東京国立近代美術館で「菱田春草展」が開催されています。
残念ながらこちらのオープニングに参加する資格は与えられていません。
そこでということでもないのですが、新宿歴史博物館で開催された解説を聴講して参りました。講師は東京国立近代美術館主任研究員鶴見香織先生です。
春草は1874年に長野県飯田市に生まれ、1911年には没しており、活動した時期は極めて短い日本画家です。
最初にプレス向けの記者会見で使用された資料をもとに今回の企画展開催に至るまでの苦労話をうかがいました。
この企画展は2012年には開催しようとしていたところ、永青文庫がコレクションをよそに貸し出す予定が入っていることが分かり、開催時期が当初の予定よりもずいぶんと後になったということです。春草の作品は各美術館が分散して収蔵している上、さらに個人蔵で行方不明のものも多いため、なかなかこれを一箇所に集めるように借りることも大変なようです。研究者でもきちんと原物を見ている人も少なく、今回の企画展はとても貴重ということです。
菱田春草の作品の年代を探るには、署名を分析するのが有効であったということです。春草は年代ごとに作品の署名を変えているので、署名を見ればおおよその年代は分かるということです。これと製作の記録を照合して、年代を推定していったそうです。
後半では、《風神雷神図》、《寡婦と孤児》、《水鏡》、《菊慈童》、《王昭君》、《落葉》など代表作の映像を見せてもらいました。
朦朧体と呼ばれる作風の時期の作品も高画質の画像で見ると、実は絵の具を刷毛でざっと塗るようないい加減なものではなく、絵の具をパレットで混ぜてきちんと描いた部分が大半で、朦朧としているのはほんの一部だけの緻密な絵なのだと知りました。
《寡婦と孤児》は、東京藝術大学での卒業作品なのですが、これを巡っては大いに評価が分かれたところ、校長である岡倉天心の最終判断で首席と判定されたとのことです。
確かにテーマは太平記からとったということですので、そうすると後醍醐天皇の后と後村上天皇が寡婦と孤児なのでしょうか???どうみても、幽霊の絵のようにしか見えません。
春草は、アメリカ、ヨーロッパにも出かけ、絵を描いて滞在費を得ながら旅行を続けたとか。講師の先生も、もし春草がもっと長生きしていれば、ずっと違う作品を残したであろうと残念がっていました。
残念ながらこちらのオープニングに参加する資格は与えられていません。
そこでということでもないのですが、新宿歴史博物館で開催された解説を聴講して参りました。講師は東京国立近代美術館主任研究員鶴見香織先生です。
春草は1874年に長野県飯田市に生まれ、1911年には没しており、活動した時期は極めて短い日本画家です。
最初にプレス向けの記者会見で使用された資料をもとに今回の企画展開催に至るまでの苦労話をうかがいました。
この企画展は2012年には開催しようとしていたところ、永青文庫がコレクションをよそに貸し出す予定が入っていることが分かり、開催時期が当初の予定よりもずいぶんと後になったということです。春草の作品は各美術館が分散して収蔵している上、さらに個人蔵で行方不明のものも多いため、なかなかこれを一箇所に集めるように借りることも大変なようです。研究者でもきちんと原物を見ている人も少なく、今回の企画展はとても貴重ということです。
菱田春草の作品の年代を探るには、署名を分析するのが有効であったということです。春草は年代ごとに作品の署名を変えているので、署名を見ればおおよその年代は分かるということです。これと製作の記録を照合して、年代を推定していったそうです。
後半では、《風神雷神図》、《寡婦と孤児》、《水鏡》、《菊慈童》、《王昭君》、《落葉》など代表作の映像を見せてもらいました。
朦朧体と呼ばれる作風の時期の作品も高画質の画像で見ると、実は絵の具を刷毛でざっと塗るようないい加減なものではなく、絵の具をパレットで混ぜてきちんと描いた部分が大半で、朦朧としているのはほんの一部だけの緻密な絵なのだと知りました。
《寡婦と孤児》は、東京藝術大学での卒業作品なのですが、これを巡っては大いに評価が分かれたところ、校長である岡倉天心の最終判断で首席と判定されたとのことです。
確かにテーマは太平記からとったということですので、そうすると後醍醐天皇の后と後村上天皇が寡婦と孤児なのでしょうか???どうみても、幽霊の絵のようにしか見えません。
春草は、アメリカ、ヨーロッパにも出かけ、絵を描いて滞在費を得ながら旅行を続けたとか。講師の先生も、もし春草がもっと長生きしていれば、ずっと違う作品を残したであろうと残念がっていました。