しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ヨシュアの油断>

2024-09-24 | ヨシュア記
「族長たちはみな全会衆に言った。『私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。』」(ヨシュア記9:19新改訳)

ここでもヨシュアたちの油断が仇(あだ)となった。もちろんギベオン人たちも必死である。聖絶されれば一人も生き残ることはできない。どうすればよいか?「私たちはカナン人ではなく、はるか遠くの外国人で、イスラエルと親睦関係を結びたいのです」とウソをつくしかない。そう考えた彼らの計画は成功し、生涯、イスラエルの奴隷となったが、全滅はまぬかれた。▼後代のダビデ王とヨシュアの違いが、ここに表れているといえるかもしれない。ダビデはペリシテ人やサウルに追跡されたとき、そばにいた祭司を通して「主よ、私たちはどのようにすればよいでしょうか?」とかならず尋ねている。(しかしヨシュアはそれをしなかったのだ。)それゆえダビデは、敵が数々のワナをしかけてきても、神の指示により、さらにその裏をかくことができたのであった。空前の勝利をおさめたときなどは、全軍の長たる者の「神の前における霊的資質が問われる」のだ、ということがわかる。▼私たちも、どんな些細なことでも、いちいち主イエスに尋ねることを怠らないようにしよう。聖なる道を踏み外さないために。

朝の露 <アイ戦の勝利>

2024-09-23 | ヨシュア記
「その日、倒れた者は男女合わせて一万二千人、アイのすべての人々であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し出した手をもとに戻さなかった。」(ヨシュア記8:25、26新改訳)

エリコで罪を犯し、イスラエル全体をのろいに陥れたアカン一族が始末されると、待っていたかのように神の声がヨシュアに聞こえた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたに与えた」(1)と。このことから、一人の人が犯す罪がいかに大きな影響(えいきょう)を全体に及ぼすかがわかる。▼人間のからだでも、数十兆におよぶ細胞のうちに一つでも病気の細胞が見つかったら、取り除かなければならない。そうしないとみるみるうちに増殖し、からだ全体を死に至らせる。▼教会もそうである。「自分一人ぐらい小さな罪を犯しても、大した影響はない」とタカをくくっていたら、天よりの祝福は止む。死んだ一匹のハエが香油に落ちれば、もう使い物にならないし、わずかのパン種が混じれば聖餐式のパンはけがれたものになる。私たちは心から主を恐れ、自分のためにも、教会全体のためにも、神の聖霊を悲しませないよう聖なる道を歩むべきである。

①聖なる者と なさんとて 主我らを召したまえば
 聖なるものを 追い求めて 俗なるものと 手をば切らん
②聖なる者と ならんため 聖なる者の 言う言葉を
 信じて学び 実行せば 大みこころに 沿うことを得ん
③聖霊の火よ ああわれらに 天よりくだり 聖別なし
 主イエス君に 愛せらるる まったき者と なしたまえ
④聖なる者と ならんため 主ただひとり あおぎ求め
 愛する宝 愛する者 残らず君の 手にゆだねん
                      <新聖歌372 詞:Willam D.Longstaff,1822-1894>


朝の露 <アイでの戦い>

2024-09-19 | ヨシュア記
「ヨシュアは衣を引き裂き、イスラエルの長老たちとともに、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。」(ヨシュア記7:6新改訳)

大変なことになった。エリコでの大勝利に沸いたイスラエルだったが、次のアイ戦では最初から敗北したのである。こうなると、海の砂のように多い原住民たちは勢いづき、イスラエル軍におそいかかるであろう。▼原因は何か。ヨシュアと長老たちは契約の箱の前で一日中ひれ伏し、神のあわれみが示されるよう祈り懺悔(ざんげ)した。そもそものまちがいは、エリコよりはるかに小さいアイを見てイスラエルは油断し、簡単(かんたん)に勝てると思い込んだことにある。このときヨシュアが「主よ、アイとの戦いに私たちは勝てるでしょうか?」たずねていれば、「いや勝てない。お前たちの中に、エリコののろわれた物品を盗んだ者がいる。その者を除くまではアイに敗北する」とのお声を聞いたであろう。▼どのような時も、必ず神のお声を聞いてから行動する、そういう信仰者になるべきだ。そもそも私たちキリスト者には、助け主である御聖霊が内住された。この方こそ人生のガイドであり、ありとあらゆる時と場所において、喜んで、どのような相談にも答えてくださる方である。それなのに、私たちは毎日、ほとんどの場合、相談することなしに自分で決め、自分で勝手に行動している。狡猾(こうかつ)そのものである悪魔が虎視眈々(こしたんたん)とねらっているのに、である。これでは人生うまくいくはずがない。挫折(ざせつ)や失敗におそわれると、あわてて「主よ、御助けを!」と祈る、いかに浅はかな歩みであろう。もう一度、ヨシュアたちが取った悔い改めの態度から多くを学び、「ことごとに祈りをなし、願いをなし、感謝して」助け主に相談しながら道を歩む者とさせていただこうではないか。


朝の露 <遊女ラハブ>

2024-09-18 | ヨシュア記
「しかし、遊女(ゆうじょ)ラハブと、その一族と、彼女に連(つら)なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察(ていさつ)させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。」(ヨシュア記6:25新改訳)

遊女ラハブは、城壁(じょうへき)の中に住んでいたことから見て、エリコの町でもいやしまれていた人々のうちにいたと思われる。なぜかというと、いざ戦いが始まったとき、まっさきに破壊(はかい)されるのは城壁だからである。ラハブは遊女だったので、町の中に居場所を見つけられなかったのだろう。▼その彼女がイスラエルの神こそ本当の神であり、自分たちをほろびから救ってくださる方だと信じたのだ。それだけではない、偵察員と交わした約束に従って、自分に連なるすべての人たちを家に集め、彼らのいのちをも死から救い出したのであった。人が救われるのは、ただ、真の神に対する信仰によるのであり、身分の上下、職業の貴賤(きせん)などによらないことがラハブたちの救いによってあきらかである。(むろん、だからといって自分から進んで遊女になることは、あってはならないが)▼おどろくことにマタイ一章によれば、ラハブはユダヤ人と結婚し、ダビデの曾祖父(そうそふ)ボアズを生んだ。のろわれたエリコ出身の遊女が、ただ信仰によってメシアの系図に入れられたとはおどろきであり、神の恵みとあわれみの深さを思う。


朝の露 <割礼の儀式>

2024-09-17 | ヨシュア記
「そして、息子たちを彼らに代わって起こされた。ヨシュアは彼らに割礼を施したのである。彼らが途中で割礼を受けておらず、無割礼だったからである。民はみな割礼を受けると、傷が治るまで宿営の自分たちのところにとどまった。」(ヨシュア記5:7,8新改訳)

ヨルダン川を渡り、いよいよカナン征服戦が始まるというとき、イスラエルは二つの重要な取り扱いを受けなければならなかった。それは割礼と総大将ヨシュアの献身である。▼割礼はイスラエルの兵士たるすべての男子が名実ともに神のものになる儀式であった。エジプトを出たままの異邦人ではなく、聖別された神の民となってこそほんとうの戦いができる。割礼の傷が治るまでの期間、原住民たちが襲ってくればイスラエルは痛みで戦えない。そこで神は周辺の民に恐怖心を生じさせ、守られたことが一節に記されている。▼もう一つはヨシュアの献身であった。彼はあくまでもイスラエルの指揮官に過ぎず、真の大将は「主の軍の将」(14)として臨在しておられた方、イエス・キリストなのであった。