しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <むなしい幻>

2023-01-06 | エレミヤ書
「娘エルサレムよ。あなたのことをどう証言し、何になぞらえよう。おとめ、娘シオンよ。あなたを何に比べて、あなたを慰めよう。実に、あなたの傷は海のように大きい。だれがあなたを癒やすことができよう。」(哀歌2:13新改訳)

焼け落ちたエルサレムで、もっとも悲惨だったのは死んでいく幼子や乳飲み子、その母親であった(11、12)。エレミヤは彼らの哀れさを見て気が狂わんばかりに泣き、転げまわりながら胸をかきむしり、滝のように涙を流してやまない。▼そして彼は預言者たちの罪深さを訴える。「あなたの預言者たちは、あなたについて、むなしい、ごまかしの幻を見た。あなたの咎を暴いて、あなたを元どおりにしようとはせず、あなたについて、むなしい宣告と、惑わすことばの幻を見た。」(14同)▼彼らは「バビロン軍が来ても大丈夫、エルサレムは神の都だから、神が奇跡をもって守られるにちがいない」と言い続けた。そして人々は安心し、無数の人たちは村々からエルサレムに集まった。だから三年におよぶバビロン軍の包囲攻撃は、なおいっそう犠牲者の数を増やしたのである。エレミヤだけが、「この都は崩壊、占領される。一刻も早く降伏するのだ。そうすれば助かる」と言い続けたが人々は信じなかった。▼私は現代社会において、キリスト者の責任の大きさを思わずにいられない。キリスト者たちが聖書の言葉に従い、罪の悔い改めと敬虔な生き方の必要を説かなければ、だれが説くのか。そしてだれが、世の終わりにむけた備えをするのか。主の御来臨と最後の審判は確実に近づいているのであれば、それを通過して新しい永遠の御国に入るにはどうしたらよいか、そのことを真剣に語り、また語るだけでなく、その用意をすべく身をもって人々に知らせるのが責任であり義務ではないだろうか。

朝の露 <エホヤキン王>

2023-01-04 | エレミヤ書
「彼(エホヤキン王)は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。」(エレミヤ52:33、34同)
エホヤキン王は、ユダ王国最後の善王として惜しまれながら死んだヨシヤ王の孫にあたり、ダビデから21代目のユダ王となった。彼はふしぎな運命ををたどり、バビロンに捕虜として連れていかれたが、それが幸いしてダビデ王の血筋として生き残ったのであった。▼じつに37年間も獄中生活をしたが、55歳になったときバビロン王の恩赦で牢から出され、以後死ぬまで王宮で生活することをゆるされた。すなわち、神のあわれみによるとしかいえない処遇を受けたのだ。マタイ1章に「バビロン捕囚の後、エコンヤがシュアルティエルを生み、・・・」(1:12同)とあるエコンヤとはエホヤキン王のことである。▼それより4百年以上も前に、主はダビデ王に「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16同)と約束された。ユダ王国史を見ると、ダビデの血統があわや途絶えるかも、と思われるときが何度かあったが、そのつど、本当にふしぎなことにただ一人の世継ぎが生き残って、細い糸のようにつながったこともあった。まさにエホヤキンもそうなのである。▼こうしてついに、「ダビデの子イエス・キリスト」の誕生となった。聖書中にたった一度だけしか記されていない神の約束、預言のことばであっても、それが神の約束であるかぎり、絶対に実現していく。私たちはそのおごそかさに震えおののかなければならない。主イエスがお語りになったことは、天地がなくなることあってもなくならず、完全に成就する。今後もそうである。永遠の神の国が出現するキリスト再臨の日まで、みことばの一言一句もすたることはなく、すべてが実現していく。私たちが手にしている聖書のみことばは、それほどにすごいものである。だからこそ私たちは絶対の希望と喜びに生きることができるのだ。

朝の露 <主の復讐の日>

2023-01-03 | エレミヤ書
「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、主の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」(エレミヤ51:6新改訳)
エレミヤ書51,52章は当時最大の都バビロンが滅びるありさまを詳細に預言しており、その描写に110節が費やされている。そして、預言通りエルサレム崩壊後70年にしてバビロンは滅びたが、エレミヤはここにそれをみごとな筆致で記した。▼興味深いことに、黙示録17,18章にも大バビロンという巨大都市の壊滅が記されており、両者の関係をどう見るかが問われてくる。私としてはエレミヤ時代のバビロンは終末に出現する大バビロンの予型ととらえてよいと思う。その視点から見れば、この二つを比較することによっていろいろなことがわかってくるであろう。▼まず第一に、両者とも世界最大の物質的繁栄を享受し、それを自慢していること、すなわち富と財宝が神の座を占めていることだ。またその結果、神に逆らう偶像礼拝を導入していることである。エレミヤはバビロンについて、「そこは刻んだ像の地で、偶像に狂っているからだ」(50:38同)と述べているし、黙示録の大バビロンは666という未曽有の偶像、つまり反キリストの上に座している。第二に、エレミヤ時代のバビロンは神の都エルサレムを踏みにじり、神の宮であるエルサレム神殿を焼き払い、神の民であるユダヤ人たちに迫害を加えたが、大バビロンという淫婦はキリスト者に迫害を加え、「聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている」(黙示録17:6同)と記されるほどに残虐な行為に走るのである。▼ほかにも多くの類似点があるが、両者とも神に打たれ、あっというまに倒され、滅びていくというのが最大の特徴といえよう。その結果、エレミヤ時代のバビロンが滅ぼされたあと、聖地に帰還した選民により、神殿が再建されたのである。また黙示録では大バビロンが滅ぼされたあと、神の都・新エルサレムが現れる。こうしてみてくると、多くの類似点があってとても興味深い。そこで私たちキリスト者はこの世的な繁栄と物質的欲望のどれいにならないよう極力注意し、来るべき新しい世界にこひつじの血潮によって入れるよう、きよい信仰生涯を最後までつらぬくように努めるべきなのである。

