しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <安息日厳守>

2021-02-17 | ネヘミヤ記

「安息日の前、エルサレムの門に夕闇が迫ると、私は命じて扉を閉めさせ、安息日が終わるまでは開いてはならないと命じた。そして、私の配下の若い者の何人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにした。」(ネヘミヤ記13:19新改訳)

捕囚から帰り、ふたたびユダヤ民族として出発した同胞を「異教的なもの一切からきよめる」(30)ために、ネヘミヤは心血を注いだ。▼外国人と婚姻関係を結ばない、安息日は一切の仕事をせず、エルサレム市内で商取引をしない、レビ人たちが神殿で聖務に専念するため、一般の人々はささげ物を絶やさない、などといった義務を正しく定め、実行させたのである。▼のちに主イエスは「安息日を守らない」と言われ、祭司やパリサイ人の攻撃を受けたが、彼らはネヘミヤのような真実さと神への敬虔を全く持たず、みにくい欲望を満たすために安息日を利用していただけであった。神に対する純真で誠実な信仰を守ることは、私たちキリスト者にとってもっとも大切なことである。だから改革者ネヘミヤの足跡を喜んで踏み行こうではないか。▼ヘブル書は新約聖書で、安息ということにさらに深遠な光を当てている。「神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです」(ヘブル4:10同)と。イエスは十字架上で午後三時に、「すべてが終わった」と言い、御父に霊を渡されて息をお引き取りになった。すなわち私たちのあがないのために、すべての業が終わり、完成したのであった。ここに本当の安息がある。使徒パウロは信仰により、キリストのあがないにつながったとき、「私はキリストとともに十字架につけられた。もはや私が生きておらず、キリストが私のうちに生きておられる」とためらわず告白した。彼はイエスがご自分のわざを休まれた、その休みに入り、一つにされた時、もはや私は生きていない、つまり安息に入れられたのであった。キリスト者に与えられている聖安息の境地、ここに生きることこそ、最高最大の恩寵である。


朝の露 <城壁の奉献式>

2021-02-16 | ネヘミヤ記

「エルサレムの城壁の奉献式に際して、彼らはあらゆる場所からレビ人を捜し出してエルサレムに連れて来た。シンバルと琴と竪琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びをもって奉献式を行うためであった。」(ネヘミヤ記12:27新改訳)

ダビデはレビ人による聖歌隊を組織した最初の王であった。彼はアビナダブの家からエルサレムに契約の箱を舁き上る時、楽器と歌い手に命じて喜びの声をあげさせた(Ⅰ歴代15:16)。▼今、ネヘミヤは完成した城壁の奉献式を行うにあたって、五百年前と同じようにレビ人の聖歌隊を作ったのである。彼らは昔からの賛美を継承し、歌うことができたし、神の人ダビデの楽器も持っていた(36)とあり、どんなに伝統に忠実であったかがわかる。こうして完成した城壁の上を二手に分かれて行進した一行は、神殿の前で合流し、数多くのいけにえを祭壇にささげ、礼拝した。「神が彼らを大いに喜ばせてくださった」(43)ので、歓声の歌声はエルサレムのはるか遠くまで聞こえたとある。やがて来る神の国、王位に就かれたイエスを崇める賛美は全天全地に響くであろう。「門よ お前たちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とはだれか。強く力ある主。戦いに力ある主。門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王 それはだれか。万軍の主 この方こそ栄光の王。」(詩篇24:7~10同)▼しかしその前に、キリスト者は人格の内に来られたキリストを王座にお迎えしなければならない。私たちは活ける神の宮だからである。ペンテコステの個人的成就とはそれなのである。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」(Ⅰペテロ3:15同)

 

 


朝の露 <神殿礼拝の復興>

2021-02-15 | ネヘミヤ記

「歌い手たちには王の命令が下っていて、日課が定められていた。」(ネヘミヤ記11:23新改訳)

