「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7新改訳)
ときどき、聖書にはドキッとするような警告のことばが出て来るが、ここもそのひとつといえよう。▼新約の福音は、たしかに一方的な恵みと信仰による神からの賜物である。しかしだからといって、神をなれなれしく思い、平気で肉の道を歩むなら、その報いは必ずやって来る、パウロはそう警告してやまないのだ。たとえば、主イエスにもっとも近いところにいながら、財布の中身をくすねていたユダ、彼は最後にどこへ落ちて行ったであろう。神から与えられていた長子の権利と祝福を軽視したエサウ、最後に彼が流した涙と悲痛な叫びは、全時代の信仰者の耳に今も響いている(創世記二七章)。▼その反対も多く記されている。やもめたちの世話をし続けたヤッファの女弟子タビタ、彼女はペテロのひと声で死からよみがえった(使徒九章)。常に多くの施しをし、主に祈っていた百人隊長コルネリウスは、異邦人で最初に聖霊を受けるという祝福にあずかった(使徒十章)。神は侮るべき方にあらず。▼地上に生きている間に結果が出なくても、やがて来る神の審判のときには、どんな隠れたことも明るみに出される。これは厳粛な事実である(マタイ25:31~46)。