しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 ヨシュア記24章 <シェケムの契約>

2020-02-06 | ヨシュア記

水仙と黄梅

「ヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置いた。」(ヨシュア記24:25新改訳)

これはシェケムの契約、またはヨシュアの契約ともいわれる。カナン占領が一段落し、十二部族への相続地割り当てが終わった時、イスラエルはあらためて唯一の神・主への献身を誓ったわけである。▼ヨシュアは民に「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」(24)と命じたが、族長ヤコブも数百年前、おなじことを一族に命じた。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。」(創世記35:2同)▼また預言者サムエルも、イスラエルがペリシテ人に敗北したあと、「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい」(Ⅰサムエル7:3同)と悔い改めを命じ、民はそれに従ったのであった。信仰の勝利を願うなら、有形無形の偶像を徹底的に取り除くことが如何に必要であろうか。◆イスラエルはこうして、ヤコブ、シナイ山とモーセ、サムエル、ヨシュアと何度も契約を再確認したが、その歴史を堕落から引き戻すことはできず、ついに国を失い、捕囚となり、ほろびていった。どんなに硬い石に契約を刻んでも、人の心はそれを忘れてしまう。だからこそ、イエス・キリストによる新しい生まれ変わりが必要なのだ。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」(ローマ6:6同)とパウロが言う通り、キリストといっしょに肉性そのものが十字架につけられ、絶命している事実を御霊によって把握しないかぎり、ほんとうの自由はやって来ない。◆だから御聖霊は今も、すべて信じる人にこの真理を悟らせようと熱心に働いておられる。永遠の御国を建設するために。

 

 


朝の露 ヨシュア記23章 <一人で千人を>

2020-02-05 | ヨシュア記

つつじ

「あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。」(ヨシュア記23:10新改訳)

ここはヨシュアの決別説教ともいえる箇所。彼は110歳で死んだ(ヨシュア記24:29)が、その直前に語ったものであろう。ふしぎにモーセの決別説教と酷似している(申命記28章)が、考えてみればふしぎでも何でもない。この二人は、共に将来起きることを神に示されて語ったのだから・・・。内容はイスラエルが神に背き、カナン原住民たちと妥協して偶像礼拝に堕し、結局は約束の地から消え失せるというもので、千年も経ないうちに悲しくも成就した。▼外側からどんなに律法を聞かせても、人の心にある堕落性は変わらない。たとえ神の民として選ばれたイスラエルでも同じである。新しい律法、つまりイエス・キリストを信じて生まれ変わり、聖霊を内に宿した本当のキリスト者だけが、心から神の御心を行うことができる。選民の歴史はその証明であった。◆ここに「あなたがたは一人で千人を追うことができる」とあるが、サムソンがその好例であろう。「サムソンは真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、それで千人を打ち殺した」(士師記15:15同)と記されているが、私たちがその場にいたら、あまりのすごさに現実の光景とは信じられなかったかもしれない。あとからあとから、やられてもやられても襲いかかるペリシテ人、それを腕力でなぎ倒していくサムソン、とうとうペリシテ人は逃げ去り、あとに死体の山が残った。どう考えても、これは神の力の顕現としかいえなかった。御霊の力が彼を捉えたのである。◆しかし、そのサムソンが、である。遊女デリラのとりこになり、力の秘密を教えよと日々迫られ、「こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして」(士師記16:16,17同)しまい、そのため目をつぶされ、死ぬことになった。彼は超人的であったかもしれないが、罪から自由にされた人物ではなかった。じつにイエス・キリストただおひとりが、私たちを真に自由にすることができるのである。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」(ヨハネ8:36同)

 


朝の露 ヨシュア記22章 <証しの祭壇>

2020-02-04 | ヨシュア記

ゆり

「私たちは考えました。さあ、私たちは自分たちのために祭壇を築こう、と。全焼のささげ物のためではなく、いけにえのためでもありません。」(ヨシュア記22:26新改訳)

