しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <復活栄化の希望>

2024-07-19 | Ⅱコリント
「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。」(Ⅱコリント4:14新改訳)

パウロが抱いていた最大の目標は、キリストが現れるとき栄光の姿に復活させていただくことであり、ピリピ書の中でそれを告白している(ピリピ3:20、21)。▼かつてキリスト教を迫害し、取り返しのつかない罪を犯した彼だったが、神はゆるし、異邦人に福音を伝えるという使命をお与えになった。だから彼にとって異邦人を救いに導くという働きは、生涯を通じて続けなければならないものだったのである。▼やがて主が再臨されたとき、彼は自分が導いた多くの異邦人キリスト者を連れて、み前に立つ、それが使命を果たしたしるしになるであろう。もちろんその中にコリント教会も入っている。「あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っている」とはその意味にちがいない。彼の心に燃えていた救霊の火、その真剣さを私たちは傍観(ぼうかん)していてはなるまい。おおぜいの人たちを連れて主の前に出ようではないか。


朝の露 <御霊に仕える務め>

2024-07-13 | Ⅱコリント
「石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。」(Ⅱコリント3:7,8新改訳)

モーセがシナイ山から下りて来た時、その顔が光り輝いていたため、人々は怖くて近づけなかった。四十日間にわたり、神と交わっていたため、その栄光がモーセを包んでいたのであろう。▼しかしパウロは言う。だからと言って、モーセは死なない存在になったのではなく、イスラエルの人々も罪から自由にされたのではない。それどころか、出エジプトした民は罪と反逆のため、荒野で死に絶え、モーセも約束の地を目前にして死んだのだ、と。すなわち、モーセの顔がどんなに光り輝き、人々が近づけないほど神々しかったとしても、復活世界とは関係なく、「死に仕える務め」の領域内にあったものだ、とパウロは言うのである。▼十字架にかかったナザレのイエスは、これとはちがい、復活し、死とよみを打ち破り、やがて栄光のうちに再臨したもう。その栄光は旧約のそれとは比較にならない。こうしてパウロは叫ぶ、イスラエルの人々よ、旧約の限界から解放されよ、と。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25,26同)



朝の露 <赦すということ>

2024-07-12 | Ⅱコリント
「あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。」(Ⅱコリント2:10新改訳)

キリスト者がだれかを赦(ゆる)すということは、ひじょうに大きな意味を持っている。パウロは期せずしてその意義をここに記した。つまり私たちが「あなたを赦します」と誰かに言う時、それはイエス・キリストが「あなたの罪は赦された」と宣言しているのと同じ重さを持つということだ。▼主は弟子たちに言われた。「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」(マタイ18:18同)と。だから、教会とキリスト者が地上で与えられているゆるしの権威は、じつにおごそか、かつ尊ぶべきものであることをおぼえなければならない。かつてその権威を持つのは法皇であり、一部の聖職階級であると考えられたことがあった。その結果、宗教の暗黒時代が到来して人々を苦しめたが、そうではなく、愛とゆるしの権威は私たちの内にいますご聖霊がお持ちなのである。▼「すると見よ、人々が中風(ちゅうぶ)の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた。すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で『この人は神を冒涜(ぼうとく)している』と言った。イエスは彼らの思いを知って言われた。『なぜ心の中で悪いことを考えているのか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために――。』そう言って、それから中風の人に『起きて寝床を担(かつ)ぎ、家に帰りなさい』と言われた。すると彼は起き上がり、家に帰った。」(マタイ9:2~7同)

朝の露 <死の危険から>

2024-07-06 | Ⅱコリント
「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」(Ⅱコリント1:10新改訳)

パウロがエペソで直面した死の危険とは、ライオンなどの猛獣と闘わせられたことを指すのではなかろうか。「もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから』ということになります。」(Ⅰコリント15:32)。これは一世紀のローマ帝国では、しばしば見られた死刑方法だった。▼パウロは素手で猛獣と必死に格闘し、食べられずにすんだのかもしれない。もちろんそれは神の助けによったのであった。本章で使徒は慰めという語を10回も用いているが、文字通り、神は彼を救い出すことによって当時の諸教会に大いなる慰めをお与えになったのだと思う。とにかくエペソにおける宣教は大きな成果を上げ、教会が形成されたが、異教徒やユダヤ人たちの迫害もひどいものだった(Ⅰコリント16:9)。しかし彼はとどまって働き続けた。苦難と慰め、神に向かう復活の希望、それらが本書から脈々と伝わって来る。


朝の露 <信仰不適格者>

2021-12-25 | Ⅱコリント

「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。」(Ⅱコリント13:5新改訳)

自分自身のうちにイエス・キリストが内住していることを自覚できない信者は、救われていない可能性がある、とパウロは記す。主イエスが「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5同)と言われたとおりである。コリント教会はあまりにも問題が多いので、パウロは「自分自身の救いが確かであるかどうか、よく吟味してみなさい」と忠告したが当然であった。▼教会はやがてイエス・キリストの再臨に直面する。そのとき永遠に入る者は「御霊を受け、キリストを心に宿している者」に限られ、あいまいさはない。思えば、これはなんと厳粛な事実であろう。だから「自分は救いにあずかっているかどうか、はっきりしない」とか、「キリストが自分に内住しておられるかどう、よくわからない」と思うなら、どんなことをしても御霊による明確な救いを、信仰的に体験すべきである。なにしろ、そこに自分の永遠の未来がかかっているのだから

<世人の咎のために>

①よびとの とがのために 死にたまいし主イエスを 仰ぎしとき この身は救われたり 

②我は長き年月(としつき) 成し続けし全ての 罪の行い改めたり

③今はイエスを君とし 仕える身にしあれば 罪は よし 誘うとも ゆるぎはせじ

*折返* 賛美せよ 賛美せよ われ救われたり  賛美せよ 賛美せよ われ救われたり 

<新聖歌265 Peter P. Bilhorn,1865-1936>

◆人の罪を負い、死なれた主イエスを、信じ仰いだとき、私は救われた。長い間して来た罪深い行いを捨てることができたのだ。◆今はイエス・キリストを主と仰ぎ、お仕えする身となったから、どんなに罪が誘って来てもゆるがされない。◆さんびせよ!さんびせよ!わたしは救われたのだ! さんびせよ!さんびせよ!わたしは救われたのだ!