道楽ねずみ

ドイツに関するものを中心に美術展,オペラ,映画等の趣味の世界を紹介します。

現代人から見た「論語」 儒学的なるものの今日的意義

2015年11月17日 | 衒学道楽

だいぶ前になりましたが、10月中に新宿歴史博物館で開催されました「現代人から見た『論語』~儒学的なるものの今日的意義~」と題する講演会に参加しました。講師は鶴見大学名誉教授の田口暢穂先生です。

 

毎年の恒例行事ですが11月に新宿区にある林氏墓地(林羅山とその子孫の墓所)が公開されるのを記念して開催された講演会です。

儒学とはいかなる思想なのか、儒学は日本にどのように受容され、どう発展したのか、特に江戸時代において昌平坂学問所において、また藩校や寺子屋でどのように儒学の教育が行われたか、さらに今日論語を読むにはどのような立場で読むのかといったお話を伺った後、論語のいくつかの有名なくだりを実際に読んで解説を聞くという内容の講義でした。

 

高校時代にはもちろん論語を読みましたし、大学の一般教養でも朱熹による論語集註を読んでいたことがありましたが、その後長らく読んでおらず、本当に久しぶりでしたが、有名なくだりなどを読んでいますと、すっかり忘れていながらも、先生のお話を聞いていますと、そういえばこんな解釈の違いがあったとか、朱熹の注ではずいぶんと都合よくというと語弊がありますが、孔子が善人となるように解釈されていたのだったと等忘却の彼方から少し記憶を取り戻すことができました。

昔風の講義で、昔風の雑談も交えながらのお話をとても興味深く拝聴しました。

 

あとしばらく頑張り仕事をして退職したら、新宿歴史博物館で講演を聴いたり、ボランティアをしたりして一日中過ごしたいものです。


難民に紛れてISテロリスト流入

2015年11月15日 | 衒学道楽

イタリア紀行の記事を書くことがなくなってしまい、しばらくburn outしておりました。

 

この間、フランスでのテロもあり、大きな衝撃を受けました。 

 

フランスのテログループの中には、案の定10月に登録したばかりのシリア難民が入っていたとか。

当然のことですが、シリア難民の中には、大量の就労目的の自称「難民」(いわゆる経済難民)だけではなく、テロ目的のISメンバーも紛れ込みます。

難民を受け入れるということは当然の帰結としてISのテロリストを受け入れることになるので、今回のことは膨大なシリア難民が流入したことの当然の帰結です。

ISの流入経路は不明ですが、ドイツ経由である可能性もあるでしょうし、今回そうでなかったとしても、ドイツに紛れ込んだテロリストが再度事件を起こすことも十分に予想されます。

メルケル首相が他国にも諮らずに、バイエルン州にも諮らず、一人で暴走してシリア難民を受け入れた以上、その弊害はドイツ、特にベルリンにおいてすべて甘受すべきことは当然であり、その意味でシリア難民の問題は、本来、ドイツ一国が責任をもって解決すべきドイツ国内の問題であったはずです。しかし、現在のEUのシステムを前提にする以上、ドイツにテロリストが入るということは、ただちに他国にも「感染」するということになります。

ドイツが国境を開いて招き入れたトロイの木馬、つまりISのテロリストが、ヨーロッパ全域に広がってしまうということが心配でなりません。

 

メルケル首相がいかなる個人的な野心に基づいて自称難民の受入れに応じたのか知る由もありませんが、このような愚策を講じたメルケル首相は、首相としての資格を欠いているのですから、即刻退陣してもらいたいです。また、日本国内でも難民を受け入れるということがこのような結論も招来することを無視して、難民と称する者=すべて本当に政治的に迫害をされている善人、これを受け入れるのに消極的な国=すべて悪というような、恐ろしく単純な構図をねつ造して、虚偽の有害な事実のみを報道する朝日新聞も消滅してもらいたいものです。


建武・建炎・景炎の3つの元号―再起への思い

2014年12月31日 | 衒学道楽
あと数時間で今年も終了です。
正直なところ悪夢のような一年でありましたが、家族も自分も無事であることに感謝です。
恒例のように穴八幡に参拝し、夏目坂にある中村屋で年越し蕎麦をいただきました。




