しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <しるしと信仰>

2023-05-06 | マルコ
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」(マルコ16:17,18新改訳)

福音を伝える者にともなうしるしについて語られた箇所だが、大切なのは、奇蹟を行う力とその意思は主イエスご自身が持っておられ、私たちにはない、ということである。すべてのキリスト者がいつでも、好きなようにこのしるしを行い得たなら、神よりも人があがめられて、世界は偶像礼拝でいっぱいになる。▼たとえばリステラの町で、足の不自由な人が一瞬のうちに癒やされたとき、群衆はパウロとバルナバを神様と思い込み、いけにえの牛を献げようとした(→使徒14章)。ふたりは群衆の中に飛び込み、やっとの思いでそれをやめさせた、と記されている。▼宣教でもっとも大切なのはイエスをキリストと信じ、罪深い生き方から解放されることであり、それが最大のしるしなのだ。だから私たちはこの中心からそれないよう注意しつつ宣教しなければならない。「そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに『先生、あなたからしるしを見せていただきたい』と言った。しかし、イエスは答えられた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。』」(マタイ12:38~40同)

朝の露 <おどろいたピラト>

2023-05-05 | マルコ
「しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(マルコ15:5新改訳)

ふつう、だれかが大ぜいの人々から訴えられたとき、その人は不利な立場に追い込まれないためにあらんかぎり弁明するものである。だが主はひとことも弁解せず、沈黙を守っておられた。▼イザヤは「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ53:7同)と預言したが、この時の姿を記したものである。明鏡止水(めいきょうしすい)の言葉どおり、主は一切の迷いも邪念(じゃねん)も抱かず、父のお心に従い、世の罪を負う子羊となって十字架に死ぬ決心をしておられた。私たち人間の想像を超えた世界である。もちろんピラトにはまったく理解できず、それだけに驚きは大きかったにちがいない。▼天の父はみ子の従順をごらんになり、どんなに満足されたであろう。それとともに無数の天使たちは驚きの目でゴルゴタの情景を見ていたと思う。その六時間は、天地宇宙の一切の時間が止まったような六時間だった。▼太陽の外側にはコロナというガスの層がある。望遠鏡で見るとひじょうに美しいものだそうだ。ただ、普通では見えない。太陽本体があまりにも強い光を発しているため、希薄なコロナは見ることができないのである。しかし日食が起きると、太陽本体が月に隠れ、真っ黒になってしまう。その瞬間、薄紅色のコロナが一面に輝き、天文家たちは見事さに息をのむそうだ。▼イエス・キリストが完全な沈黙のうちにつけられた六時間は、あたかもこのようであった。御父に向かう従順と愛が、キリストのご謙遜のうちに天地に輝き渡ったのである。そのたとえようもない美しさは、御子が地にくだり、万人の罪を負い、宥めのそなえものとなることによって、はじめて発光した。そのふしぎさに心が打たれる。教会の礼拝とは、私たちがゴルゴタに居合わせたかのような感動をもって、ひれ伏すことでなくて何であろう。


朝の露 <父が備えられる>

2023-04-29 | マルコ
「すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」(マルコ14:15新改訳)

主イエスが歩いて行かれる道には、天の父によって、何もかも必要なことが備えられていた。それを証明するできごとが次々に起きるので、弟子たちはあっけにとられたと思う。ここもそうで、この主人はどうしてイエス様の一行が夕食に来られることを知っていたのか、その人数や食べるものをどのようにして用意できたのか謎である。▼しかし、思えばキリスト者の生涯には、このような不思議が数多く起きるのだ。どう考えても神様が先回りしておられたとしか思えない、そんな体験は一度や二度ではないはずだ。だからこそ信仰生涯は、驚きと期待に満ちているともいえる。ダビデも感謝のうちに歌った、「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています」(詩篇23:5同)と。▼彼がペリシテの巨人ゴリアテの前に進み出たとき、そのコントラストに両軍があっけにとられた。全身を金属製の甲冑(かっちゅう)でかため、大槍を持ったゴリアテ、少年ダビデは丸腰で杖と石投げを持つだけ。だれがどう考えても勝負にならなかった。しかしダビデの放った小石は巨人の眉間(みけん)にめり込み、彼はあっけなく倒れたのであった。誰もが予想しなかった勝敗、すべては神のみわざによるものであった。神は今も、おなじことをなし得たもう。私たちさえ全面的に信頼し、より頼むならば・・・。だから、事態がどんなに行き詰(づま)ったようにみえても、すこしも悲観するひつようはない。このお方を仰ぎ続けようではないか。

朝の露 <すべてがくずれ去る>

2023-04-28 | マルコ
「すると、イエスは彼に言われた。『この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。』」(マルコ13:2新改訳)

エルサレム神殿があまりにも大きく壮麗(そうれい)だったので、弟子の一人は思わず感嘆(かんたん)の声を上げた。それを聞いた主イエスの答えが2節である。▼弟子たちは、さぞびっくりしたにちがいない。なにしろ、すべてが瓦礫(がれき)の山になるときがかならず来る、と主がいわれたのだから。主の御目(おんめ)にはこの世の終わり、全世界が崩壊(ほうかい)する神の審判が手に取るように見えていた。それにひきかえ、弟子たちは目の前に見える光景だけをながめ、その印象(いんしょう)に支配されていたことがわかる。▼人はキリストの救いにあずかり、御霊をいただいて、時代や世の中に起きることを、神の御目を通して見るように見なければ、すべてを正しく判断することはできない。聖書を読んでも、何が何だかわからないまま終わるだろう。主が「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」と言われた意味さえ理解できず、空しく生涯を費(つい)やすだけである。▼このとき主のおことばを聞いていた4人の弟子(3)のうちのひとり、ペテロは後に手紙に記している。「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。」(Ⅱペテロ3:10,11同)

朝の露 <愛する息子が>

2023-04-22 | マルコ
「しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。」(マルコ12:6新改訳)
主イエスは「ぶどう園のたとえ」の中で、ご自分を愛する息子と言っておられる。▼旧約時代、多くの預言者たちがイスラエルに遣(つか)わされ、悔い改めて神に立ち返るように勧(すす)めたが、イスラエルは聞こうとしなかった。そのために神は、最後の手段として「ご自分の愛する息子」を遣わされた、それが主イエス・キリストである。ヘブル書が述べているとおりだ。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子(みこ)にあって私たちに語られました。」(ヘブル1:1,2同)▼じつにイエス・キリストは人類に対する最後にして最大のメッセージである。このあとに神のメッセージはない。また御国(みくに)への招待状(しょうたいじょう)も存在しない。キリストの出現は、天国そのものが地上にくだって来たことと同じである。これを拒(こば)むことは最大の罪、永遠の悲劇(ひげき)である。