新国立劇場でオペラParsifalを見ました。
前にオペラトークのところでも書きましたが、新国立劇場のオペラ芸術監督が飯守泰次郎監督に交代してから最初のオペラですし、新国立劇場がワーグナーのメジャーなオペラ作品(つまり、初期の作品で今日では上演されなくなっているものを除いた作品)の中で今まで唯一上演していなかった作品の上演ということもあり、注目されていた上演でした。
見た感想なのですが、結論から書きますと、オケはまだ改善の余地がありますが、歌手と演出はとてもよかった(演出は一部変と思うところもないわけではなかったのですが。)という印象です。
演出ですが、特徴的なところは、聖杯の王アムフォルタスをとても弱い人間として、そして聖杯の騎士をとてもエゴイスティックに描いているということです。
舞台は中央に何度も折れ曲がった道が置かれていまして、ほぼそのセットで統一した舞台です。
第一幕目の幕が上がりますと、なぜか折れ曲がった道の奥の方に3人のお坊さんがいます。もちろん台詞はありませんが、舞台の重要な場面ではこのお坊さんたちが登場します。あたかも「ニーベルングの指環」のラインの乙女たちのようです。ニーベルングの指環を意識した演出のように思いましたが、そもそもパルジファルとニーベルングの指環では、聖槍とヴォータンの槍、クリングゾルとアルベリヒの去勢などストーリーの面でも共通するアイテムやエピソードが用いられているので、ニーベルングの指環との共通点を感じたのはある意味で当たり前のことかもしれません。
さて、舞台が聖杯の城に移りますと、舞台場面と観客との間には薄いヴェールが存在しています。こうしてみると聖杯の城は「可視化」の進んでおらず、不透明で窒息しそうな世界に見えます。辛気くさいアムフォルタスをヴェール越しにみていますと、この世界ではいいことは何も起きないような気がしてきます。この王とエゴイスティックな騎士たちでは、いかにも悪いことが起きそうな予感がしてきます。ここは、不道徳な行いをしてしまったオイディプス王が支配するテーバイなのかと思ってしまいます。
そして、グルネマンツの眠気を誘う歌が続いた後、ようやくパルジファルの登場です。
パルジファルは聖杯を、ファッションショーの舞台の脇でかぶりつくような姿勢で見ていますが、途中ですごすごと後ろに行きますし、子供が杯を持って走っていくのを受け止めることもできません。パルジファルは、聖杯を気にしながらも何もできません。パルジファルの魯鈍な様子がよく表されていると思います。
第2幕は動きがあります。聖杯の騎士の仲間に入れてもらえず、自ら去勢したという異教徒のクリングゾルとその配下として働かざるを得ないクンドリーとのやり取りから始まります。クンドリーはクリングゾルを童貞と冷やかします。ここでのクンドリーは下着が見えてかなり妖艶です。クリングゾルはクンドリーの股間の間に槍を突き立てたりと、この槍、それと槍を表すような舞台の上の矢印形のセット(ほかの場面で出てきますが、アムフョルタスはこの矢印形のセットの上でいたことが多いようです。)は、いずれも男性器と関係があるのかなどと想像も沸きます。
そして、つぎにクンドリーとパルジファルとやりとりに移ります。「ファル・パルジ」などと軽薄な芸能人が発言するような台詞もでます(オリジナルの台詞です。)。パルジファルは、ファルパルジ、つまりアラビア語の聖なる愚か者にもかけているのだそうです。もちろん、パルジファルの名前は、本来的にはアーサー王を守護する円卓の騎士の一人パルツィヴァール(パーシヴァル:この人名は戦前の方には山下奉文が破った英国の将軍の名として知られていると思いますが。)が語源と思いますが・・・。
パルジファルはクンドリーの口づけを受け、なぜかそれだけで直ちにアムフォルタスの苦悩などなどすべてのことを悟ります。そして、自らの使命を自覚し、クリングゾルと対決し、その槍を受け止め、手に入れて、クリングゾルは滅びます。
第3幕目、またグルネマンツが登場します。ここで、パルジファルが出てくるまでが長く、グルネマンツの説明の歌で再び眠くなります。パルジファルはクンドリーに洗礼を施しますが、ここで登場するクンドリーは第2幕目の妖艶なイメージとは一転して、敬虔なキリスト教徒のイメージです。パンフレットにも書いてありましたが、まさしく「マグダラのマリア」です。
そして、先王ティトゥレルの葬儀が執り行われる聖杯の城に舞台が移りますが、相変わらず城は不透明なヴェールに覆われています。アムフォルタスは、先王ティトゥレルの棺を前にしても、痛みを伴う聖杯の儀式を執り行うことを拒否しますが、多数の騎士達に取り囲まれ、強引に持ち上げられ、力ずくで儀式を行うことを強要されます。ここでは、騎士達に聖なる要素など皆無で、自分のことしか考えていない極めてエゴイスティックな存在に描かれています。
そこにやっとパルジファルが現れ、聖槍でアムフォルタスの傷を癒し、アムフォルタスの代わりに聖杯の儀式を執り行いますが、アムフォルタスは息絶え、パルジファルは自らも袈裟のような布を纏い、クンドリーとグルネマンツにも同じような布を掛けて、舞台後方の3人のお坊さん達のもとに去っていきます。
