しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <救いのかぶと>

2022-02-05 | エペソ

「救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」(エペソ6:17新改訳)

戦闘に入ったとき、もっとも守るべき最大の部分は頭である。手や足をやられても死なずに助かるが、頭をやられたら終わりだからだ。パウロはここで「救いのかぶと」と表現した。つまりキリスト者にとり、信仰生活においてもっとも重要なことは救いの確信なのである。どのようにきびしい戦いが襲ってきても、絶望的な状況になっても、「私はキリストの贖いにより確かに救われている」との確信が心にとどまっていれば、信仰から脱落することはない。▼それを知っている悪魔は、自分の持てる力を総動員してキリスト者の救いをなくしてしまおうとする。すなわち頭をねらって来るのである。お前はほんとうに救われているのか。そんな有様では、この世の人と変わらないではないか?などと揺さぶってくる。だが聖書のことばによる救いの確信を胸に刻んでいれば、少しもあわてることはない。自分の感情や経験に頼るのでなく、そのとき与えられたみことばに立つことが大切である。

私自身、若い時、聖化の問題で行き詰ったことがあった。そのとき思い切って信仰の原点に本気で立ち返ってみようと決心し、「そもそも自分は本当に救われているのだろうか?」と何日も主の前に出て静まったことがある。その結果、どこからどう「点検しても」、自分がキリストのあがないにより救われたことは疑い得ない事実だと確信できたのだった。すなわち、ただの自己免許的救いではなく、わが救いは神から発していることが明瞭に信じられたわけで、これはとても嬉しかったことを今でも覚えている。▼信仰上の確信は自分からではなく、御聖霊から出ている。このお方が折に触れ、必要に応じ、私たちの心に語って下さるのだ。半世紀におよぶ信仰の生涯、真理の御霊が私に語って下さらなかった日は一日もなかった、と言っていい。あるときは強く、ある時は細く、聖書のおことばをもって個人的に語りかけてくださった。キリスト者なら誰でも経験することだが、天より遣わされた「助け主」が自分とともにおられることほど、嬉しく、感謝な事実は他にない。▼そしてこの助け主が私と共におられることは、復活された主イエスが大祭司として父なる神の傍らにおられることの証明でもある。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26同)▼今や21世紀に生きる私たちも、このお方によって救いのかぶとをかぶらせられ、聖なる剣・聖書のみことばを頂き、完全武装ができている。いかに心強いことか。臆することなく、引っ込み思案になることなく、日々の聖戦にいそしもうではないか。

 

 


朝の露 <ふたりは一体となる>

2022-02-04 | エペソ

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(エペソ5:31新改訳)

パウロは夫婦のあり方についてこのように述べ、続いて「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです」(32)と言う。つまり、人間の創造から始まる世界歴史が目指すところは、「キリストと教会の結婚にある」というのである。さらにこれを敷衍(ふえん)すれば、天地創造のはるか以前、永遠の神が意図されたのは愛するひとり子のため、最大最高の美しさを持った妻を造り出すことであった、ということになるであろう。しかも神は、その妻を御使いやほかの被造物からでなく、罪を犯し、反逆のかぎりをつくしている「地を這うウジ虫」にひとしい人間から創造しようとされた。ここがまさに奥義としかいいようがない神の栄光の輝く場所である。▼すぐれに優れた美の極みである御使いから新婦を選ぶなら、話しはわかる。しかしそれでは神の無限の御知恵と愛、恵みの測り知れぬ偉大さは現れない。そこで、絶対にありえない方法と対象をお選びになった。じつにそれこそが、キリストと教会の結婚にほかならないのであった。もう一つの神秘は、人が地上のからだを持っていることの奥深さである。罪を犯し、神の祝福を失った人のからだ、キリストは天より下り、からだを所有されることにより、私たちの罪を飲み、のろわれた存在になられた。すなわち神の比類なき愛が現わされたのである。キリストと教会の結婚、そこには人間のからだが深くかかわっている。御使いではあり得ないことが起きたのである。神の御計画の深遠さに、思わず胸がふるえる。


朝の露 <優しい心で>

2022-01-29 | エペソ

「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4:31,32新改訳)

