しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰ列王記22章 <アハブの戦死>

2020-08-04 | Ⅰ列王記

「ヨシャファテは、『ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか』と言った。」(Ⅰ列王記22:7新改訳)

四百人もの預言者が一致して、「これから始めるアラム軍との戦いは確実に勝利します」と言うのを見て、ヨシャファテは何かあぶないものを感じた。神のあわれみだったといえる。▼こうして、にせ者ではなく本物の預言者ミカヤが呼ばれると、この戦いでアハブ王が倒れることを宣言した。あたりは大騒ぎになり、ミカヤは牢に入れられ、二人の王は盛大な見送りの中、アラムとの戦いに出陣して行った。預言が気になったアハブは王衣を脱ぎ、一兵士に変装して戦いに臨んだが、何ということであろう、一人のアラム兵が何気なく弓を引くと、それが王に命中してしまったのだ。しかも矢は胸当てと草摺の間、ほんの一㎝もない隙間をぬって腹に突き刺さったのである。ミカヤの預言は的中した。主のことばを無視続けたアハブ王の最後がついにやって来たのであった。神は侮るべきお方ではない。人が蒔くところはかならず刈るところとなる。◆さて、アハブ王の性格には罪の本性が色濃く出ているが、その一つは「自分に苦言を呈する者を喜ばない」というものである。彼は父オムリのもとで家来たちに傅(かしず)かれて育ったせいであろう、わがままでへりくだることを知らなかった。エリヤをはじめ、多くの預言者が身命を賭して神の正道に立ち返ることを勧めたのに、謙遜に従うことをしなかったし、それでいて悪妻イゼベルの言うことは聞いてしまうという矛盾した優柔不断なところがあった。その高慢頑迷さが命取りになったのである。◆考えてみれば、一人の預言者のことばにより、一国全体に三年半も一滴の雨が降らない現実が目の前で起きたのだ。これを冷静に眺めれば、エリヤの背後におられる神が全能者であることがわかったはずであった。しかしアハブは雨が降らないのはエリヤのせいだと怒り、彼を殺せば解決すると思ったのである。なんという愚かな考えであろう。彼はバアルやアシェラの預言者何百人をも抱え、神々を狂ったように信じ、国を偶像教で満たそうとした。それが国と彼ら夫婦を滅亡に導いたのであった。にせ預言者たちの世辞追従に囲まれ、鼻を高くし、権力をふるおうとしたアハブ、二人の終わりをよく心に刻みつける私たちでなければならない。

 


朝の露 Ⅰ列王記21章 <ナボテとアハブ>

2020-08-03 | Ⅰ列王記

「ナボテはアハブに言った。『私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。』」(Ⅰ列王記21:3新改訳)

アハブ王は宮殿の隣にあるナボテの土地が野菜畑にちょうど良いと思い、譲ってくれるようナボテに頼んだ。その返事が3節である。ナボテの言葉は律法に従うイスラエルでは当然であった。なぜなら「イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならない」(民数記36:7同)と定められており、エゼキエルも「君主は、民の相続地を奪って民をその所有地から追い出してはならない」(エゼキエル46:18同)と述べているからだ。▼アハブは王といっても、律法を完全に無視して生きており、神をおそれる信仰を持ち合わせていないため、腹を立て、食事もしなかった。王に対してなんという無礼な返答をするナボテのやつ、というわけである。自分の思いが通らないと怒り、心の中で相手を責めたりさばいたりする。信仰者でもこのような生き方をしている人が多い。原因はキリストの御本質である謙遜という徳が、信仰的生命として宿っていないからである。徹底して悔い改め、謙遜の心を神から頂くべきである。▼「さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。」(エペソ4:1~6同)

 


朝の露 Ⅰ列王記20章 <一時的な勝利>

2020-07-30 | Ⅰ列王記

「ちょうどそのころ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。『主はこう言われる。「あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。」』」(Ⅰ列王記20:13新改訳) 

アハブは預言者の言う通り、この戦いに奇蹟的勝利をおさめたのだが、主によってそうなったことを信じなかった。なぜなら、神を心からおそれる敬虔などひとかけらも持ち合わせていなかったからだ。「アハブのように、自らを裏切って主の目に悪であることを行った者は、だれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたのである」(Ⅰ列王記21:25同)とあるように、彼は優柔不断で、悪妻の言うままに行動し、最後はみじめな戦死をとげた。二〇年以上に及ぶ彼の時代、北王国にはバアルやアシェラ礼拝が横行し、道徳は地に落ち、エリヤのいのちをかけた戦いでも根絶できなかった。イゼベルが偶像礼拝に狂っていたからで、それを止めなかったアハブの責任は大きい。◆そもそも彼には、神に従うチャンスが何回も与えられた。ここもそうで、預言者により語られたことばにどこまでも従っていれば、彼の王朝は安泰だったのに、敵王の助命嘆願を受け入れ、結果として祝福を失ったのである。かつて預言者サムエルは、神に不徹底な従いしかしない初代王サウルに、「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(Ⅰサムエル15:22,23同)と宣告した。これとまったくおなじことが、140年ほど経たアハブにも起きていることがわかる。◆神への完全な従順は、人となったイエス・キリストによって世にもたらされた。主は文字通り従順のこひつじとなって父に従い、十字架にあげられ、全世界のあがないをなしとげられたのである。今や従順という御子の御本質は、聖霊により、キリスト者ひとりひとりの人格のうちにもたらされている。この喜びの油によって、私たちは毎日、賛美と喜悦のうちに主に従って行くことができるのだ。なんとすばらしい天の生涯であろう。

