しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <恵みと知識において>

2022-08-20 | 2ペテロ書
「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」(Ⅱペテロ3:18新改訳)
使徒ペテロが殉教を目の前にして書き送った手紙の最後の結びと頌栄(しょうえい)が18節である。ここで彼は愛するキリスト者たちに、「恵みと知識において成長しなさい」と勧めているのが印象的だ。▼私たちキリストにあがなわれた者は、地上にいる間、絶えず成長しなければならない。しかしその成長は「キリストの恵みと知識において」であり、たんなる物質的な成長や世的な繁栄を意味しているのではない。そして、そのことは謙遜な姿勢で御霊とともに敬虔に生きることによってもたらされる恵みなのである。使徒がこの章の8~13節で述べているごとく、主の再臨と世界の終わりは確実に近づいているが、だからといって心をさわがせる必要は少しもない。万物の支配者であり創造者であられる方が、キリスト者一人一人の心に住み、すべて必要な知識と力を与えて下さるからだ。▼ガリラヤの漁師として生まれ、波乱万丈(はらんばんじょう)の生涯を送り、最後は喜びに満ちて主のみもとへ召されたペテロ。恵みにより、そのあとに続いて行きたい。「私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。ですから、ぜひとも、私が去った後いつでも、あなたがたがこれらのことを思い起こせるようにしておきたいのです。」(Ⅱペテロ1:14、15同)


朝の露 <深い闇が>

2022-08-19 | 2ペテロ書
「この者たちは水がない泉、突風で吹き払われる霧です。彼らには深い闇が用意されています。」(Ⅱペテロ2:17新改訳)
ペテロたちが活動していた一世記、教会はローマ帝国内に急拡大しつつあったが、にせ教師やにせ信徒たちも多く現れ、福音伝道を混乱させていた。ペテロはそのような人たちをきびしい表現を使って非難し、正しく歩もうとする人々に注意をうながしたのがここである。▼にせのキリスト者たちは聖霊によるきよい実を結ぶことができず、肉欲と汚れを肯定し、罪を犯す生活をしてもなんら心配はないと、人々の肉を喜ばせるようなことを言う。また、自分も主を信じていると口では告白するがその生活は淫ら(みだら)で、本能に支配されるまま歩み、貪欲(どんよく)で昼間から飲み騒ぎ、好色で金銭にきたない上、巧みな言葉で純朴(じゅんぼく)な人たちの信仰をだます。この状況は現代でも変わらない。▼悲しいのは、一般社会ならまだしも、キリスト者と自称する人たちの中に、このような人たちが混じっていることだ。だが、主イエスがいわれたように、最後の刈り入れの時、すべてが正しくさばかれることになろう。

主とペテロたちがゲッセマネで祈り終え、立ち上がったとき、暗闇の中に大勢の群衆が現れた。一人の男が先頭に立ち、イエスに口づけしようとして近づいた。たいまつに照らされ、浮かび上がったその顔を見た時、ペテロは腰が抜けるほどおどろいたにちがいない。▼三年間起居を共にし、弟子たちの財布を預かるまで信用されていたイスカリオテ・ユダその人だったのだから‥。しかも数時間前までいっしょに食事をしていたそのユダが、じつは師であるイエスを敵に売り渡す張本人だったとは。▼そのときペテロは、人の心が持つ「底知れない闇の深さ」をはじめて見たのであった。ペテロがにせの信仰者について「この者たちは水がない泉、突風で吹き払われる霧です。彼らには深い闇が用意されています」と述べるとき、それは大げさでも誇張でもなく、自己が実際に体験した事実を指して述べているのである。▼キリスト教会はたしかに、地上に現された神の国である。御聖霊の臨在のもと、そこには天の輝きと喜びがあることは誰も否定できない。しかし、そのそばに、あるいはその近くに、「底知れない深さの闇」もまた存在していることは、認められなければならない。だから主が仰せられたことは、たしかな真実なのである。「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(マタイ10:16同)


朝の露 <聖なる山で>

2022-08-13 | 2ペテロ書
「私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。」(Ⅱペテロ1:18新改訳)
この御声とは、変貌の山でペテロ、ヤコブ、ヨハネにかけられた父なる神の御声である。「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。」(マタイ17:5同)▼天の御父から直接声をかけられた人間はひじょうにまれである。ペテロたち三人はその当事者として、以後のキリスト教会に大切なメッセージを伝える責任が与えられた。まずそのうちの一人、ヤコブはペンテコステにより始まったエルサレム教会で大切な働きをしたあと、ヘロデ・アグリッパに殺され、十二使徒として最初の殉教者になった。「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」(使徒12:1,2同)▼そのあと、ペテロはこの手紙を最後に、ローマで逆さ十字架につけられ死んで行った、と伝えられる。三人目のヨハネは、それから20年近く生き、ヨハネ福音書とヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲを書き残し、最後に壮大な神の国到来のまぼろしを見せられ、ヨハネ黙示録を書き上げて後世に伝えた。▼このように、キリスト者一人一人には、主から与えられた地上のコースと果たすべき使命がある。だから、いたずらにあの人の生涯、この人の生涯と自分を比較することなく、自分に与えられた信仰の走路を喜んで走るべきである。「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。・・・ペテロは彼を見て、『主よ、この人はどうなのですか』とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。『わたしが来るときまで彼が生きるようにわたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか(あなたの問題にすべき事なのか)。あなたは、わたしに従いなさい。』」(ヨハネ22:20~22、下線部は詳訳)



