しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <国々は震え上がる>

2023-07-13 | ハバクク書
「神が立ってご覧(らん)になると、地は揺(ゆ)るぎ、国々は震(ふる)え上がる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その道筋(みちすじ)は永遠だ。」(ハバクク3:6新改訳)

ハバククが祈りのうちに黙示されたのは、栄光輝く神の地上再臨であった。そのとどろきを聞いた彼はからだの震えが止まらず、恐怖に打ちのめされ、足もとはぐらついて立っていることができなくなった(16)。▼神は選びの民、油注がれた者を救うために出て来られる(13)。大地は引き裂かれ、太陽と月も運行を停止し(11)、山々は震え、大洪水が世界を溶かし、くつがえす(10)。全世界は神に逆らい、その御名をそしり詛(のろ)うが、再臨の主ははげしい憤りをもって地を行き巡(めぐ)り、国々を踏(ふ)みつけられる(12)。▼旧約の各預言書やヨハネ黙示録も大患難を描くが、ハバククもそれを見せられ、今までの疑問や神に対する問いは吹き飛んでしまった。彼は告白する。「攻めて来る民に臨む苦しみの日を、私は静かに待ちます」(16)と。これがほんとうの再臨待望である。▼使徒ペテロも私たちにおなじことを述べる。「しかし、主の日は盗人(ぬすびと)のようにやって来ます。その日、天は大きな響(ひび)きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩(くず)れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔(けいけん)な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来(とうらい)を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象(ばんしょう)は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:10~13同)

朝の露 <物見のやぐらに>

2023-07-12 | ハバクク書
「私は、自分の物見のやぐらに立ち、砦にしかと立って見張り、私の訴えについて、主が私に何を語られるか、私がそれにどう応じるべきかを見よう。」(ハバクク2:1新改訳)

ハバククは腹を据(す)え、神のお答えが来るまで待ち望もうと決心する。物見のやぐら、砦(とりで)に立つとは、神の答えを一心に待って、祈りの座に着いた様子のこと。▼すると、ついに答えがあった。罪を犯(おか)し続ける者を、わたしはひじょうな怒りをもって見ている。偶像を拝み、不正を行い、流血をもって町を建て上げる者ほど、わざわいな存在はない。そのような残虐行為(ざんぎゃくこうい)で地の国々を支配したところで何になろう。バビロンよ、おまえは諸国に略奪行為(りゃくだつこうい)を働き、人の血を流し、民を滅ぼした。破壊された町と家々は神に向かってその罪悪を叫んでいる。しかもそれを、もの言わぬ偶像を拝みながらしたのだ。わたしのさばきを逃れることはできない。▼こうしてハバククは神のはげしい怒りを知り、定められたときが来れば、その燃える審判が必ず実行されることを知らされたのである。▼私たちにとり、物見のやぐらとは聖書=神のことばである。このやぐらに登れば、はるか永遠の昔から永遠の未来まで見渡すことができる。しかもいっしょにものみやぐらに登り、方向を示し、ひとつひとつ解説してくださるのは御聖霊である。このようにしてキリスト者は不安から解放され、神の御計画の壮大無比なことを悟り、天に座す方をほめたたえるに至るのだ。


朝の露 <なぜですか>

2023-07-11 | ハバクク書
「なぜあなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。そのため、みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです。」(ハバクク1:3,4新改訳)

ハバクク書は個性的な預言書である。ふつう預言者は民に神の言葉を語り、警告し、いましめる。ところがハバククは「なぜですか、どうしてですか」と神に向かってはげしく疑問をぶつけ、答えをくださいと迫る、初めから終わりまでそうするのだ。その意味でヨブ記に似ているところがある。▼当時のユダ王国は危機に瀕していた。内には不正と暴虐、律法は空文化し、民の霊性はどん底、おまけに外からは強大なバビロンの軍靴(ぐんか)が日一日と迫って来る。内を見ても外を見ても王国の運命は風前のともしびであった。それなのに神は黙しておられる。不正を罰せず侵略者(しんりゃくしゃ)に対して何もなさらず、ほうっておかれる。神よ、なぜですか?と預言者は叫ぶ。▼神に向かい、叫ぶことは無駄(むだ)ではない。心の底からそうしたヨブとハバククに、ついに神はお答えになったのである。現代のあまりにも理不尽さに満ちた世界を見て、教会は「なぜですか?」と訴え叫び続けるべきではないか。それに答えて神は審判と神の国をもたらされるからである。



