しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <刈り取りもする>

2022-01-15 | ガラテヤ

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7新改訳)

ときどき、聖書にはドキッとするような警告のことばが出て来るが、ここもそのひとつといえよう。▼新約の福音は、たしかに一方的な恵みと信仰による神からの賜物である。しかしだからといって、神をなれなれしく思い、平気で肉の道を歩むなら、その報いは必ずやって来る、パウロはそう警告してやまないのだ。たとえば、主イエスにもっとも近いところにいながら、財布の中身をくすねていたユダ、彼は最後にどこへ落ちて行ったであろう。神から与えられていた長子の権利と祝福を軽視したエサウ、最後に彼が流した涙と悲痛な叫びは、全時代の信仰者の耳に今も響いている(創世記二七章)。▼その反対も多く記されている。やもめたちの世話をし続けたヤッファの女弟子タビタ、彼女はペテロのひと声で死からよみがえった(使徒九章)。常に多くの施しをし、主に祈っていた百人隊長コルネリウスは、異邦人で最初に聖霊を受けるという祝福にあずかった(使徒十章)。神は侮るべき方にあらず。▼地上に生きている間に結果が出なくても、やがて来る神の審判のときには、どんな隠れたことも明るみに出される。これは厳粛な事実である(マタイ25:31~46)。


朝の露 <御霊が望むこと>

2022-01-14 | ガラテヤ

「肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。」(ガラテヤ5:17新改訳)

パウロが宣べ伝えた福音は、「人は律法を守ることによっては救われず、ただキリストを信じることにより救われる」というものであった。それなら、救われた人は律法を行う必要はなく、罪を自由に犯してもよいのか?ということになるが、答えは否である。▼キリスト者の人格中には御霊(聖霊)が来て住み給う。このお方は、キリスト者が肉の行いをするのを喜ばれない。未信者のときには肉欲にふけることを喜んでいた私たちだが、御霊は私たちの良心を内側から覚醒し、罪の行為に対する嫌悪の情を新しく燃え立たせるのだ。すなわち、神の律法が新しい生命として喜びをもって宿る状態になる、これが新創造されたキリスト者の歩みである。▼何と大きな変化であろう。外から押し付けられた律法の縛りではなく、内側から愛するお方といっしょに、喜びにあふれつつ主の望まれる道を行く、これが御国への道である。

主イエスは仰せられた。「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです」(ヨハネ10:4,5同)と。▼御聖霊が来てくださると、私たちの心には主イエスの声を聞き、そのあとについて行くことを喜ぶ心が生まれる。思えばふしぎな変化である。こうしてキリスト者は毎日、いそいそと信仰の道を歩んで行けるのだ。それは楽しく、満ち足りた心をともなう歩みである。同時に、未信者時代よろこんでいた不道徳やさまざまな暗闇の行いに対する興味を失い、むしろそれに嫌悪感を抱くようになる。かくして、心を一新された信仰者は力から力へとシオンの大路を歩み、ついて神にまみえることになる。詩篇の作者たちが歌っているように。


朝の露 <神々の奴隷>

2022-01-08 | ガラテヤ

「あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神でない神々の奴隷でした。」(ガラテヤ4:8新改訳)

神でない神々の奴隷だったとは、偶像礼拝者だったという意味である。▼ガラテヤは現在のトルコにあり、当時はアジア、ビティニア、ポントス、キリキア、リキアなどの小国から成っていた。東西交通の要所で世界中の人々が行き来し、同時にあらゆる偶像が持ち込まれ、礼拝されていたであろうことは想像に難くない。パウロはそれを挙げ、ガラテヤの人々がどんなに無知で、因習にしばられ、搾取(さくしゅ)されていたかを指摘している。その彼らがパウロの伝えた福音により、精神的束縛から解放され、すばらしい霊魂の自由を味わった。使徒は当時の彼らの喜びを、ここにくわしく描写している。それなのに、ユダヤ主義者たちがやってきて律法を守らなければ救われないというと、たちまち揺さぶられ、福音からはずれてしまったのだ。▼パウロの悲しみと憤りは大きかった。あなた方はまた「神々の奴隷」となり、すばらしい福音の自由を捨てるとは何と愚かで無知なことよ。使徒の涙を思わずにいられない。「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。」(ガラテヤ4:19,20同)