朝の露 Ⅱペテロ3章 <すべてが崩れ去る>

2020-02-22 | 2ペテロ書

紫の花

「このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう」(Ⅱペテロ3:11新改訳)

人間は目に見える具体的なもの、財産、名声、地位などを重んじ、それらを獲得したり維持することに、生涯のすべてを費やす。しかし主の日が来ると、天の万象も地そのものも消滅する、とペテロは断言した(10)。まさにソロモン王が「空の空、すべては空」と言ったことは正しかったのである。▼では私たちにとり、真に大切にしなければならないものは何か?といえば、物ではなく「生き方」である。パウロが愛の章で、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」(Ⅰコリント13:13同)と述べているのがその証拠に他ならない。そしてさらにいえば、イエス・キリストこそ、永遠に存続する敬虔な生き方が形となって現れたお方であった。そこで、信仰によってこのお方につながるとき、私たちは初めて永遠の滅亡、永遠の消滅から救われ、神の喜びに入れられるのである。◆たしかに私たちキリスト者は、今の世界に所有するに価するものはなにもない。しかし来るべき永遠の世界ではそうではない。ダビデは「主は私への割り当て分 また杯。・・・割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい 私へのゆずりの地です」(詩篇16:5,6同)と歌ったし、ダニエルも「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」(ダニエル12:13同)と言われている。だから、まちがいなく私たちには定められた相続財産である土地があるのだ。具体的には、新天新地に出現する永遠の都エルサレムがそれだと思う。キリストの新婦とされた者は宝石の都エルサレムに、永遠の相続地を持つのであり、想像するだけでも心がおどるのである。そして都はキリストご自身であり、永遠のいのちの実体にほかならない。旧約の諸聖徒たちは、信仰により、その都を望見して心おどらせ、その素晴らしさに圧倒されたので、地上では喜びのうちに天幕生活に甘んじながら生涯を終えたのであった。◆私たちもそうならせていただきたい。やせがまんや、無理をしてそう思うというのでなく、ほんとうにアブラハムやモーセのように、神が設計し、建設されつつある永遠の都の美しさに見とれ、我を忘れて地上を走り抜く者でありたい。


朝の露 Ⅱペテロ2章 <さばきの日まで>

2020-02-21 | 2ペテロ書

むらさき

「主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。」(Ⅱペテロ2:9新改訳)

この世では犯罪を犯し、逮捕されると、最終的な刑が決まるまで拘置されるが、見えない世界でもこれと同じである。▼ペテロによれば、罪を犯した御使いたちや人間は、さばきの日(最後の審判)まで、地獄とかハデスとよばれる暗闇の場所に鎖につながれて幽閉される。人がもし、この冷厳な事実に目が開かれれば、泣いて救いを求めるにちがいない。そこは後悔と涙が昼も夜も満ちている場所であり、もし私たちが今それを目撃したとすれば、狂気のように、ハデスへ落ちないため何でもするだろう。また、誰に反対されても伝道することを絶対にやめないであろう、特に家族や愛する人たちに対しては・・・。▼人は霊の世界に対し盲目だから平然と構えて人生を送れるのだ。そして悪魔は、信じない人々を罪と快楽の奴隷にし、気がつかないうちに地獄へ連行している。何という悲劇か。もし私たちキリスト者の心の目が聖霊によって開かれ、世界の本当の有様が見えたとしたら、そこは枯れたる骨が満ち、滅びの坂を転げ落ちつつある人々の悲惨極まりない叫びが絶え間なく聞こえるであろう。その声があなたの耳を24時間占領し、眠ることができなくなるはずである。天の御父の断腸の思い、御聖霊の呻きに同調し、人前もはばからず泣かずにいられない状態になる。▼なぜ、主が山に伏し、野にひざまずいて父に祈り、イスラエルの町や村を不眠不休で巡られたのか?その理由がわかるであろう。この世の華美はまったく偽りであり、怒涛のように暗黒の滝つぼへ落ちて行く無数の人々とその悲鳴を目の当たりにしたあなたの目から涙が滂沱と流れずにはおれない。そして怠慢と偽善の罪を恥じて悔い改め、すぐに祈りの部屋に駆け込む人とならずにはいられなくなる。◆「イエスが『おまえの名は何か』とお尋ねになると、彼は『レギオンです』と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。」(ルカ8:30、31同)