朝の露 ハバクク3章 <国々は震え上がる>

2018-12-25 | ハバクク書

つばき赤色「神が立ってご覧になると、地は揺るぎ、国々は震え上がる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その道筋は永遠だ。」(ハバクク3:6新改訳)

地上再臨のすさまじい光景である。▼かつて柔和でやさしい人の子としてマリヤからお生まれになった主イエスが、王の王、主の主として栄光のうちに降りて来られる、それは信じない諸国民にとっては恐怖以外のなにものでもない。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示録1:14~16同)▼血潮と十字架なしに、このお方を見ることは永遠の火に落ちることとおなじである。あのヨブは長い煩悶と苦悩のすえ、ついに大風の中から語る神の顕現に接し、疑問は吹き飛び、高慢は砕かれた(ヨブ記38章)。本章のハバククの祈りはそれを想起させる。しかり、ハバククの疑問も粉みじんに吹き飛び、はらわたはわななき、骨の髄は腐って崩れ、足はぐらついたのだ。再臨のキリストから発せられる、あまりの威容に圧倒されて。◆私たちは、このキリストが柔和な羔(こひつじ)として世に来られたことが、どんなにすばらしい恵みであるかを味わうべきではなかろうか。天の御父は御自身の全存在に匹敵する愛子を十字架で屠り、なだめの供え物とされた。私たちは御子が死なれたとき、それは御父が御自分のすべてを失ったにひとしい重さをもっていることを、毎日黙想したことがあるだろうか。◆この御愛を受け入れずして世の終わりを迎えるなら、私たちはハバククが目撃した光景と、ストレートに向き合うことになる。それは、神をおそれ、信仰に生きていた預言者ですら、「私のはらわたはわななき、唇は震えました。腐れは私の骨の内に入り、足もとはぐらつきました」(16)と叫んでしまった戦慄の光景なのである。

 


朝の露 ハバクク2章 <かならず来る>

2018-12-24 | ハバクク書

チューリップ黄色「この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク2:3新改訳)

焼けるような渇きを心に抱きつつ神の正義の実現を求めた預言者ハバクク。彼に示されたのは、キリスト再臨の光景であった。▼たしかに世界は暴虐と不正があふれ、苦しみが渦巻き、神はどこにおられますか?と叫ばざるをえない状態だ。しかしハバククよ、神が定めた終末の時は近づいている。嘘ではない、人の目に遅くなるように映っているが、決して遅れることはない。だからそれを信仰によって待ち望むのだ。神の前で正しいとは、信仰によって生きる人のことをいうからである。▼こうして預言者の心は安らいだ。私たちキリスト者は、なおさらのこと愛する主の御来臨を信仰によって待ち望む。ヨハネ黙示録は開示され、新天新地と子羊の都は手に取らんばかりに姿を現している。世々の聖徒たちが垂涎(すいぜん)の眼差しで見つめた世界がもうそこまで来た。もはや誰も止められない、マラナ・タの叫びを。◆◆しかしここで、一歩離れてハバククの叫びをみつめる。すると、「わざわいだ」が5回くりかえされていることに気づくであろう。それは①諸国に戦いをしかけ、暴虐と略奪を愛した民族(6)、②自己保全に汲々とし、利得をむさぼった勢力(9)、③殺戮と不正で都を建設する人々(12)、④数々の暴行と不道徳で人々の血を流した者たち(15)、⑤偽りの神々をこしらえ、拝む人々(19)である。◆バビロンやアッシリアだけではない。まことの神なき世界の文明と、その中で喜んで生きる人間を指すことはあきらかである。じつに再臨とはそれらに対する審判が行われる日だ、とハバククは言う。そして、もし貴方が義人でありたいならば、キリスト・イエスのあがないに対する固い信仰をもって生きよ、と結論するのである。