しげる牧師のブログ

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朝の露 詩篇95篇 <心の迷っている民>

2017-04-13 | 詩篇

tulip「わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。『彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない』と。」(詩篇95:10新改訳)

イスラエル民族は、エジプトの奴隷として地獄の苦しみを味わっていたとき、神の恵みにより救い出された。にもかかわらず、荒野での四十年、神に文句ばかり言っていたのである。海が裂け(出エジプト14章)、マナが毎朝降り(同16章)、岩から水がほとばしり(同17章)、苦い水が甘くなる(同15章)、想像もできない奇蹟を目の当たりにしながらも、彼らは神を信じようとしなかった。▼不信仰は神に喜ばれない。喜ばれないどころか、忌み嫌われる。今私たちが見ているのは、神ご自身が人となり、十字架にかかり、復活し、天に昇られたという、イスラエルよりはるかにすぐれた奇蹟である。それを否定すれば、あとに何が残るというのか。逆らう者を焼き尽くす激しいゲヘナの火しかない。私たちの内においでくださったご聖霊とともに、信仰と謙遜の道を最後まで歩ませていただこう。

不信仰は旧約時代だけではなく、今も続く心の腐敗、邪悪性である。主が五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたとき、人々は熱狂し、主イエスをどこまでも追いかけた(ヨハネ6章)。そこで主はパンを食べることに夢中にならず、まことのパンであるわたし自身を信じ求めなさい、と言われた。するとユダヤ人たちは、「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか」(同6:30)と逆に質問したのである。▼なんと醜い心理であろう。さっき、奇蹟のパンを食べたのに、「もっとすごい奇蹟を見せてくれ、そしたらあなたを信じてもいい」とたたみかけるとは・・。彼らはナザレのイエスを初めから信じていなかった。彼が見せてくれるしるしと不思議に酔いたかった、熱狂したかった、それだけである。▼現代も同じなのだ。我々もイエスを求めているようで、求めているのはしるしと不思議なのだ。「あなたがクリスチャンであることは承知している。ではどれだけ実を結んでいますか?祝福されているという実績を見せて下さい、データで示せますか。目に見える成果、それが示されたらあなたとともに主がおられることを信じます」▼神が忌み嫌う心の腐敗から出ている信仰を、ほんとうの信仰と勘違いしてはならない。そこには文字通り、地獄と天国の落差があるのだから。