しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ゼナスとアポロ>

2022-05-20 | テトス書

「律法学者ゼナスとアポロが何も不足することがないように、その旅立ちをしっかりと支えてあげてください。」(テトス3:13新改訳)

ローマ帝国中に次々と形成される家の教会群、それらを霊的・知識的に養うため、多くの巡回伝道者や教師たちが地方を旅していた。ゼナスやアポロもその仲間だったと思われる。たぶん彼らのなかにはパウロに協力する者も、独自に行動する者もいたに違いない。だがパウロは大きな心をもってそれらを受け入れ、自分もできるかぎり援助したのであろう。▼ともあれ、こうしてからだを巡る血液のように、有名無名の人々によって公同の教会は広がり、成長して行った。当時の旅行はどんなに危険で困難なものであったか、後にヨハネも記している。「あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。私たちはこのような人々を受け入れるべきです。」(Ⅲヨハネ6~8)▼やがて主の御国が来た時、星のようにこれらの働き人たちが栄光に輝くことであろう。新エルサレムを飾る宝石となって・・。

私を救いに導いて下さったのはT師だが、師は中田重治につながり、中田はメソジストのH師に、H師は米国のそれに、そしてヨーロッパのキリスト教に、そして結局は初代教会のパウロやその他の使徒たちにつながっており、最後は主イエス・キリストに至るのである。それは一本の鎖のようにたどることができるのだ。なんと胸が熱くなる事実であろう。▼今は分からないが、天に行った時、おそらく一個一個の鎖すべてを知り、その信仰者たちに会えるのではなかろうか。御聖霊はいのちの電流のように、イエス・キリストご自身から流れ伝わって、私にも及ぶ。歴史的にもそれが言えるとは、まさに公同の教会である。▼電流といえば高校のとき物理の先生がひとつの実験をしてくれた。先生はクラス全員(40名ぐらいいたと思う)に、手と手をつながせ、初めの生徒と最後の生徒の手を先生のからだにタッチさせた。つまりじゅず繋ぎにさせたのである。それから先生は高圧電源に触れた。高圧といっても電流自体は微小なもので、危険はまったくない。しかしその瞬間、全員のからだに電気が走り、みんな驚いて叫び声を上げた。つまり人による電気回路が出来ていたので、電流が一瞬のうちに流れたのである。▼私は今もときどきこの実験を思い出す。キリスト教会はあらゆる時代とすべての信仰者を結んで一つの回路を作っている。もちろん初めと終わりはキリストご自身であられ、その回路をいのちとして流れておられるのが御聖霊である。だから文字通り、教会はイエスを頭とするひとつのからだそのものである。なんと喜ばしい事実であろう。このからだが、やがて栄光の内に姿を現わす。新しい天と新しい地の間に。

 


朝の露 <良いわざの模範と>

2022-05-14 | テトス書

「また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。」(テトス2:7、8a)

キリスト教は、巧みな教え、あるいは神秘的儀式などによって人を欺き、惹きつけるものであってはならない、とパウロはテトスに諭す。それは多くの宗教がしているところで、会員を増やし、金銭的収入を増大させ、世の中で拡大発展していくことにねらいがあったからだ。▼キリストの福音はそのようなものではない。汚れた肉欲のあふれるこの世に一線を画し、「慎み深く、正しく、敬虔に生活し」(12)、やがて新しい世界が来た時、そこに入る民になることが目標である。そのためには伝道、牧会にたずさわる人、ここではテトス自身が良いわざの模範となるべきであった。説教はもちろん、ふだんの生活指導において裏表がなく、下品な行為や言葉をいっさい捨て、誰が見ても「あの人はたしかに神の人である」といわれるような品位を保たなければならない。パウロによれば、生きたホーリネス信仰ほど重要なものはないのであった。

ここで反論も出るだろう。「誰が見ても、あの人は確かに神の人だ」といわれることがキリスト者生活の模範だといっても、パウロはどうだったのか?と。▼確かにパウロはコリントの信者たちからいろいろな批判、中傷を受けた。また行く先々で反対者の攻撃にかこまれたことも事実である。しかしそれは、彼の実際の生活がうそや偽善に満ちていたということではない。彼は福音の純粋性が守られるため、それをそこなう生き方や誤った論議に対しては決してゆずらなかった。当然、対立や非難が生まれた。だが、どんな反対者も福音のとらえ方について異はとなえても、パウロの私生活の道徳的あり方に不正や問題を見つけることはできなかったのであった。神の前に正しく歩むとは、こういうことである。▼日本人は「協調性」を「強調する」あまり、正しいことを正しいと断言しない傾向がある。和して動ぜずが美徳とされる。だが平和を大切にするため、正義や事実が曲げられても我慢し続けよ、と聖書は教えていない。私たちキリスト者にとり、大切なのはこの点であろう。

 


朝の露 <長老は>

2022-05-13 | テトス書

「長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。」(テトス1:6新改訳)