来年は、今年の閉塞した気持ちを一新したいところです。


ところで、西漢が王莽の簒奪によって中断した後、東漢の初代皇帝として即位した光武帝は、年号を「建武」としました(因みにその顰みにならって、周囲の止めるのも聞かずに元号を「建武」と改め、失政を繰り返し、文字通り武士を建てる結果を自ら招いたのが、あの「建武の新政」の後醍醐天皇でした。)。
また、北宋が靖康の変によって滅亡した後、再興された南宋は、元号を「建炎」としました。五行思想によれば、宋王朝は火徳をもって天下をとったと考えられていたから、再度「炎」を起こす必要があると考えられたからです。
そして、南宋の首都臨安が元の手に落ちると、南宋は今度は元号を「景炎」とし、「建炎」の時と同じようになることを夢見ました(その夢が実現しなかったのは歴史のとおりです。)。

元号制は過去の旧弊で直ちに廃止すべきと考えている自分におよそ縁のないことですが、過去の元号に込められた再起への期待に思いをはせてみました。

来年1年間、自分としては、自分の健康と能力に相応しい身の丈にあった慎ましい暮らしをしたいと思ております。

山県大弐の墓(全勝寺・新宿区舟町)

2014年08月04日 | 衒学道楽
最近になって新宿区舟町に山県大弐の墓があることを知りました。
しかもその場所は全勝寺。新坂をあがって通勤している自分は、毎日その前を通っていたことになります。全く知りませんでした。

山県大弐は、江戸時代の中期の儒学者です。武田信玄に使え、長篠の合戦で討ち死にした山県昌景の子孫と名乗っているそうですが、真偽のほどは不明です(山県有朋が山県昌景の子孫であるという珍説?よりは信憑性があると思われますが。)。
一時期は大岡忠光に仕えたこともあるようですが、過激な尊皇攘夷を唱え、果てには大義名分論に基づく倒幕思想を唱えます。その著書「柳子新論」では「其れ政事,東に移りて以来、世乱れ」とそもそも鎌倉幕府の開設による武家政治の始まりが諸悪の根源のように唱えています。
その思想は、当然のことながら、幕府に危険視され、最終的に明和事件で処刑されます。

山県大弐の墓ですが、生地である山梨県甲斐市のほか、茨城県石岡市や新宿区舟町にあります。全勝寺には表示がなく、結局、確認することができたのは記念碑まででした。






山鹿素行の墓(宗参寺)

2014年07月23日 | 衒学道楽
最近よく足を運ぶ新宿区弁天町が、宗参寺にある弁天堂が起源であることを知りました。
そして宗参寺のことを調べていましたら、そこに山鹿素行の墓があることを知りました。

山鹿素行は,陸奥国出身で,江戸で林羅山のもとで朱子学を学んだものの,後に朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行い、後に吉良邸に討ち入りをすることになる国家老大石良雄もその門弟の一人となったそうです。その後,山鹿素行は許されて江戸へ戻ったそうですが、その考えは後代の吉田松陰などに影響を与えているといわれています(以上wikiによる)。

山鹿素行は赤穂事件のお陰で有名になっているところもあります。
しかし、その思想は、日本を「中朝」と呼び、中華ならぬ中朝を世界の中心と考えるかのような特異な思想であり(要するに強烈な中華コンプレックスへの裏返し。)、この思想こそが幕末の攘夷の思想につながり、さらには明治以降に自国を特別な存在としてアジア近隣諸国に侵略を繰り返す精神的支柱となってくるもので、とても手放しで肯定することはできません。

それはともかくとして、今までにも京都に住んでおりました時は、嵐山の二尊院にある伊藤仁斎・東涯親子の墓を見に行ったこともありますし、いろいろ日本の思想家の墓を訪ねて回りたくなりました。












関孝和の墓(新宿区弁天町)

2014年06月22日 | 衒学道楽
最近、弁天町交差点まで出かけることがありまして、その際に関孝和の墓を見て参りました。

関孝和は、上野国の生まれと言われています(江戸生まれという説もあり。)。その父は駿河大納言徳川忠長に仕えたそうです。関孝和は甲府藩士の養子となり、甲府中納言綱豊が6代将軍(家宣)になると、幕臣となり納戸組頭になったということです。
関孝和は、世界に誇ることができるほどの業績を残した和算算の大家として名を知られております。何でも既に微積分と同様の思考を和算でしていたとか。和算の道具でどうやって微分や積分まで到達したのか不思議ですが、和算については詳しくないので知りません。


関孝和の墓は新宿区弁天町の浄輪寺にあります。外苑東通りに面したお寺の敷地の一番奥まったところが、関孝和の墓です。関孝和の墓は、このほか故郷の群馬県藤岡市にもありますし、なぜか金沢市にもあるとのことです。

