しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <御霊に蒔(ま)く者>

2024-09-07 | ガラテヤ
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:8新改訳)

ロトは叔父アブラハムと別れるとき、ソドムに住むことを望んでそこに移住した(創世記13章)。悪徳で有名な町だったのに住む気になったのは、彼が地上的な繁栄を何よりも重要視していたからであった。▼その結果、ソドム、ゴモラが天火に滅ぼされたとき、彼は妻と全財産を失い、ホームレスのように洞窟(どうくつ)に住んだと記されている(創世記19章)。今も、たった一度しかない人生を金儲けや世的な出世、名誉名声のために費やす人のいかに多いことであろう。そのような生き方をしているなら、永遠のいのちを獲得することなど望むべくもないことを知るべきである。▼地上の繁栄から見れば、御霊に従って生きる道は何の魅力(みりょく)もないように見える。しかしその道はまちがいなく永遠のいのち、復活の世界につながっている。だから欺(あざむ)かれないよう、いつも目をさましていよう。永遠の賛美と天の喜びを信仰の耳で聞きながら。▼「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台をすえました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでにすえられている土台以外のものをすえることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、ワラで家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火ととともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。」(Ⅰコリント3:10~13同)

朝の露 <肉のわざは明らか>

2024-09-06 | ガラテヤ
「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19~21新改訳)

神の国を相続できないとは、永遠の苦しみの場所・ゲヘナの火に落ちるということである。その恐ろしさをまともに考えるなら、人はどんなことがあっても肉の行いにふけるのをやめようとするだろう。▼私たちは日々のデボーションにおいて、十字架の愛を思うとともに、それを拒否して永遠の後悔に泣き叫んでいる人々の声を聞くべきではないか。ばく大な財産を捨てられず、主の前を悲しみつつ去ったあの若者(マルコ10:22)、私の恩師は献身すべきかどうか迷っていたとき、彼の後ろ姿をまぼろしのように示され、「彼はどこへ行ったのかを思え」と御霊の声を聞いたという。主のご愛を思えば、私たちに捨てられない宝などは一切存在しないはずである。▼「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。』そこでイエスは言われた。『下がれ、サタン。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」と書いてある。』すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。」(マタイ4:6~11同)

朝の露 <約束の子ども>

2024-08-31 | ガラテヤ
「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」(ガラテヤ4:28新改訳)

約束の子を別の言葉で表せば「契約の子」となる。すなわち「新契約の子」ということである。使徒ヨハネはこれについて、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と明白に記した(→ヨハネ一12、13)。▼神は私たちをご自身の子とするため、ひとり子イエス・キリストにすべての罪を負わせ、十字架に屠って新しい契約の供え物とされた。この事実に同意し、信仰によって受け入れれば、誰でも契約による神の子どもとなることができる。私たちは約束より血筋のほうが大切だと思いがちだが、そうではない。なにしろ永遠不変の神がご自身の真実にかけ、固い誓いをもって契約を締結(ていけつ)されるのだ。それは天地が消滅(しょうめつ)しても決してなくならないほどの確実性を持っている。約束の子とされた幸せを心から感謝しよう。

①罪咎をゆるされ 神の子となりたる わが魂の喜び 比べ得るものなし
②主に全く従い 安き得しわが身に 天つ家の歌声 響き来る心地す
③主のものとせられし わが身こそ幸なれ 感謝なき日はなく 賛美なき夜はなし
   日もすがら証しせん 夜もすがら 主をほめん
   み救いは妙なり み救いは奇しと
           <新聖歌266 詞:Fanny J.Crosby 1820-1915>

罪、咎をゆるされ、神の子とされた私の喜びは かぎりなく大きい
主イエスに従い、平安を得た私の心に 天の歌声が響いて来る気がする
主のものとされた私の幸福よ、感謝なき日、賛美なき日は 一日もない
ああ、毎日このことを語りたい、夜ふけても主を賛美していたい
救いはすばらしいよ! 救いはふしぎだよ、って!


朝の露 <律法の下で>

2024-08-30 | ガラテヤ
「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視(かんし)され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。」(ガラテヤ3:23新改訳)

高校時代、電車通学をしていた私は、K刑務所(けいむしょ)が見える近くを毎日通過して眺めたものである。高い塀(へい)だけが見え、中は知る由(よし)もなかったが、ひときわ目立ったのが監視塔(かんしとう)だった。それはとびぬけて高く、窓が全方向に設けられ、夜は水銀灯の明かりが煌々(こうこう)と塀の中を照らしていた。「あのようにして脱走犯(だっそうはん)を見張っているのだ」と思いながら見ていた。▼イエス・キリストが出現する前、旧約聖書の律法時代は、いわばこの刑務所のようなものだったと思う。律法の学徒だったパウロは、人一倍その息苦(いきぐる)しさを感じていたと思う。そこにはいつも「するどく見つめる目」があり、苦労して掟(おきて)を守ってもほめる言葉はなく、びくびく、おどおどしながら日々を過ごす生き方しかなかった。▼こうして心の刑務所生活にあえいでいたパウロは、その中でキリストに出会い、初めて信仰による自由を得たのである。私たちはその喜び、その感動を深く思うべきである。▼私を信仰に導いてくれたT師は三年四か月、思想犯として獄中生活を強いられた。キリスト教の牧師であったため、治安維持法違反に問われたのであった。だが日本は無条件降伏し、同法は廃止され、1945年10月8日に釈放された。「出獄の 日や コスモスの咲き乱れ」と先生は詠んだ。刑務所の門を後にし、花壇の花々と秋の青空を仰いだ先生の喜びが伝わって来る。いわんや、律法という絶望の牢獄から解放された使徒パウロの喜びはどんなであったか。

朝の露 <異邦人への使徒>

2024-08-24 | ガラテヤ
「ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。」(ガラテヤ2:8新改訳)

ペテロとパウロの選びによって、初代キリスト教の二大潮流があきらかになった。つまり、一つはユダヤ教社会への福音の展開であり、もう一つは異邦人社会への福音の拡大である。▼私たちは異邦人世界に生まれ育ったので、キリスト教といえばそれが中心であると思っているが、パウロに言わせれば、イスラエルこそが福音の中心なのである。すなわち、神の救いをオリーブの木にたとえれば、イスラエルこそ元木(もとき)であり、私たちは後から接ぎ木(つぎき)された野生の枝にすぎない。その価値において、はるかに軽い存在である。だからどのように福音が世界に拡大していっても、量的にはともかく、質的にはイスラエルの回心が起きなければ福音は完成しないのだ。▼パウロの宣教により、異邦人教会が次々と生まれ広がって行っても、福音の中心真理を受け入れないユダヤ律法主義がそれを破壊していく、その例がガラテヤ教会の変節(へんせつ)であった。使徒の苦しみと嘆きを痛感する。ただし、大きな目で眺めれば、ユダヤ的キリスト教徒からのパウロに対する攻撃は、ガラテヤ書を初めとするパウロ書簡を産み出す背景となった。私たちはこれにより、かえってパウロが伝えた福音の何かをより明確に把握でき、二千年のキリスト教会存立の土台に立つことができるのである。そこには、神の大きくて広い摂理の御手が存在する。だからパウロとともに叫びたくなるのだ。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(ローマ11:33同)