キリスト者でも、ともすると思わぬ場合に怒号や激しいののしりの言葉を吐くことがある。その結果、多くの人たちが信仰につまずくが、私も何度かそんな場面に出くわした。▼どうして信仰者でもそうなってしまうのであろう。パウロはこの聖句の前で、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30同)と勧めた。つまり怒りやののしりの原因は、私たちが「内住の御聖霊を悲しませる」という罪の大きさについて、あまりにも鈍感だという点にあるのではなかろうか。▼御聖霊は聖きと汚れに対し、想像もできないほど鋭敏に反応されるお方だ、と私は思う。そもそも御霊が私たちキリスト者を捨て給わないのは、キリストの比類なき血潮が流されているからだ。そのように大きな代価が支払われた結果、私たちは救いに入れられた。第三位の神は、キリスト者の未熟でなっていないことをご覧になっても、御子のあがないの事実を見つめておられる。だから私たちに忍耐をもって内住しつつ、接しててくださるのだ。▼ああ、主イエスはどれほど御聖霊の忍耐といつくしみを尊んでおられることであろう。そして、キリスト者たちがその事実を恐れおののいて受け取ることを、いかに望んでおられることであろう。だからこそ主は、「人はどんな罪もゆるしていただけるが、ただひとつ、聖霊に逆らう罪は永遠にゆるされない」と断言されたのである(マタイ12:32)。キリスト者は、柔和な鳩として内においでくださったお方の臨在を軽く考えてはならない。ペテロのことばも記そう。「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙遜でありなさい。・・・むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(Ⅰペテロ3:8~15同)


朝の露 <大家族>

2022-01-28 | エペソ

「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります。」(エペソ3:14,15新改訳)

パウロは神の前に膝まずき、エペソ教会のために祈るが、15節冒頭のことばがすばらしい。すなわち我らの神は御父(パテラ)という名であり、その名から天地宇宙に存在する全ての家族(パトリア)が出たのだ。では、神をなぜ御父とお呼びするのか。それは神が全天地の被造物をふくめた大家族の長だからである。▼家には一家の主人がおり、妻、子、使用人、家畜などさまざまな身分の者がいる。ほかにも建物、敷地などあらゆる設備がある。地上で人間が作っている家族は、天にある永遠の家族の模型であり、影である。やがて朽ちない復活世界が出現すると、すべての被造物はこの天の家族に合一され、もじどおり一つになるであろう。▼奥義として開かれた「異邦人の救い」は、この偉大なる神の御計画に含まれ、時至って実現し始めたもので、私パウロはそれを恵みの務めとして委ねられた。こうして彼の眼前にくり広げられた壮大無比な御計画が、讃嘆と驚嘆の中でエペソ書という手紙になっていく。牢獄の一囚人、鎖につながれ、一歩も外へ出られないようにされた老人、その彼の心にくり広げられた永遠の世界と神愛の高さ、深さ、長さ、広さに、読む者は息も止まるばかりである。いったい人は何をもって「幸福」というのか。今や、使徒の祈りの前に「人間が考えつくいかなる幸福」も色あせ、残渣となる。▼巨万の富と贅のかぎりをつくす生涯を夢見る者よ、恥を知れ。人知をはるかに超えたキリストの愛を知らせてくださいと祈りの姿勢をとるべし。


朝の露 <絶望の異邦人>

2022-01-22 | エペソ

「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」(エペソ2:11,12新改訳)

私たち異邦人が、福音により救われる以前はどんな悲惨な状態にあったかを示した箇所。この世にあって望みもなく、神もないとは、生きているあいだも死んで葬られたあとも絶望以外、何も存在しない状態をいう。誤解してはならない、パウロは選民意識から高飛車に述べているのではなく、霊的真実を率直に述べているのである。その証拠に、たとえイスラエルであっても、イエス・キリストを信じなければ、割礼を受けていたとしても全くの絶望状態にある。その点では異邦人とおなじなのだ。▼わが国には八百万(やおよろず)の神々が存在し、崇拝されているが、何の意味もなく、ただ空虚さだけがある。まさにソロモンが述べたごとく、「空の空なるかな、すべて空なり」である。しかしそのような暗黒の淵に沈んでいた私たちが、キリストによって救われ、人生が一変し、復活のいのちと永遠の希望に輝く者へ変えられたのだ。パウロが口切々と訴えている恵みの絶大さを心行くまで味わい、感激に身を震わせる者でありたい。

①あな嬉し我が身も 主のものとなりにけり うき世だに さながら 天津世の心地す

②残りなく御旨に 任せたる心にぞ 得も言わず妙なる まぼろしを見るかな

③御使いの降り来る 追い風に聞こゆなり み恵みの訪れ 喜びの調べは

④胸の波おさまり 心いと静かにて われもなく世もなく ただ主のみ居ませり

                                         <讃美歌529 Frances Jane(Crosby) Van Alstyne,1873>