当時の教会は、いわゆる「家の教会」で、一つの町に複数存在したのだろう。それぞれを管理するのが監督、町の教会を束ね、指導監督するのが長老だったらしい。▼ここで注目すべきは、長老の資格として財力、学歴、知的な能力などが問われず、倫理道徳的なあり方が問われていることである。つまり本当に敬虔な信仰生活、今でいえば真のホーリネス人であることが条件だったのだ。教会が持っている力というのは神の前での聖さであり、地の塩、世の光としての実質がその源であった。結婚と夫婦生活が聖書にかなっていることが第一に挙げられ、複数の妻を持つような者はきっぱり排除されている。また子どもたちが親の霊的・信仰的生活を尊敬し、それにならっていることが重要視された。▼これから見ると、今日の教会は残念ながら質的低下をまぬがれない。私たちの宣教が豊かな実を結ばない大きな理由はそこにある、といったら言い過ぎであろうか。


朝の露 テトス3章 <永遠のいのちの望み>

2019-11-22 | テトス書

のぎく「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」(テトス3:7新改訳)

私たちはイエス・キリストを信じた時、約束の聖霊を豊かに注がれた。この事実を経験し、今も御霊によって歩んでいる人は実に幸いである。その理由は「永遠のいのちの望み」を抱くように変えられたからだ。わかりやすく言えば、復活して新しい世界に入れられる希望のことである。▼やがて終わりのラッパとともにキリストが再臨され、そのときキリストを信じて歩んでいる者、またそのような生涯を送って眠りについた者が復活栄化し、新天新地の住民となる。なにがすばらしいといっても、この永遠の御国を主イエスと共に相続するほどすばらしい事実はない。今の世界で不動産や高価な財産を受け継いでも、それらはいずれ消滅してしまう。「その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます」(Ⅱペテロ3:10同)とペテロが言っているとおりに。ご聖霊の内住こそ永遠の相続証明書である。◆「使徒の働き」にはクレタ伝道が出て来ないので、本書はパウロが釈放されてから再投獄までの間に書かれた書である。すなわちパウロの異邦人宣教は、殉教するまでの数年間も活発になされていたことがわかる。それはけっして容易ではなく、困難に満ちたものであった。テトスが担当したクレタ島の住民たちは粗暴で争いや分裂、分派を好み、信仰に入った人々さえ反抗的で無駄な話や律法についての論争をし、ユダヤ教の弊害に侵食されていた。島の各地に生まれた教会をそれぞれ健全に指導するため、町ごとに長老を立て、健全な福音をもって指導するよう、監督テトスはパウロから命ぜられた。それがこの手紙である。◆教会は21世紀の今日でさえ、多くの問題を抱えている。しかしだから教会は無価値だといってはならない。逆に、問題の渦中に置かれれば置かれるほど、そこにイエス・キリストの御愛と十字架が輝くのである。父なる神ご自身が教会の完成のため、御子とともに働き続けておられるからだ。「イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。』」(ヨハネ5:17同)


朝の露 テトス2章 <実に>

2019-11-16 | テトス書

菊とつばき「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。」(テトス2:11新改訳)

このみことばは短いが、非常にすばらしい福音の表現である。ふしぎにヨハネ3:16にも実にという語が入っている。パウロもヨハネも主イエスの現れとその御生涯を思いながら、自然に「実に」という感動詞を挿入したのであろう。▼ユダヤ人は、神の救いは全人類には与えられず、選民として選ばれた自分たちだけが天国に入れると思っていた。律法を与えられ、輝かしい神の奇蹟のうちに過ごした歴史、それがいつしか民族の誇りとなり、異邦人をさげすむようになったのであった。▼実に、そのすべてがイエス・キリストの出現によって否定された。彼らにとっては驚天動地の福音であったが、差別されていた異邦人にとっては喜びのおとずれ以外のなにものでもなかったのである。「すべての人に救いをもたらす」との一節に、使徒パウロのおどろきと、神の一方的な恵みに対する賛美があふれる。ユダヤ同胞からの狂気じみた迫害も、彼の内にある神の愛を消すことはできなかった。◆この章でパウロはテトスに健全な教えを語りなさいと命じ、年配の男女に語るべきこと、ついで若い人に語るにはどうすべきか、また奴隷にはどう教えるかを記しているうちに、すべての人々を救いきよめ、選びの民とする神の大いなるご計画が感動をもって迫ったのであろう。それが11節の表現になったのである。◆使徒にとり、恵みという語はひときわ輝いて心にあふれる福音の中心であった。知らなかったとはいえ、多くのキリスト者を迫害し、苦しめ、死に至らせた過去、教会を荒らし回り、破壊して歩いた暴虐の半生、それらをふり返ると心がうずいたと思う。しかしすべてゆるし、異邦人への使徒として派遣された神の測り知れないみわざ、彼が今あるのは恵み以外のなにものでもなかった。それが、事あるごとに間欠泉のように湧き出て、賛美になっていく。パウロの書簡はそうして書かれている。◆奴隷船に乗って、黒人たちの生命を藁のように踏みにじったジョン・ニュートンも、ある意味でパウロのような人であった。その彼が後に回心し、牧師となって作ったのが「いかなる恵みぞ」である。時代と地域を超え、今なお世界中の人に愛され、歌われている賛美歌。これも主題は神の恵みだ。どのような人をも呑み込み、押し流す「鳴門の渦潮」ならぬ「恵みのうずしお」を心に宿した人は幸福である。