岩波ホールで開催中のアンジェイ・ワイダの「ワレサ連帯の男」を見に行きました。
ワイダは、以前にも「鉄の男」で連帯やレフ・ワレサをテーマにした作品を製作しています。「鉄の男」でも本作品でも、ワレサが労働者の仲間の肩車に乗って登場する場面があります。
さて、「ワレサ連帯の男」ですが、1980年代初頭のグダンスクのレーニン造船所で電気工として働くレフ・ワレサの家をイタリア人ジャーナリストが訪問し、インタビューを受けるという場面から始まります。時期は特定されていませんが、まだ秘密警察の監視が続けられていますので、ブレジネフが死亡し、ワレサが監禁を解かれ、ノーベル平和賞を受賞したころなのでしょう。
そこからインタビューを受けながらのワレサの回想として、1970年の暴動、1980年の独立自主管理労働組合「連帯」の創設とストライキの勃発、1981年のヤルゼルスキ将軍による戒厳令布告とワレサの拘束、そして前記のようにブレジネフの死亡とワレサの解放、そしてノーベル平和賞の受賞へと話がつながります。最後は、インタビュー終了後の出来事として、円卓会議、選挙での連帯の勝利、ベルリンの壁の崩壊、ワレサのアメリカ議会における演説で終わります。
ストーリーは史実に従い、ドキュメンタリーのように展開するので、とても分かりやすいと思います。もっとも私のような老人、否、老鼠には、すべてストーリーが現代の出来事として知っているからなのかもしれません。
印象的でしたのは、ワレサの家庭人としての様子などを描いていたことです。そして、インタビューの場面を見ても、ワレサのいささか傲慢でわがままな感じ、思い込みの強さやしたたかなところ等人間的に必ずしも良いともいえない面も描かれていたことです。
「時代が自分を必要としていた。」、「インテリが5時間かけて議論して決めることを自分なら5秒で決める」といった発言など、風貌も相まって本物のワレサの発言かと思ってしまいます。
ワレサを語るには、「時代が必要としていた。」というこの発言に尽きるように思います。
他方で、ワレサはインタビューの場面でもしソ連軍が攻めてきたら、という質問に、曖昧な答えに終始しています。実際、あの当時、東ヨーロッパでは「ブレジネフ・ドクトリン」がまかり通っていたのですから、いつハンガリーやチェコ・スロヴァキアのようにワルシャワ条約機構軍が侵入してきてもおかしくなかったはずです。そのあたりの状況についてのワレサの認識などもここに描かれたとおりだったのだろうなと思いながら見ました。
時代はワレサと同時に、連帯を押さえ込むことによってかろうじてソ連軍の侵攻を食い止めたヤルゼルスキ将軍をも必要としていた筈です。
この映画の最後の場面が1989年11月15日のアメリカ議会における演説の場面というのも非常にいいタイミングのエンディングです。何せその後、レーニン造船所自体が閉鎖されているのですから。
そして、実際は、その後、ワレサはポーランドの大統領に就任しますが、政治家としての見識は正直どうかというところでしたし、その演説も旧東ヨーロッパの体制を非難するだけで、あまり深みがなかったような記憶です。実際1995年の選挙では大統領に再選されませんでした。このあたりが全国的なストライキという危機的な状況では、活躍しつつも、平時には所詮もともとは電気工だからと受け止められてしまう彼の個性を見事に表しています(その後、むしろヤルゼルスキ将軍の方が再評価されていたような記憶です。)。
チェコ・スロヴァキアのアレクサンデル・ドゥプチェク(元チェコスロヴァキア党第一書記・プラハの春の指導者)がビロード革命の後、連邦議会議長となり、「プラハの春」の頃と同じように2階から広場に向かって独特の人を抱きしめるような仕草をいつも示して、市民から愛され、交通事故によって死亡するまで市民から慕われたのとは、似ているようで異なる気がします。
なお、この映画ではワレサ以外に隠れた重要な登場人物がいます。それは、当時の教皇ヨハネス・パウロ2世です。映画には教皇の映像や肖像画がしばしば出てきます。あの当時、ポーランド出身の教皇がいるということが、ポーランドの人々を精神的に支えてくれたのでしょう。