朝の露 <バビロンの滅亡>

2023-01-02 | エレミヤ書
「バビロンが捕らえられる音で地は震え、その叫びは国々の間にも聞こえる。」(エレミヤ50:46新改訳)
神によって万国の預言者として定められたエレミヤ、彼は数十年の預言活動の最後にバビロン帝国の崩壊と滅亡を預言した。▼そもそも、エレミヤはユダ国民に「バビロンに降伏しなさい、それが神の思し召しである」と言い続けたため、苦難にあった。同胞から裏切り者として憎まれたからである。だが彼は最後にバビロンの滅亡を預言した。エレミヤ書の最後、50、51章はバビロン滅亡を描いた壮大な叙事詩である。エレミヤは言う、神は決してバビロンを許しておられたわけではない。ユダ王国のあまりの堕落と罪を罰するため、その手段としてバビロン侵略を一時的に許しただけであって、その罪深さは時が来ればかならず裁かれるということなのである。▼バビロンの罪は二つある。一つはまことの神であられる「イスラエルの聖なる方」に向かって高ぶったこと。もう一つは世界で唯一の礼拝場所と定められたエルサレムの神の宮を徹底的に破壊したことである。世界の歴史において、ここまで大きな罪を犯した民族はなかった。エレミヤは預言する、バビロンよ!エルサレムを徹底的に滅ぼしたように、今度はお前が徹底的にほろぼされ、もはや永久に復興することにない荒れ果てた無人の地になってしまうであろう、と。▼こうしてバビロンは預言のとおり、メディア・ペルシャ連合軍に倒され、焼き尽くされ、21世紀の今日も人が近づかない無人の廃墟の丘となった。もし誰かがイラクに旅行し、バビロンがあったといわれる荒涼とした丘に立って、エレミヤ書を開くなら、二千年の時を超えて、エレミヤの声が響いてくるであろう。▼人は万物と人間の歴史を支配し、その高ぶりの罪を裁かれる全能の神の前にひれ伏さなければならない。いわんや、この神がひとり子を世に遣わし、これをなだめのそなえものとなして十字架につけ、私たちの罪と反逆の一切をゆるし、救いの道を設けられたうえ、今しばらくの猶予を与え、私たちが悔い改めることを待っておられることを知らされた現在においておや。▼人間は性懲りもなく、この世の終わりに至って、もう一度バビロンを再建すると黙示録は予告する。それは人類史上、最高最大の都、空前絶後の繁栄と奢侈贅沢をきわめた大都市である。そして天に住まいされれる永遠者に向かって豪語する。「どうだ、私たちの力と叡智を見たか、神と等しいわれらを見よ、」と。エレミヤが語ったバビロン滅亡の宣言がほんとうに成就するのはそのときである。じつにそのとき、イエス・キリストは栄光のうちに天から来臨されるであろう。

朝の露 <アンモン人について>

2022-12-29 | エレミヤ書
「アンモン人について。主はこう言われる。『イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか。』」(エレミヤ49:1新改訳)
アンモン人はアブラハムの甥ロトの子孫でイスラエルとは親戚である。そこで神はモーセに、カナン占領のときはアンモン人の領地を犯してはならない、と命じられた(申命記2:19同)。▼にもかかわらず、のちに彼らはしばしばイスラエルに侵入し、土地を奪い、民を苦しめた。ガドの所有地はヨルダン川の東で、アンモン人の領地と接していたので被害をこうむったのだ。冒頭のミルコムとはアンモン人の神でモロクともいわれ、子どもを火にささげる宗教で、彼らをよぶとき偶像神の名を用いたのである。▼かつてアブラハムはソドム滅亡の際、神に切願してロト一家を町から救出していただいた。だからアンモン人にとり、イスラエルは「いのちの恩人」の子孫であった。それなのにまことの神をうやまわず、反逆し続けたわけで、その報いを受け、バビロン軍の侵入によってすべてを奪われてしまった。

エレミヤは神によって「諸国の民と王国の上に任命する」(エレミヤ1:10同)と言われた。つまりエレミヤの預言によって諸国の運命は定まるということになる。▼彼の預言を注意深くみると、いったん滅ぼされても、終りの日に回復する国と、永遠に滅ぼされ消えていく国とに分かれていることを知る。たとえば本章(49章)では、最後に回復する国としてアンモン、エラム(イランの東方にあったか)があり、永遠の廃墟になる国としてエドム、ハツォル(アラビア半島にあった国か)がある。またモアブも回復が約束され(48章)、ペリシテについては回復の約束がない(47章)。エジプトは小国となって回復するようである(46章)。最大の敵国だったバビロンについて、エレミヤは50、51章を費やしてその永遠の荒廃をくわしく記しているのが印象的だ。▼当時のユダヤ人からあざけられ、排斥された孤独と涙の預言者エレミヤ、しかし彼は万国の将来を神の言葉の権威をもって預言し、定めたのであった。神の召命は不思議というしかない。私たちはこれからも永遠を統べ治めたもう全能者の御前にひれ伏して礼拝をささげなければならない。エレミヤの生涯をしのびつつ。