「わざわいだ。流血の町。すべては偽りで略奪に満ち、強奪はやまない。」(ナホム3:1新改訳)
流血の町という表現はエルサレムにも使われている。「ああ。流血の町、さびついているなべ」(エゼキエル24:6同)とあり、預言者ハバククも、「わざわいだ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者」(ハバクク2:12同)と非難している。▼大洪水から救い出されたノア一家に、神は仰せられた。「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する」(創世記9:5同)と。いかなる理由があっても、神のかたちに造られた人の血を流してはならないとは、ノアの子孫である人類の歴史をつらぬく創造者の御声、厳粛な命令である。▼イスラエルが亡国の憂き目に遭ったのも、ニネべが恥辱のうちに滅びたのも、結局は平気で人を殺し続けた流血の罪を神に問われた結果であった。今日まで戦争を止めないノアの子孫たる現代人、最後は神から血の価を求められる。◆エデンの園において、アダム夫妻に罪が入ったとき、それは息子カインによる弟アベルの殺人となってあらわれた。それは当時の人類に広がり、「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた」(創世記6:11同)というありさまになった。たぶん地上は流血でおおわれたのであろう。その結果ノアの大洪水となり、8人を残して人は滅んだ。洪水後のノアたちに、神は「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである」(創世記9:6同)と言い、殺人と流血を禁止された。しかし人類はそれを破り続けて今日に至っている。◆流血の極致は神の御子が殺された十字架である。人は神のかたちに造られた人を殺したどころか、神そのものである方を殺したのである。この事実を私たちは受け入れなければならない。自分が神殺しの当事者であると心から認めて・・・。そして、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」(使徒2:37同)とくずおれた、あの日の人々に加わるべきである。
「町々の門は開かれ、宮殿は消え去る。王妃は捕らえられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ。」(ナホム2:6,7新改訳)
アッシリアの首都ニネべの落城は、ちょうどサマリアのそれと似ている。▼BC722年、シャルマヌエセル王はサマリアを滅ぼし、生き残った北イスラエルの人々を連れ去った。宮殿は消え去り、ホセア王もその王妃も捕囚となった。嘆き悲しむ長蛇の列がパレスチナからアッシリアまで続いたのである。▼だがそれから百年後、今度は世界帝国の首都ニネべがおなじ目に遭った。偶像礼拝と暴力、血を流す罪を止めない国に、神による審判の剣が襲いかかった。あのヨナの宣教により、悔い改めた王の態度が続いていればニネべは助かったであろうに、それは一時的なものでしかなかったことがわかる。▼神は今も世界の国々に、心からの悔い改めを求めたもう。偶像礼拝と尊大なあり方を撤回し、万物の創造者に対して礼拝の姿勢を取れと。しかし諸国は反逆をやめないであろう。それゆえ世界は永遠のさばきを逃れることができない。◆ホセアは、アッシリアについて、「銀を奪え。金も奪え。その財宝には限りがない。あらゆる尊い品々があふれている」(ナホム2:9同)と記した。アッシリアとその王を駆り立てたもの、それはひと口でいえば「征服欲」である。彼らは周辺の国々を次々に飲み込み、その財宝を奪い、ニネべに集め、そこを宝の山にした。だがよく考えてみれば、現代の国々、世界大の企業なども同じことをやっている。彼等もまた「征服欲」の奴隷となり、製品や技術やあらゆる形の何物かを売って、人々や国々を支配していくことに喜びをおぼえているわけである。その証しが手元に集められた富、権力といえるであろう。◆イエス・キリストがなさったのは、これと反対であった。主は御自身のいのちをこの世界にお与えになられたのだ。そしてすべてを与え、すべてを注ぎ出したすえ、最後に残ったのは十字架上に骨と皮になったしかばねだったのである。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:13,14同)