しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <わたしが事を行う日>

2023-08-23 | マラキ書
「あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。ー万軍の主は言われる。」(マラキ4:3新改訳)

わたしが事を行う日とは、キリスト再臨の日である。その日、主イエスは二千年前に来られたときとちがい、王の王、主の主、太陽よりも輝く審判者として地上に降臨(こうりん)される。▼何千年ものあいだ、悪と暴力のかぎりをつくしていた人類はおどろき、ふるえおののくであろう。また地上の軍隊は聖なる天軍に対し、おろかにも戦いをいどみ、灰のように焼きつくされ、ほろぼされるであろう。そして、イエスを信じ、待ち望んでいた人々は、牛舎から解き放たれた子牛たちが、広い草原で喜んで飛びはねるように、おどり回るにちがいない。▼長い間待ち望んでいた絶対正義と公平が世界に満ちる神の国、それはイエス・キリストの再臨によってもたらされる。旧約聖書がメシアの来臨を記して終わり、新約聖書も明けの明星の来臨を待ち望みながら筆をおく(黙示録二二章)。これは偶然ではない。

朝の露 <わたしに帰れ>

2023-08-22 | マラキ書
「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟(おきて)を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。―万軍の主は言われるーしかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。」(マラキ3:7新改訳)

マラキ書には―万軍の主は言われるーとの挿入(そうにゅう)句が23回も出て来る。1章に6回の割合だ。これは当時の神殿礼拝が形式におちいり、人々の信仰が口先だけになっていた証拠(しょうこ)である。つまりマラキは、「私があなたがたに告げることばは、私の思いから出たのではなく、天地宇宙を支配される万軍の主から出たもの、神ご自身の宣告(せんこく)なのだ、それを心に留(と)めよ」と強調したのである。▼ところが預言者が語れば語るほど、人々は理屈(りくつ)を言って素直(すなお)に従おうとしない、不信仰が厚く心をおおっているからであった。「神に仕えるのは無駄(むだ)だ。神の戒(いまし)めを守っても、何の得(とく)もない」という考えが人々の心を占めるようになったとき、社会は信仰的に崩壊(ほうかい)する。今の世界も、まさにマラキの時代と同じだといえよう。


朝の露 <レビとの契約>

2023-08-21 | マラキ書
「しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約(けいやく)を損(そこ)なった。」(マラキ2:8新改訳)

二章は神殿礼拝を守り維持(いじ)すべきレビ族、中でも祭司階級へのよびかけである。▼ 周囲を異邦社会に囲まれたユダヤ共同体にとり、もっとも大切なことは律法に示される神の御心を固く守り、それに従って生きることであった。だが祭司たちはモーセの道から外れてしまい、反対に同胞をあやまった教えによってつまずかせた。神はそれを怒っておられると、マラキは譴責(けんせき)したわけである。▼その内容は?といえば、自分によくしてくれる人々をえこひいきし(9)、異邦人の娘と婚姻関係を結び(11)、若いとき誓い合った妻を離婚して(16)、彼女たちを悲しませている。このような罪を犯していながら、「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」(17同)とうそぶくとはなんということか。マラキは憤(いきどお)ってやまない。当時のユダヤ人社会が次第にくずれていくありさまが、手に取るように描かれている。

朝の露 <形式的な信仰>

2023-08-17 | マラキ書
「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。」(マラキ1:6新改訳)

マラキは、ユダヤ人帰還者たちが神殿を再建したあと、だいぶたってから預言した人物と思われる。BC4世紀頃と言う人もいるが、いずれにせよ旧約聖書最後の預言者である。▼この時代になると、エズラ、ネヘミヤ時代にあった改革の精神は薄れ、礼拝は形式的かつ表面的なものに低下して来た。それがマラキ書から読み取れる。神殿礼拝は続けられていたが、人々の敬虔(けいけん)さはなくなり、高慢(こうまん)な態度になっていった。たとえば神が「わたしはあなたがたを愛している」と言われると、民は「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と口答えした(2)。なんとひねくれ、ねじ曲がった態度であろう。▼今も、幼な子のようにすなおで純粋(じゅんすい)な礼拝を献げる人たちは意外に少ないのかもしれない。神はいつも、信仰者たちの心がどうであるかに注目しておられる。それを深くおぼえたい。

朝の露 <ベテルとギルガルへ>

2023-06-05 | マラキ書
「ベテルに行って背け。ギルガルに行って、ますます背け。朝ごとにあなたがたのいけにえを献げよ。三日ごとに十分の一を献げるがよい。」(アモス4:4新改訳)

アモスが活動した時代、イスラエルの王はヤロブアムⅡ世で、表面的には繁栄していたが、信仰的には堕落(だらく)し、偶像礼拝はますますひどくなっていた。ベテル、ギルガルその他多くの場所に偶像の宮があり、民は熱心に宗教行事をしていたが国内は乱れ、ぜいたくに溺(おぼ)れる人々がいる一方、不正と暴力、差別はとどまるところを知らなかった。▼まことの神をおそれ、律法に聞き従うことがなければ、どんなに熱心な礼拝も、かえって国を乱す結果にしかならない。イスラエルがその典型だった。ここに「あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」との神のなげきが五回も記されている(6、8、9、10、11節)。▼食料危機、異常気象、疫病(えきびょう)や種々の災害などがくり返し発生しているのは、悔い改めをうながす神の警告にほかならない、とアモスは言う。今の日本や世界は当時と実によく似ている。彼の叫びに心を傾けなければならない。「わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思いが何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。」(本章12,13節)