以前のオペラトークの記事でも書きましたが、そもそも絶対的な善悪がないのがパルジファルのストーリーですが、演出として特徴的でしたのは、クンドリーの取り扱いです。パンフレットにも「マグダラのマリア」のようであると書いてありましたが、まさしくその通りです。善行も悪行も行い、特に2幕目では悪の面が強調された役回りになりますが、3幕目では最終的に洗礼を施され、完全にパルジファルの使徒になります。マグダラのマリアとイエス・キリストが夫婦であったかどうかは知りませんが、クンドリーはひょっとしたら今後パルジファルの妻のような存在になっていくのかもしれないなどとも考えてしまいました。いずれにせよ、パルジファルのもたらす新たな世界において重要な役割を果たす人物であることは間違いなさそうです。クンドリーは、本来、十字架にかけられたキリストを嘲笑したために呪われ、何度も生まれ変わって大変苦しい人生を歩まなければならない運命にある女性で、仏教の輪廻転生のイメージから作られた存在ということなのですが、この演出ではクンドリーは輪廻転生しないことによって救済されるのではなく、普通に現世の中で新たな世界で救済されるのですから、最終的には仏教的な要素からは離れていくように思われます。
これに対し、代わって滅びるのはアムフォルタスの方です。いったいアムフォルタスと騎士達は何なんだろうと思います。アムフォルタスは性欲に負け、痛みに苦しんで駄々をこね、騎士達も自分の利益のためにはアムフォルタスの苦しみなど全くどうでもよいようです。最後は、クンドリーが死なない代わりに、アムフォルタスは息絶えてしまいますので、アムフォルタスの方はマイナスのイメージばかり強くなります。その上,最終的に、パルジファル,クンドリー、グルネマンツの3人は聖杯の騎士達のもとを離れ,お坊さんたちの側に向かうのですから、聖杯の城の世界もクリングゾルの世界と同様に滅びてしまうか、少なくとも廃れてしまうのでしょうか(これもニーベルングの指環の最後でワルハラが炎上するのとイメージが重なります。)。
パルジファルは、クンドリーの接吻で全てを悟り、アムフォルタスの苦悩も理解し、そこで「共苦」というものが出てくるというのですが、アムフォルタスの弱さが強調されているせいか、パルジファルがアムフォルタスとの「共苦」を感じる必然性が乏しく思われ、「共苦」と言われてもピンとこないように思います。
お坊さんを出して仏教を強調した演出でしたが、私にはクンドリー=マグダラのマリアの演出と両立しているのか、少し違和感がありました。1つの考え方としては、弁証法的に捉えて、クリングゾルの世界、騎士達の世界の両方が廃れ、両者が止揚(aufheben)された新たな世界=お坊さん達の世界??が誕生するという捉え方もできるのかもしれませんが、お坊さんたちの世界がどのようなものである手がかりのない以上、そのようなとらえ方でよいのか私にもわかりません。
いろいろ演出についての自分の感想を書きましたが、意欲的で面白い演出であったことは間違いありません。お坊さんや袈裟の登場はいささか奇抜でしたが、それ以外は道具はシンプルにして、オーソドックスな基本線に従いながらも、ところどころに代わった演出を施した内容でした。
歌手の皆さんは、クンドリー役のエヴェリン・ヘルリツィウスが歌声、演技とも素晴らしかったのをはじめ、皆さん大活躍で、素晴らしかったです。
ところがです。残念ながらオケはまだまだ改善の余地があったように思います。金管楽器の一部が、ときおり音を外しており、周囲とあわなくなっていたり、単独で妙な音が出ていたりと、音楽に詳しくなく、普段気がつかない自分でも気づくようなミスがあったようです。そのせいでしょうか、飯守監督が監督就任後演奏する最初のオペラであったにもかかわらず、監督が出てきた時にブーイングも一部あったやに聞きました。
私自身はオケだけのためにブーイングをするのは酷と思います。飯守監督のもとでの新国立のオペラは今後も見に行く予定が続いておりますので、楽しみにしたいと思っております。
(余談)今回、久しぶりに1階後方の座席で観ましたが、私が眠くなった第1幕目のグルネマンツの歌いは皆眠かったようで、自分の周囲の観客の皆さんも皆そろって「討ち死に」状態でした。皆さんいかにもオペラを観るのは慣れているという感じの方であったにもかかわらずです。近くのご夫婦の方が,クンドリーの「眠い」という台詞を聞いて、自分も眠いよと言いたくなったといっておられたのは笑えました。
■スタッフ
【指揮】飯守泰次郎
【演出】ハリー・クプファー
【演出補】デレク・ギンペル
【装置】ハンス・シャヴェルノッホ
【衣裳】ヤン・タックス
【照明】ユルゲン・ホフマン
■キャスト
【アムフォルタス】エギルス・シリンス
【ティトゥレル】長谷川 顯
【グルネマンツ】ジョン・トムリンソン
【パルジファル】クリスティアン・フランツ
【クリングゾル】ロバート・ボーク
【クンドリー】エヴェリン・ヘルリツィウス
【第1・第2 の聖杯騎士】村上公太/北川辰彦
【4人の小姓】九嶋香奈枝/國光ともこ/鈴木 准/小原啓楼
【花の乙女たち】三宅理恵/鵜木絵里/小野美咲針生美智子/小林沙羅/増田弥生
【アルトソロ】池田香織
【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
14:00スタートでも第2幕と第3幕の幕間はもうこんなに暗くなる時間です。