「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。」(Ⅱコリント13:5新改訳)
自分自身のうちにイエス・キリストが内住していることを自覚できない信者は、救われていない可能性がある、とパウロは記す。主イエスが「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5同)と言われたとおりである。コリント教会はあまりにも問題が多いので、パウロは「自分自身の救いが確かであるかどうか、よく吟味してみなさい」と忠告したが当然であった。▼教会はやがてイエス・キリストの再臨に直面する。そのとき永遠に入る者は「御霊を受け、キリストを心に宿している者」に限られ、あいまいさはない。思えば、これはなんと厳粛な事実であろう。だから「自分は救いにあずかっているかどうか、はっきりしない」とか、「キリストが自分に内住しておられるかどう、よくわからない」と思うなら、どんなことをしても御霊による明確な救いを、信仰的に体験すべきである。なにしろ、そこに自分の永遠の未来がかかっているのだから
<世人の咎のために>
①よびとの とがのために 死にたまいし主イエスを 仰ぎしとき この身は救われたり
②我は長き年月(としつき) 成し続けし全ての 罪の行い改めたり
③今はイエスを君とし 仕える身にしあれば 罪は よし 誘うとも ゆるぎはせじ
*折返* 賛美せよ 賛美せよ われ救われたり 賛美せよ 賛美せよ われ救われたり
<新聖歌265 Peter P. Bilhorn,1865-1936>
◆人の罪を負い、死なれた主イエスを、信じ仰いだとき、私は救われた。長い間して来た罪深い行いを捨てることができたのだ。◆今はイエス・キリストを主と仰ぎ、お仕えする身となったから、どんなに罪が誘って来てもゆるがされない。◆さんびせよ!さんびせよ!わたしは救われたのだ! さんびせよ!さんびせよ!わたしは救われたのだ!