドリーの世界一周(東京都現代美術館)

2014年10月05日 | 美術道楽
9月26日に東京都現代美術館で開催されました2つの美術展のオープニング・セレモニーに出かけました。
最初の美術展は「新たな系譜学をもとめて 跳躍/痕跡/身体」と題するものです。
タイトルではいささかも分かりません。そこで長くなりますがHPから引用します。
(引用はじめ)先の見えにくい不安な時代、人は確かなものとしてまず自分の身体を確認しようとします。この身体にある感覚や記憶、知恵がどこからきたのか痕跡をたどろうとするのです。
ダ ンス、能・狂言や歌舞伎などの伝統芸能、演劇、スポーツ、武道などの身体表現は、言語を超えたコミュニケーションとして、あるいはローカルなトポスや文化の記憶として、私たちの精神生活に深くかかわってきました。にもかかわらずそれらの多くは、アートの歴史において、モダニズムの価値観からとりこぼされてきたのです。
本展「新たな系譜学をもとめて」は、身体に残された記憶や知の痕跡が、それぞれの時代の表現にとりいれられ、新たな創造を産み出してきた系譜をたどり、現在の表現を見直すことを意図しています。今回は狂言師であり、現代演劇やパフォーマンスへの出演や演出でも活躍する野村萬斎を総合アドバイザーにむかえます。その身体は600年にわたる伝統の型を継承しながら、現代まで一気に跳躍して、さまざまな現代の表現と交わることで、新しい創造の遺伝子をつくりだしています。例えば、極限まで簡潔化された能の動きは、言葉を排して、ミニマルな形の反復を特徴としたダムタイプとつながり、新たな系譜学の可能性を示唆します。
本展は、絵画、映像、インスタレーション、50年代以降の能や舞踏など前衛とのかかわりをたどる資料展示や、会場内で行なわれるパフォーマンスとあわせて構成されます。従来のアートにおけるパフォーマンス展にはなかった、新しい展示の試みとなります。(引用終わり)
総合アドバイザーとして野村萬斎の名前があがっています。
エルネスト・ネトという人のタイツのような薄い布地で区切られた空間を延々と歩いて行く作品やダグラス・ゴードン&フィリップ・パレーノのジダン(サッカーの元選手)の映像作品などよく理解することのできない作品のオンパレードです。特にインスタレーションの作品が多く、激しい照度に人や気候図の映し出される摩訶不思議な作品が多数ありました。
その中でジャクソン・ポロックの作品だけは、とりあえず芸術として安心して受け止められる(いったいどういう状態なのだ!)ので、観ていてほっとしました。
野村萬斎さんが映っている映像作品もあるようですし、ジャクソン・ポロックの作品は何度でも観たいので、もう一度、訪れたいものです。そして、今度は時間をかけて消化不良にならないようにして観たいと思います。



もう一つの美術展である「ミシェル・ゴンドリーの世界一周」展の方は、正直なところ私には関心がないものでした。
ミシェル・ゴンドリーという方が有名な映画監督であるということも、私には全く知りませんでした。映画の場面を音楽を聴きながら観ることができるコーナーがあったり、映画のセットがいくつも設けられていたりと、この方の映画に詳しい人なら大喜びなのだと思います。特にホームレスの段ボールの家を再現してあるセットのところでは、外国人の方が大喜びして記念撮影をしていました。

6月に観た東京都現代美術館のオープニングはとてもつまらなかったので、今回遅刻して行きましたら,ちょうど会場に着いた時点で、「新たな系譜学をもとめて」の関係者のスピーチが終わっていました。ひょっとしたら野村萬斎さんも来ていたかもしれないのにと思うと残念でした。 




日経アカデミア「アートのもう1つの楽しみ方・観るから買うへ」

2014年10月04日 | 美術道楽
日経アカデミアの企画《アートのもう1つの楽しみ方「観るから買うへ」》と題する講演会を聞きに行きました。
講師はアートソムリエこと隠居コレクターこと山本冬彦氏です。
そのほかにモデレーターとして立島惠氏、ゲストとして木村悦雄氏、石堂琢己氏も参加されました。
内容としましては、コレクションをするに至ったきっかけですとか、コレクションのジャンルや家族の理解を得るためにはといった内容でした。
皆さん、基本的には現代の、しかも若手で評価の定まっていない人の作品を、応援の意味も込めて買うという内容であったように思います。参加者からは、最後にコレクターは死後どうするおつもりですかというこれも誰もが興味を持つ質問が出ました。答えとしては、美術館に寄付したいがそれもできないなら、作家にお返ししたいという内容でありました。
コレクションの趣向、予算等は人によって様々であり、なかなか普遍化することは難しい内容のように思いますが、コレクターの方から直接お話をうかがうことなどはまずないので、その意味では参考になりました。