しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <モーセの最後>

2023-01-29 | エッセイ
「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与える』と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。」(申命記34:4新改訳)

艱難辛苦(かんなんしんく)という言葉があるが、荒野(あらの)でイスラエルを導いたモーセの四〇年はまさにそれであった。だが彼は、約束の地を見せられながら、その一歩手前で生涯を終えなければならなかったのである。人間的にいえば、モーセの無念(むねん)さは言葉にならないほどだった。▼先祖アブラハム、イサク、ヤコブたちはみなカナンに葬(ほうむ)られ、眠っているし、ヨセフも遺骸(いがい)になったとはいえ、今ヨルダン川を渡ろうとしている。彼らより、はるかに大きな仕事をなしとげ、神と顔を合わせて語り合うことができた神の人・モーセが、なぜ入ることができなかったのか。▼答えは「律法の行いによって、人は神の国に入れない」ことをあらゆる時代の人々に告げるため、反対にそのことによってイエス・キリストの福音の栄光をいっそう強く輝(かがや)かせるためであった。人類史上の巨人といわれるモーセであっても、律法の行いによって義とされることはできない。カナン入りを拒まれたのはこの真理をさらに明瞭(めいりょう)に際立(きわだ)たせるためだったのである。後に彼は変貌山(へんぼうさん)で栄光のうちに現れ、キリストにお会いしている。そこでの話題は主が十字架で成し遂(と)げる贖(あがな)いについてであった。▼ヘブル書は言う、「彼(モーセ)は、キリストのゆえに受ける辱(はずかし)めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした」(ヘブル11:26同)と・・。だから、ほんとうのところ、モーセが目指したのは約束の地としてカナンに入ることではなく、キリストが王として永遠にいます新天新地だったのである。そこで私たちも、現在の地上に約束の地を思い描いてはならない。どのように祝福を受け、すべての成功に囲まれたとしても、真に望むべきところはイエス・キリストとともに住まう新しき永遠の都・エルサレムなのである。