しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <貴い油>

2022-02-14 | エステル記

「それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。」(詩篇133:2新改訳)

昔、神の大祭司として幕屋で仕えたアロンは、聖所に入る時かならず聖なる油を注がれなければならなかった。そうしないと、神に撃たれたのである。現に息子ナダブとアビフは勝手に聖所に入ったため、聖なる怒りに触れて急死してしまった(レビ記一〇章)。▼貴い油とは御聖霊を象徴している。私たちキリスト者は救われ、聖霊を心に宿したが、それは天の油を全身に注がれたに等しい。昔のイスラエルでは何百万もいた一般の人々に、聖所で用いられた聖香油が使われることは決してなかったし、同じものを作ってもならなかった。律法できびしく禁じられていたのだ(出エジプト記三〇章)。少数の祭司が聖所内で用いることが許されただけだった。▼それがペンテコステ以後はすべての人に聖霊が注がれる時代が到来した。すなわちイエスを信じるなら、だれでも油注がれた祭司とされるという測り知れない恩寵の時代である。

大祭司に注がれた聖なる油は新約における御聖霊の注ぎを表すとともに、キリストの血潮をも象徴している。「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています」(Ⅰヨハネ5:7,8同)とあり、また「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です」(ヘブル12:24同)ともある。▼兄のカインによって殺された弟アベルの血は、しみ込んだ大地から神に向かって叫び続けた(創世記4:10)。神よ、私を理由なく殺した兄カインをさばいてください!と言いながら・・・。だがイエス・キリストの血はちがう。ゴルゴタの丘で流された御子の血潮は御聖霊によって信じたキリスト者たちの心にやどり、そこから神に向かって永遠に証言し続けるのだ。「父よ、この者を怒りとのろいから解放して下さい。私はこの者のために死に、ゆるしの血潮となって宿っているのです」と。▼この証しの叫びがあればこそ、私たちは永遠にゆるされ続け、きよめられ続けるのだ。なんと幸いですばらしい事実であろう。

<イエスは木にかかりて>

①イエスは木にかかりて 贖いをなしたり その血潮受けなば 怒りの手をのがれん

②罪びとのかしらも み救いにあずかる 血の泉くぐらば 怒りの手をのがれん

③さばきの日来たらば みな報い受くべし 血の陰に隠れて 怒りの手 のがれよ

④限りなき恵みと 変わりなき愛もて イエスは今あがなう 怒りの手 のがれよ

 (折り返し)血によりて いと安く 血によりて 怒りの手を 逃れん

                                                                                    <インマヌエル讃美歌 315>


朝の露 <慰められる>

2021-12-04 | エステル記

「テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。」(Ⅱコリント7:7新改訳)

牧会者としてのパウロの真情を吐露した文章で、胸が熱くなる。▼コリント教会のある人たちが道徳上の罪を犯し、心配したパウロはテトスを派遣した。ところが信徒たちは心から罪を悔い改め、テトスを真心から迎え、パウロをもこの上なく慕って会いたがっていることがわかったのだ。この知らせをテトスから受けたパウロは、心配が杞憂(きゆう)に終わったことに感謝し、喜びにあふれながら本書を認めた(したためた)のである。救われ、キリストのからだである教会に加えられながら、誘惑に負けて罪を犯してしまう、それがどんなに聖霊を悲しませることか、使徒の気持ちが痛いほどわかるではないか。▼教会存立の目的は、肉と霊の汚れから全くきよめられ、再臨の日に恐れなく神の前に立たせていただくことにある(本章7:1)。この目標から外れたなら、悪魔の餌食になる以外、道はない。主はキリスト者たちがあらゆる罪から守られるよう、天から御聖霊を送って下さり、その方が一人一人に内住し、導いていて下さる。もし私たちが御霊に拠り頼み、日々一緒に歩むなら、このお方は「やすやすと」私たちに勝利の道を歩ませてくださるであろう。なぜなら、あらゆる知恵と力と助け、教え、励まし、援助その他すべてのものをお持ちであり、惜しむことなくキリスト者にそれを与えるのを喜びとしておられる方だからである。▼にもかかわらず、そのことを無視し、誘惑に乗って悪魔の命じるままに行くとすれば、こんな矛盾はなく、御霊に大きな憂いと悲しみを与えてしまうのは明白だ。パウロのコリント教会に対する悲しみは、実はパウロでなく、御聖霊の悲しみなのであった。そして悔い改めた信者たちの様子を聞き、わがことのように喜び、慰められたパウロの心も、じつは御聖霊の心そのものだったのである。


朝の露 <敬愛されたモルデカイ>

2021-03-08 | エステル記

「実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。」(エステル記10:3新改訳)

エステルとモルデカイが活躍していた頃、すでに聖地へ帰還したユダヤ人たちによってエルサレム神殿は再建され、細々とではあったが礼拝が行われていた。とはいえ現地人の反発ははげしく、ユダヤ人たちの生活は平和ではなかったと思われる。一方、ペルシャに残ったユダヤ人たちもハマンの事件に見られるように、いつ民族の敵によって攻撃されるかわからない状況下で生きていたことがわかる。だが私たちはその中においても、大いなる神の支配が着実に働いていることをエステル記において確認することができる。▼モルデカイから十数年後、学者にして祭司のエズラが同胞を率いて聖地に帰還し、ユダヤ人共同体の信仰復興に大きな貢献をしたことがエズラ記に記されている。エステルやモルデカイの働きが背後にあったからこそだと思う。