著名な関孝和ですので、郷土を称えた上毛かるたでも「わ」は「和算の大家 関孝和」となっているそうです。






二上山と大津皇子

2010年09月20日 | 衒学道楽
先日,三井記念美術館の「奈良の古寺と仏像」展に行きました。
いろいろな寺から仏像が来ておりまして,多くの寺には行ったことがありました。
その中で,ひときわ思い出があるのが二上山の近くにある当麻寺です。
当麻寺は,西方極楽浄土の様子を表わした「当麻曼荼羅」と,曼荼羅にまつわる中将姫伝説で有名で,二上山のふもとにあります。

しかし,私にとって印象的だったのは,寺ではなく,二上山の山頂にある大津皇子の墓でした。
大津皇子は,天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘)の子で,聡明で武芸に秀で,人柄もよかったようです。しかし,大田皇女は早世し,天武天皇の后になったのは鵜野讃良(同じく天智天皇の娘。持統天皇)です。そして,鵜野讃良皇女との間にできた草壁皇子が皇太子になります。
それでも,大津皇子の実力と人望を恐れてか,天武天皇が死ぬと,鵜野讃良皇女の意を汲んだ者の讒訴によって,大津皇子は死を賜ることとなります。
二上山は私も歩いて登山しましたが,不気味な雰囲気を感じた記憶があります。

今回の三井記念美術館の解説で知りましたが,そもそも二上山の周りは山の気象で,気候がかわりやすく,安定しないとのことです。
私が不気味に感じ,大津皇子の呪いかと思いましたのは,天候の影響もあったのかもしれません。

持ち合わせの写真がなくwikipediaの中の大津皇子の墓の写真(I, KENPEIさんの作品)を使用させていただきました。

北京の歴史と方孝儒:燕賊簒位

2010年07月22日 | 衒学道楽
現在,ちょっとしたことから北京という街に関心があります。

ところで,北京という街ですが,その歴史は,周代,そして春秋戦国時代に燕の首都薊が置かれたことから始まり,宋代には遼・金の首都となりました。
元代には首都大都が置かれ,初めて統一王朝の首都となりました。もっとも,元は夏の時期はさらに北方の上都を首都としており,完全な統一王朝の首都とはいえないような気がします。

そして,朱元璋(太祖・洪武帝)が明を建国し,元を北方に追い払うと,首都は応天府(南京)に置かれます。
ところが,洪武帝の死後,孫で第2代皇帝となった建文帝とその叔父(洪武帝の子)で北京にいる燕王との間で皇位継承の争いが起こります。と言いますか,北京の燕王が甥に当たる南京の皇帝に叛旗を翻しました。この内乱を靖難の変と呼びます。

洪武帝による徹底的な功臣の粛清によって,皇帝側の軍事力が削がれていたこともあり(中国の農民から権力のトップに登り詰めたのは,歴史上3人しかいませんが,この3人に共通するのは,功臣,等に軍事的に功績のあった功臣を徹底的に粛清していることです。),靖難の変の結果は,燕王の勝利に終わります。
燕王は,帝位に就き,永楽帝(成祖)となります。
そして,建文帝の側近であり,儒者としての名声の高かった方孝儒に即位の勅を起草させようとします。
ところが方孝儒の書いたものとは,

燕賊簒位(燕賊位を簒えり)

いうまでもなく燕賊とは燕王であった永楽帝のことを指します。
永楽帝が激怒したことはいうまでもなく,方孝儒はその一族とともに処刑されます(滅十族と呼ばれる族滅の刑にあいます。)。

靖難の変の後,永楽帝は首都を順天府(北京)に移します。
ここにおいて北京は歴史上初めて統一王朝の永続的な首都となったのでした。

それにしても,北京の歴史を考えますと,必然的に靖難の変に触れざるを得ませんし,靖難の変といえば,必ず燕賊簒位という書や方孝儒のことを思い出します。方孝儒は滅十族の刑に処せられましたが,その名前は後世に残りました。日本でも江戸時代の儒者浅見 絅斎が方孝儒のことを絶賛しております。

写真は現在の北京駅だそうです。
wikipediaの北京の項目のKounosuさんの写真です。




ガガーリンの有人宇宙飛行成功

2010年04月13日 | 衒学道楽
1日遅れではありますが,1961年4月12日,ソビエト連邦の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンがボストーク1号に乗り有人宇宙飛行に成功しました。

ガガーリンは狭い宇宙船に乗るのに適した小柄な体格の上,出身も労働者階級であったため,ソ連共産党が後にプロパガンダを張る上でも適していたことから,そのお眼鏡にかなって有人宇宙飛行の飛行士に選ばれました。

