しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 詩篇96篇 <聖なる飾り物>

2017-04-17 | 詩篇

本竜野駅「聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。」(詩篇96:9新改訳)

聖なる飾り物とは、旧約聖書にたびたび出て来ることばである。神の幕屋で仕える大祭司は律法に決められた美しい祭服を着けて、頭から足先まで飾り、神の前に出なければならなかった。聖なる神に打たれないためだ。しかしどんなにうわべを飾っても、心が腐敗性に満ちていて神に喜ばれることはできない。▼主イエスは大祭司カヤパとユダヤ議会の前でさばかれた(マタイ26:57以下)が、その最後の場面で、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい」(同63)と。おそらく議会の裁判長だったカヤパは大祭司としての祭服を着用していたであろう。純白の帽子に「主への聖なるもの」と彫った純金の記章をつけ、真っ白な下着、真っ青な長服、エポデと呼ばれる豪華なあやおりの上着、そして12の宝石をちりばめた「さばきの胸当て」、両肩には「しまめのう」をはめた肩当て、それにはイスラエル12部族の名が刻んであった。すなわち大祭司はイスラエル全民族を代表してイエスの前に立ち、これをさばいたのであった。▼いっぽう、主イエスはおそらく下着と上着の2枚を着け、前夜からの苦祷で汗と血がにじんでいたと思われる。両者は、なんと対照的な姿だったことか。一般人からながめれば、主はあまりにもみじめでみすぼらしく、大祭司はあまりにも絢爛豪華であった。が、イエスこそ愛、謙遜、服従、聖潔で織られた絢爛そのものの飾り物を着用しておられたのである。反対に大祭司は偽善、欲望、傲慢、邪悪、嫉妬で織りなされた地獄の飾り物を着けていた。▼おお私たちはどちらの着物を着ることを望んでいるか。ほんとうの意味で、聖なる飾り物とはご聖霊の内住により、キリスト者の内に形造られる新しい人格を指しているのである。これこそ、来たるべき世界においてこひつじのはなよめが着るウェディング・ドレスであり、神の御前に永遠の価値をもっているのである。