「オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また私が鎖につながれていることを恥とも思わず、ローマに着いたときには、熱心に私を捜して見つけ出してくれたのです。」(Ⅱテモテ1:16,17新改訳)
パウロの絶筆となった本書簡、死を目前にひかえた使徒の内に宿る静かな平安と信仰が、湖面の広がりのように伝わって来る。▼だが状況はきびしく、すばらしい勝利をおさめたエペソでの宣教だったが、多くの信徒たちはやがてパウロから離れ、弟子たちの中からも離反者が出るという有様であった。主イエスを見上げていなければ、寂寥に押しつぶされても不思議ではなかったパウロの心を思わずにいられない。その中で、地上に残していく者たち、とくにエペソにとどまっていた愛弟子テモテへの愛に満ちた心遣い、はげまし、宣教上の注意と警戒は、同時にあらゆる時代のキリスト者に向かって語られた預言ともなっている。驚くべきことである。▼オネシポロはおそらくエペソ人だろうが、ここ以外に名が出てこないので推測するしかない。彼は一家をあげて主を信じ、どこまでもパウロを助けようとした。つまりはるばるローマの都まで来て、彼を捜し当てたのだ。囚人を訪ねるのは、身内と思われるゆえ、危険かつ恥ずかしいことだろうに、恐れずにそうしたのだった。使徒の喜びとともに、「わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです」(マタイ25:36同)との主のことばを思い出す。また、反対のおことばも・・・。「わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気や牢にいたときにもたずねてくれなかった。」(マタイ25:43同)