ガガーリンは地球は青かったという言葉を残しましたが,宇宙からの帰還後はソビエト連邦のプロパガンダのために引っ張りだことなります。しかし,ガガーリンは社会主義の英雄となりますが,実際は彼自身は宇宙船の操縦をすることもなく,ただ乗っていただけですし,自分の待遇に違和感を覚えるようになり,精神的に病んでいき,言動がおかしくなっていきます。そしてソビエトもガガーリンの処遇に困ることになります。

1968年ガガーリンは飛行機の事故で亡くなりますが,その死亡の原因についてもいろいろな説もあるようです。

ガガーリンは世界初の有人宇宙飛行を成功させたと言われていますが,実は世界初ではなかったという異説もあります。ガガーリンの前に,航空機設計で有名なセルゲイ・イリューシンの息子であるウラジミール・イリューシンが宇宙飛行に成功しており,ただ当時ソ連と敵対していた中国領内に不時着したため,ソ連はその事実を隠したという噂です。


汪兆銘の南京国民政府樹立

2010年03月30日 | 衒学道楽
1940年3月30日,南京に「南京国民政府」が誕生しました。首班は汪兆銘です。
日本は満州事変以後,中国への侵略を繰り返し,1937年に日中戦争を開始し,その年には既に中華民国の首都南京を陥落させました。
その後,首相近衛文麿は,無責任に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」との近衛声明を発表し,講和の機会も閉ざしてしまいました。しかし日本も,他方で1938年ころから新たに南京に傀儡政権を樹立することを画策していました。
汪兆銘は,日本が中国に和平の条件を示した上で,この条件に応じて日本未占領地域に新政府を樹立するというプランを建て,新政府の樹立を企てました。しかし汪兆銘もは,交渉過程で,再び首相となっていた近衛文麿からハシゴを外された挙げ句,結果的には完全に日本の傀儡政権に過ぎない南京国民政府の首班を押しつけられるだけになります。そして,期待した和平は進まず,蒋介石の重慶国民政府と日本との戦争はさらに続くことになります。

汪兆銘は辛亥革命時代から活躍し,中華民国の成立宣言を起草したこともあれば,孫文の遺言の草稿を起案したとも言われています。その汪兆銘がどのような思いから,後に漢奸と蔑まれるような南京国民政府の首班となったのか関心のあるところです。

例えば「プラハの春」が鎮圧された後も職に留まったスボボタ大統領やポーランドの連帯運動を鎮圧する側に回ったヤルゼルスキ将軍のように,国の将来のため,より大きな被害が発生するのを食い止めるために国外の勢力にあえて迎合する汚れ役を演じるという生き方もあると思います。しかし,客観的に見ても汪兆銘の行動は,中国のその後にとってプラスとなったとも思えないのです。

写真は南京国民政府のあった総統府です。
wikiのGNU Free Documentation Licenseの写真からとったものです。
総統府 正門 2004年5月4日撮影 撮影者:権作

崖山の戦い

2010年03月19日 | 衒学道楽
1279年3月19日,南宋は滅亡しました。

南宋の命脈は1276年に首都臨安(杭州)が陥落し,皇帝が降伏した時点で実質的には終わっていましたが,宰相陸秀夫は皇子を皇帝に推戴し,抵抗運動を続けていました。しかし,宰相陸秀夫に率いられた南宋も,広州湾で元の海軍と戦い(崖山の戦い),破れたことによって,完全に命脈を絶たれることになります。陸秀夫は戦闘中,船内で幼帝衛王に「大学」の講義をしていましたが,敗北を悟り,皇帝を抱いて入水しました。その様子はさながら平家物語の壇ノ浦の合戦のようです。

その後も別の家臣,張世傑はベトナムに亡命して再起を図ろうとしますが,船が転覆して志を遂げることができませんでした。張世傑は,天が宋を滅ぼそうとするなら,この船を覆せと叫んだところ,船が覆ったそうです。十八史略の最後の記述は,「船覆る,世傑溺る(この部分は自信がありません。),宋滅ぶ」と極めて短く締めくくられていた記憶です。

文天祥の最期

2010年01月31日 | 衒学道楽
いつの間にか1月も最後となりました。
本来1月9日の時に書くべき記事を落としていたことに気づきましたので,遅ればせながら書きます。

1月9日は,南宋末期に活躍した文天祥がクビライ・カーンの命によって処刑された日です。

文天祥は1236年生まれ。1258年に進士及第(科挙試験合格)。科挙の首席合格者のことを状元といいますが,文天祥も首席合格であったため,その後,文状元と呼ばれることもあります。