この王とは、ペルシャのアルタシャスタのことである。ペルシャ王家は神への祭儀を重要視し、ユダヤ人たちにもエルサレム神殿を再建しそこで礼拝をささげることを許可した。その目的は王家が天の神から祝福を受けることにあったと考えられる。次の聖句がそれを証明する。「こうして彼らが天の神に芳ばしい香りを献げ、王と王子たちの長寿を祈るようにせよ」(エズラ記6:10同)、また「天の神の宮のために、天の神によって命じられていることは何でも、熱心に行え。御怒りが王とその子たちの国に下るといけないから。」(同7:23)▼アッシリアやバビロンは国家の領土を征服拡張し、被征服民を捕囚によって移動させ、奴隷化するだけの過酷な王朝だったが、ペルシャは各民族の自治をある程度許し、宗教的寛容策をとったのであろう。ダニエル、エズラ、ネヘミヤといったすぐれた人材の影響も大きかったのはまちがいない。いずれにせよ、神の大きな御手が、時満ちてペルシャを動かしたのであった。▼こうして帰還民たちはエルサレムを中心に、かつてユダ王国であった地域、先祖の居たところに住みついたのである。そして数百年後、祭司のひとり・ザカリヤにバプテスマのヨハネが誕生する。彼と妻エリサベツは「山地にあるユダの町」(ルカ1:39)住んでいて、イエスの母となったマリアとは親類であった(同36)。ただしそのころ、マリアはガリラヤ地方のナザレ町に住んでいて、たぶん同じ町の大工ヨセフと婚約関係にあったことがわかる。ヨセフはナザレにいたが、先祖はベツレヘムにあるダビデの血筋であったから、住民登録のときにはベツレヘムに帰った(ルカ2:1~5)。▼感心するのは、帰還したイスラエル民族においては系図が保存され、数百年たっても祖先にさかのぼることができたという事実である。マリアの家はユダの山地にあり、祭司と親類であったから、ユダ族ないし祭司の一族であった可能性が大であるが、それ以上のことはわからない。いずれにせよ、ネヘミヤの時代からの敬虔な信仰が、ザカリヤやマリア、ヨセフたちにしっかりと受け継がれてメシアの誕生となったことに、すばらしい神の摂理の御手を見ないわけにはいかないのである。

 

 

 


朝の露 <のろいの誓い>

2021-02-11 | ネヘミヤ記

「また私たち、祭司とレビ人と民は、薪のささげ物について、毎年定められた時に、父祖の家ごとに神の家に携えて来ることを、くじによって決める。律法に記されているとおり、私たちの神、主の祭壇の上で燃やすためである。」(ネヘミヤ記10:34新改訳) 

涙の悔い改めが一段落すると、指導者たちはあらためてモーセ律法を固く守り、礼拝制度を確立しようとおごそかな誓いを立てた。いわゆる「のろいの誓い」とよばれるものである。▼たとえば薪を神殿に供給するだけでも大変であった。律法に「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない」(レビ記6:13同)とある以上、神殿には一年を通じて薪が蓄えられていなければならないわけで、帰還民たちのかぎられた人数で維持するのはなみなみならぬことだ。そのため、くじにより当番が決められたのである。▼宮と城壁が築き直され、外は整ったが、選民としての聖なる意識を再建するのが最重要課題であり、ネヘミヤは総督としての権威を用いてそのことに腐心した。教会もこれと同じで、見える形と見えない形、両者があいまって真の完成に至ることを忘れてはならない。やがて主がおいでになったとき、私たちは地上の教会を建て上げ、維持することにどれだけ忠実であったかが調べられるであろう。「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」(ルカ16:10同)


朝の露 <大きなあわれみ>

2021-02-10 | ネヘミヤ記

「あなたは大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼は雲の柱が彼らから離れず、道中を導き、夜は火の柱が、行くべき道を照らしました。」(ネヘミヤ記9:19新改訳)

仮庵の祭りに続き、人々は断食して今までの罪を心から悔い改めるため、聖会を開いた。朝から昼の四分の一はモーセの律法が朗読され、残りの四分の一は自分たちの罪と先祖たちの罪を告白し続けた。今日、六時間休まず食事もせずにみことばを味わい、悔い改め、ひれ伏して礼拝をささげる聖会を見出すことができるだろうか。▼人々は赤裸々であった。どれほど唯一の神をはずかしめたことか。背き、数々の罪を平然と犯し、懲らしめられると悔い改めたが、熱さが喉元(のどもと)を過ぎるとまた罪を犯すというくりかえしだった。主よ、私たちはずるく、あなたと律法を軽んじ、うなじは石のように固く、何度忠告を受けても心から従おうとしませんでした。ごらんください、祖国に帰還できたとはいえ、私たちは奴隷です。異国の王に仕える惨めな奴隷です・・・。こうしてイスラエルによる涙の告白は続いたのであった。◆ネヘミヤたちの悔い改めから440年、神の子イエス・キリストがイスラエルに出現され、喜びの訪れが始まった。しかしまたもやイスラエルは神の憐れみを拒み、うなじを石のように固くし、「カイザルのほか、我らに王なし」と言い、御子を十字架につけて殺した。現代、21世紀はその続きである。やがて歴史の終末に「最後のカイザル」が出現し、イスラエルは告白どおり、彼によって塗炭の苦しみに投げ込まれることになる。その結果、ネヘミヤたちの祈りは初めて答えられ、イスラエルの真の回心と神の国出現となるであろう。以上は人間の努力ではなく、イエス・キリストの再臨によってもたらされるのである。