 

 


朝の露 Ⅰ列王記19章 <逃避行>

2020-07-29 | Ⅰ列王記

「エリヤは答えた。『私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。』」(Ⅰ列王記19:14新改訳)

このとき、エリヤの心は孤独感に満ちていた。イスラエルはすべて偶像礼拝者になり、私は神のために孤軍奮闘したがいのちをねらわれ、状況は絶望しかありません、と神に訴えたのだ。しかし、神の答えは意外なものであった。「あなたはひとりぼっちではない。わたしへの信仰をしっかり守っている者が、まだ七千人もいる。信仰に立って次の行動に移るのだ」と。▼たしかにエリヤは神のために必死の戦いをして勝ち、偶像の勢力を一掃したのだが、それは神の力とご計画によったのであり、彼自身の持つ力ではなかった。「私は熱心にこれだけの仕事をあなたのためにしたのです」と言いたい気持ちはわかるが、信仰者はいっさいの栄光を神に帰すべきであり、使命が終われば静かに「退場する」ことを喜ぶのだ。◆人は若さや力に満ちて働く「さかんな時」がある。大勢の人々がほめそやし、成果や功績をたたえ、どこにいっても称賛の言葉に囲まれるのである。決して悪い気はしないであろう。しかし花がさかりを過ぎ、しぼんでいくように人生は過ぎ行き、やがて忘れられ、声もかけられなく、世の片隅に追いやられて行く。用いられた人であればあるほど、その寂寥感は大きいものであろう。人はそうなったとき、過去の働きの大きさ、与えた影響、与えられた賞状や感謝の記録を数え、自己を慰めるのではあるまいか。◆エリヤの半生はまことに奇蹟に満ちた華々しいものであった。彼がホレブの洞窟で見た激しい大風、地震、燃ゆる火、砕け散る岩々は彼が振り返った自分の半生、神が共におられて成したわざの数々、挙げた成果の一覧ではなかったろうか。しかし「その中に主はおられなかった」事実を彼は見たのである。エリヤは自分の働きと過去の記録を振り返ってはならなかった。「私は主に熱心に仕えました」と言ってはならなかった。なぜなら、そこに主の臨在はなかったからである。主のために働いたエリヤなどはなく、彼を用いた神、主だけがすべてのすべてとして立っておられたのだ。その自覚に立たせていただくとき、信仰者ははじめて満ち足りた喜びを持つことがゆるされるのである。

 

 


朝の露 Ⅰ列王記18章 <手ほどの雲>

2020-07-28 | Ⅰ列王記

「七回目に若い者は、『ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています』と言った。エリヤは言った。『上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」(Ⅰ列王記18:44新改訳)

神の大いなるみわざが現れるため、犠牲がささげられ、火が降り、バアルの預言者が始末された。しかし最後に残っていることがあった。執拗な祈祷、神への懇願がそれである。▼主は三三年におよぶ人としての全き生涯を父にささげ、最後にゲッセマネで大地に伏して涙の祈りをされた。その答えこそペンテコステの聖霊傾注だったといえよう。▼ふしぎだが、決して疑い得ない霊界の事実は、神のご経綸が「人の祈りに対する神の答え」として進められる、ということである。この二千年、地上の聖徒たちの「御国を来たらせたまえ」という懇願が積み上げられ、今も続いている。そして大祭司イエスの御父に対する懇願、地上で聖徒たちに内住される御霊のうめきの懇願も止むことなく継続している。その答えが御国の到来である。◆エリヤの熱祷は答えられ、三年半ぶりに大雨がイスラエルに降って、人も動植物も死滅をまぬがれることができた。問題は王アハブである。このすべてを目撃したアハブは、イスラエルの神こそほんとうの神、バアルなどの偶像神は何の価値もないことがわかったはずだった。そこで一大決心をして国を唯一神礼拝へ切り替え、全国から偶像を始末し、大宗教改革を実行すべきであった。どうしても邪魔をするなら、妻イゼベルを殺してでもそうすべきであったのに、アハブはその心を変えなかった。その性格は優柔不断、傲慢で自己中心、一見お人よしに見えるが神への不敬虔と頑なさに満ちていた。そのため、彼は22章で惨めな死を迎えることになる。私たちにも求められるのは、こと信仰に関する限り、果敢な決断と行動力が必要であり、それが自分も周りをも(アハブの場合はイスラエル全体)救うことになる、ということである。