 


朝の露 <律法とのろい>

2022-01-07 | ガラテヤ

「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。『律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10新改訳)

この天地宇宙とそこに存在するあらゆる事物はみな、律法の呪いの下に置かれている。人が神のことばを破り、かつ今なお破り続けていることは、それほど大きく重大な結果をもたらしているのである。ところが人間はそれを自覚していない。ちょうど深海魚が何万トンもの水圧を受けているのに、知らないで海底を泳いでいるようなものだ。そして死ぬときがくると、永遠の火に落ちることを知り、慌てふためくのである。▼しかし感謝すべきことに、神のひとり子は全天全地に満ちている呪いと怒りのすべてを一身に受け、律法の要求を呑みつくしてくださった。だからどのような人でも、イエス・キリストを信じ受け入れると、律法はその人に対し、もはや何の呪いも罰則も課すことができないのである。こうして私たちは晴れて自由になるのだ。▼キリストの贖いの広さ、高さ、深さはどのような言葉を用いても完全には表現できない。それは私たち信じる者を、呪いからの完全に解放してくれるものである。


朝の露 <神の恵みを無にせず>

2022-01-01 | ガラテヤ

「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:21新改訳)

ユダヤ人にとり、神の前に義とされることは、私たちが考えているよりはるかに重大な意味を持っていた。それは永遠の滅びを免れるだけでなく、今の生涯にあっても神の前に少しの恐れもなく歩むこと、つまり堕落前にアダムたちが生きていた罪なき完全に回復することなのである。彼らはモーセ律法を守り行うことにより、それが可能であると主張し、パウロは「それは不可能で、人はイエス・キリストをただ信じることによって義とされる」と断言する。▼パウロが宣べる義と、ユダヤ人が主張する義の間には、その獲得の仕方において天地の差があった。それは行為と恩寵の差でもあり、キリストによる救いの恵みがどんなに大きく、喜びに満ちたものであるかを物語っている。私たち異邦人は律法を守ろうと努力し、死ぬような苦しみを通ってキリストの救いに出会った彼の大転換をよく味わうべきではないか。

信仰と恵みにより義とされるということは、ひじょうに深い意味をもっている。ところが私たち異邦人は、「律法遵守による義」を求めて苦しむ世界を体験的に知らない。もっとも大部分のユダヤ人もそうだったろう。パウロのようにごく少数の人がその苦悩の深さを味わっただけだと思われるが、しかし、じつはそれが大きな意義を秘めている。▼ただ信じるだけで義とされることを深く理解せず、表面的に受け取るなら、その後のキリスト者生涯は「浅い石地に根を下ろした麦」と変わらず、喜びも感謝もない肉的信仰生涯にとどまってしまうのである。そうならないため、神はローマ書7章のような義と聖化を求めて叫ぶパウロの苦しみを聖書に保存された。私たち異邦人キリスト者はそれを追体験として共有していくときに、使徒の大いなる感謝と喜び、キリストの贖いと十字架の深さ、広さを日々味わい、謙遜にさせられ、ふさわしい礼拝者へと変えられていくにちがいない。▼ガラテヤ教会の人々が容易く信仰を放棄した出来事が物語ることは、以後の二千年に及ぶ世界の教会が同じ危険性をいつも内面にはらんでいることの証明でもあった。そしてそれは、今まさに21世紀を生きている私たちキリスト者の、なまなましい内面的現実といってもよい。本章11節に記された「使徒パウロとべテロのきびしい対決」、そして絶対妥協しなかったパウロの姿勢に、行いではなく信仰によって人は義とされる、という福音の崇高さが輝く。それは1500年経た西欧キリスト教世界において、ルターたちに継承され、プロテスタント・キリスト教発祥となったのであった。もしパウロが生きていたら、私たちに叫ぶであろう。「神の恵みの福音をもて遊ぶな、私が生きたように福音を生きよ」と。