「このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう」(Ⅱペテロ3:11新改訳)
人間は目に見える具体的なもの、財産、名声、地位などを重んじ、それらを獲得したり維持することに、生涯のすべてを費やす。しかし主の日が来ると、天の万象も地そのものも消滅する、とペテロは断言した(10)。まさにソロモン王が「空の空、すべては空」と言ったことは正しかったのである。▼では私たちにとり、真に大切にしなければならないものは何か?といえば、物ではなく「生き方」である。パウロが愛の章で、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」(Ⅰコリント13:13同)と述べているのがその証拠に他ならない。そしてさらにいえば、イエス・キリストこそ、永遠に存続する敬虔な生き方が形となって現れたお方であった。そこで、信仰によってこのお方につながるとき、私たちは初めて永遠の滅亡、永遠の消滅から救われ、神の喜びに入れられるのである。◆たしかに私たちキリスト者は、今の世界に所有するに価するものはなにもない。しかし来るべき永遠の世界ではそうではない。ダビデは「主は私への割り当て分 また杯。・・・割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい 私へのゆずりの地です」(詩篇16:5,6同)と歌ったし、ダニエルも「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」(ダニエル12:13同)と言われている。だから、まちがいなく私たちには定められた相続財産である土地があるのだ。具体的には、新天新地に出現する永遠の都エルサレムがそれだと思う。キリストの新婦とされた者は宝石の都エルサレムに、永遠の相続地を持つのであり、想像するだけでも心がおどるのである。そして都はキリストご自身であり、永遠のいのちの実体にほかならない。旧約の諸聖徒たちは、信仰により、その都を望見して心おどらせ、その素晴らしさに圧倒されたので、地上では喜びのうちに天幕生活に甘んじながら生涯を終えたのであった。◆私たちもそうならせていただきたい。やせがまんや、無理をしてそう思うというのでなく、ほんとうにアブラハムやモーセのように、神が設計し、建設されつつある永遠の都の美しさに見とれ、我を忘れて地上を走り抜く者でありたい。
「主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。」(Ⅱペテロ2:9新改訳)
この世では犯罪を犯し、逮捕されると、最終的な刑が決まるまで拘置されるが、見えない世界でもこれと同じである。▼ペテロによれば、罪を犯した御使いたちや人間は、さばきの日(最後の審判)まで、地獄とかハデスとよばれる暗闇の場所に鎖につながれて幽閉される。人がもし、この冷厳な事実に目が開かれれば、泣いて救いを求めるにちがいない。そこは後悔と涙が昼も夜も満ちている場所であり、もし私たちが今それを目撃したとすれば、狂気のように、ハデスへ落ちないため何でもするだろう。また、誰に反対されても伝道することを絶対にやめないであろう、特に家族や愛する人たちに対しては・・・。▼人は霊の世界に対し盲目だから平然と構えて人生を送れるのだ。そして悪魔は、信じない人々を罪と快楽の奴隷にし、気がつかないうちに地獄へ連行している。何という悲劇か。もし私たちキリスト者の心の目が聖霊によって開かれ、世界の本当の有様が見えたとしたら、そこは枯れたる骨が満ち、滅びの坂を転げ落ちつつある人々の悲惨極まりない叫びが絶え間なく聞こえるであろう。その声があなたの耳を24時間占領し、眠ることができなくなるはずである。天の御父の断腸の思い、御聖霊の呻きに同調し、人前もはばからず泣かずにいられない状態になる。▼なぜ、主が山に伏し、野にひざまずいて父に祈り、イスラエルの町や村を不眠不休で巡られたのか?その理由がわかるであろう。この世の華美はまったく偽りであり、怒涛のように暗黒の滝つぼへ落ちて行く無数の人々とその悲鳴を目の当たりにしたあなたの目から涙が滂沱と流れずにはおれない。そして怠慢と偽善の罪を恥じて悔い改め、すぐに祈りの部屋に駆け込む人とならずにはいられなくなる。◆「イエスが『おまえの名は何か』とお尋ねになると、彼は『レギオンです』と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。」(ルカ8:30、31同)