文天祥が進士及第となった年には,既にモンゴル帝国によって金も滅ぼされており,南宋も常にモンゴルに脅かされることになります。文天祥は丞相の賈似道(賈似道は諸葛孔明の顰みにならって出師の表を書いて出陣しましたが,モンゴルに惨敗しています。)の覚えが悪かったこともあり,辞職を余儀なくされたりしますが,モンゴルとの戦いの中で軍を率いて戦うようになります。

文天祥はモンゴルに捕らえられますが,その才能を惜しんだクビライ・カーンから辛抱強く帰順を要求されます。しかし文天祥はこれに頑として応じず,クビライも最終的に文天祥の処刑を命じることになります。1283年1月9日,文天祥は処刑されました。

日本でも文天祥は,浅見絅斎が紹介して以来,幕末期,そして明治以降も忠臣の鏡としてもてはやされます。そのためか,日本では,文天祥やその作の「正気の歌」は,どうも右翼がかったイメージになってしまっているのはいささか残念です。

【余談】
浅見絅斎が特に賞賛した人物は,文天祥よりもむしろ明代の方孝孺(永楽帝に「燕賊簒位」と大書した書を渡し,処刑された人物)であったような記憶です。
そのうち,方孝孺のことも取り上げたいと思います。

南京陥落Rape of Nankingの始まり

2009年12月13日 | 衒学道楽
1937年,中華民国の首都南京は,日本の侵略の前に降伏を余儀なくされます。
当時,最初は日本の軍中枢は南京攻略に否定的な見解だったようですが,日本軍のお得意の現地暴走型で進み,やがて軍中枢も容認するようになります。当時の首相は,無責任にかけては比類のない近衛文麿です。

そして南京陥落後,日本軍は非戦闘員も対象にして,Rape of NankingとかMassaker von Nanking(南京大虐殺)と呼ばれることになる,おぞましくも恥ずべき蛮行に走ります。

Rape of Nankingの被害の実態や統計が真実,どの程度のものであったのか,今日,確定することが困難です。ただ,日本は,中国の主張する被害実態を過大なものとはいうものの,今までどれだけ真実解明に努めてきたのでしょうか。もう少し真実解明に向けた努力を早期からしておけば,よかったのにという思いもあります。

後に極東国際軍事裁判では、中支那方面軍司令官であった松井石根はこの訴因のみで死刑を言い渡され,処刑されました。他方で,上海派遣軍司令官であった朝香宮鳩彦王は皇族のため起訴すらされませんでした(起訴すれば死刑にせざるをえなかったでしょう。)。

ある意味で,戦争中の日本の実態がどのようなものであったのかということを,すべての次元で象徴する事件だったような気がします。

Rape of Nankingは,いわゆる第2次世界大戦の始まる2年も前のことでしたが,日本はヒトラーよりもずっと先んじて戦争に邁進していたのです。

それにしても,やはり映画「ジョン・ラーベ」を上演するだけの度胸のある映画館が現れないのは残念です。


写真は聖バーソロミュー大虐殺事件を描いた絵です。

ロシア革命

2009年11月07日 | 衒学道楽
1917年11月7日は言わずとしれたロシア革命の日です。
もっとも,「いわずとしれた」と思っているのは一定の年齢以上の人間ばかりで,若い人たちはロシア革命って何?という世界かもしれません。

1917年2月に第1次世界大戦の戦争の継続に反対するデモを契機に皇帝ニコライ2世は退位し,2月革命が起きましたが,レーニンが4月に亡命先のスイスから封印列車に乗って帰国すると,ボルシェビキに力が強まり,旧暦の10月(11月7日)にロシア革命が起きます。

冒頭の写真は,かつてのレーニン廟の姿で,次の写真は,ロシア革命(10月革命)の始まりとなった巡洋艦オーロラ号です。サンクト・ペテルブルク(当時のペトログラード)のネヴァ川に停泊するこの船からの砲撃から10月革命がスタートしたのでした。
いずれも,私が旅行した際に撮影した,旧ソビエト連邦時代の古い写真です。



本居宣長の命日

2009年11月05日 | 衒学道楽
1801年11月5日,偉大な国学者,本居宣長がなくなりました。
「源氏物語」,「日本書紀」,「古事記」等の研究で有名ですが,同時に外来の儒学をはじめとした漢学(中国の思想)を批判し,日本古来の思想や大和言葉に重きを置いた思想を展開しました。
本居宣長自身は,過激な政治思想を煽ることもなく,平穏に伊勢松坂で一生を終えますが,その思想は国学の源流となり,幕末に影響を与えていくことになります。

学生時代,日本政治思想史という授業があり,そこで本居宣長のことが丁寧にとりあげられていた記憶があります。