ワイダは、以前にも「鉄の男」で連帯やレフ・ワレサをテーマにした作品を製作しています。「鉄の男」でも本作品でも、ワレサが労働者の仲間の肩車に乗って登場する場面があります。
さて、「ワレサ連帯の男」ですが、1980年代初頭のグダンスクのレーニン造船所で電気工として働くレフ・ワレサの家をイタリア人ジャーナリストが訪問し、インタビューを受けるという場面から始まります。時期は特定されていませんが、まだ秘密警察の監視が続けられていますので、ブレジネフが死亡し、ワレサが監禁を解かれ、ノーベル平和賞を受賞したころなのでしょう。
そこからインタビューを受けながらのワレサの回想として、1970年の暴動、1980年の独立自主管理労働組合「連帯」の創設とストライキの勃発、1981年のヤルゼルスキ将軍による戒厳令布告とワレサの拘束、そして前記のようにブレジネフの死亡とワレサの解放、そしてノーベル平和賞の受賞へと話がつながります。最後は、インタビュー終了後の出来事として、円卓会議、選挙での連帯の勝利、ベルリンの壁の崩壊、ワレサのアメリカ議会における演説で終わります。
ストーリーは史実に従い、ドキュメンタリーのように展開するので、とても分かりやすいと思います。もっとも私のような老人、否、老鼠には、すべてストーリーが現代の出来事として知っているからなのかもしれません。
印象的でしたのは、ワレサの家庭人としての様子などを描いていたことです。そして、インタビューの場面を見ても、ワレサのいささか傲慢でわがままな感じ、思い込みの強さやしたたかなところ等人間的に必ずしも良いともいえない面も描かれていたことです。
「時代が自分を必要としていた。」、「インテリが5時間かけて議論して決めることを自分なら5秒で決める」といった発言など、風貌も相まって本物のワレサの発言かと思ってしまいます。
ワレサを語るには、「時代が必要としていた。」というこの発言に尽きるように思います。
他方で、ワレサはインタビューの場面でもしソ連軍が攻めてきたら、という質問に、曖昧な答えに終始しています。実際、あの当時、東ヨーロッパでは「ブレジネフ・ドクトリン」がまかり通っていたのですから、いつハンガリーやチェコ・スロヴァキアのようにワルシャワ条約機構軍が侵入してきてもおかしくなかったはずです。そのあたりの状況についてのワレサの認識などもここに描かれたとおりだったのだろうなと思いながら見ました。
時代はワレサと同時に、連帯を押さえ込むことによってかろうじてソ連軍の侵攻を食い止めたヤルゼルスキ将軍をも必要としていた筈です。
この映画の最後の場面が1989年11月15日のアメリカ議会における演説の場面というのも非常にいいタイミングのエンディングです。何せその後、レーニン造船所自体が閉鎖されているのですから。
そして、実際は、その後、ワレサはポーランドの大統領に就任しますが、政治家としての見識は正直どうかというところでしたし、その演説も旧東ヨーロッパの体制を非難するだけで、あまり深みがなかったような記憶です。実際1995年の選挙では大統領に再選されませんでした。このあたりが全国的なストライキという危機的な状況では、活躍しつつも、平時には所詮もともとは電気工だからと受け止められてしまう彼の個性を見事に表しています(その後、むしろヤルゼルスキ将軍の方が再評価されていたような記憶です。)。
チェコ・スロヴァキアのアレクサンデル・ドゥプチェク(元チェコスロヴァキア党第一書記・プラハの春の指導者)がビロード革命の後、連邦議会議長となり、「プラハの春」の頃と同じように2階から広場に向かって独特の人を抱きしめるような仕草をいつも示して、市民から愛され、交通事故によって死亡するまで市民から慕われたのとは、似ているようで異なる気がします。
なお、この映画ではワレサ以外に隠れた重要な登場人物がいます。それは、当時の教皇ヨハネス・パウロ2世です。映画には教皇の映像や肖像画がしばしば出てきます。あの当時、ポーランド出身の教皇がいるということが、ポーランドの人々を精神的に支えてくれたのでしょう。