ルベン、ガド、半マナセの人々がヨルダン川のそばに大きな祭壇を造ったため、他の部族は戦いを始めようとした。それはモーセが次のように命じていたからである。「ただ、あなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。」(申命記12:5同)▼イスラエルは異邦人のように好き勝手な場所で神々を礼拝してはならなかった。それは霊的、道徳的堕落に通じる道であり、モーセは厳に戒めたのである。カナンを占領した時、幕屋はシロに置かれ、後にダビデとソロモンによりエルサレムに神殿が造営されて、そこが礼拝の中心になった。イスラエルが今なおエルサレム神殿の再建を夢見るのは、以上の理由からである。しかし私たち教会は、イエス・キリストこそが永遠のエルサレム神殿だと信じている。これがいかにすばらしい恵みであるかは、旧約時代を考えてみればわかるだろう。▼もし日本にいる私たちが神に礼拝と犠牲をささげようとすれば、遠いエルサレムまで旅をしなければならない。少なくとも三大祭り(過ぎ越し祭、五旬節、仮庵祭)にはエルサレムに上る義務がある。それだけでも、およそ不可能であることがわかる。しかし今は御聖霊が一人一人に内住し、活けるエルサレム神殿であるイエス・キリストがそこに臨在しているのだ。いつでも、どこでも、私たちは四六時中、エルサレムにいるのとおなじ、いやそれ以上にすばらしい神の臨在の中に置かれているのである。▼大切なことは、「神の御霊によって礼拝をささげる」ことである。すばらしい新約の恵みと自由を肉の働く機会としてはならない。それさえ守るなら、世界中にある教会はそのまま、活けるエルサレム神殿となり、実質的に地上に神の国が現出しているのと同じことになるのだ。

 

 


朝の露 ヨシュア記21章 <レビ人の町>

2020-02-03 | ヨシュア記

panjy

イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。」(ヨシュア記21:41新改訳)

レビ族は神殿で仕えることが職務であり、他部族のように畑地などの産業を持つことが禁じられた。ただ家畜の所有は認められたので、その放牧地も与えられたわけである。また、彼らの住む町も四十八と決められ、それらは全部族の中に散在していた。これには深い意味がある。▼レビ族は神の幕屋で奉仕することにより、豊かな臨在と祝福が与えられた。その代わり、礼拝制度と律法の精神を保持し、イスラエルを偶像礼拝と道徳的堕落から守る責務があり、そのために全部族の中に混じって居住しなければならなかった。そして当然ながら、他部族は収穫の十分の一を神にささげ、それがレビ部族の収入になったのである。▼神の民イスラエルという信仰共同体は、このようにして霊的、物質的に固く一致団結し、全世界に真の神の存在を現わしていく使命をもっていた。来るべき千年王国において、これが理想的に成就すると思われる。◆私は牧師、伝道者として半世紀活動しているあいだに、日本の各地に御用で行く機会をもった。ふしぎに感じるのは、およそどこの地にいってもキリスト者がいることである。決して多くはないし、教会もないことがある。しかしなぜか信仰の群れが存在するし、集会を続けているのだ。ほんとうに不思議に思う。◆神は、異教の地といわれる日本にも、地の塩としてキリスト者たちをあちこちに配置しておられる。ある方々はノンクリスチャンと結婚し、その家庭で生きなければならない。また、ある信仰者たちは全村が異教徒に囲まれている中、キリスト教徒として生きている。このような職場で?とおどろくときにも、そこにキリスト者を見つけることがあった。だから、家族全部がキリスト教ではない、といって悲観することはない。偶像礼拝に囲まれて生きる、というところに大切な神の使命が果たされていく、と私は信じる。◆イスラエルはレビ人が混じって生きる共同体であった。そこに国全体が霊的に守られる理由があったのだ。おなじように、わが国のキリスト者たちも、1パーセント以下だからこそ、その存在価値がかぎりなく尊いのである。ヨセフがエジプトの牢でひとり、信仰者として生きたように、エレミヤがただひとり神の器として、ユダで生きたように、私たちも置かれたその場所でキリストにつながって生きるのだ。限りなく尊い使命を果たしつつ。

 


朝の露 ヨシュア記20章 <のがれの町>

2020-01-30 | ヨシュア記

シクラメン

「意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。」(ヨシュア記20:3新改訳)

意図せずに誤って人を打ち殺してしまった人は、正式な裁判を受ける前に、私的な復讐で殺されてはならなかった。そのため設けられたのが「逃れの町」で、全土に六つ定められた。 ▼これは救い主イエス・キリストを象徴していることがあきらか。黙示録にはサタンについて、「私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者」(黙示録12:10同)と記され、キリスト者にとっては彼が「血の復讐者」に等しい存在であることを示唆している。このように、死の力を持つ敵の訴えに対し、神が定められた逃れの町こそキリストの愛のふところである。理由は、主ご自身が「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9同)と言われたからだ。キリストの御愛という町から出れば、たちまちサタンの餌食になる。「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように捨てられて枯れます」(同6)とあるのだから。▼使徒パウロはかつて教会を迫害し、多くのキリスト者に暴虐のかぎりをつくした。その彼がダマスコへの道で主の顕現に接し、回心、急転直下福音の宣伝者になったのであった。しかしサタンは彼を生涯告発し続けたにちがいない。多くの信仰者を迫害し、死に至らしめた奴。神よ、こんな者をあなたは使徒として用いるのですか、と。彼はその声を背後に感じながら、異邦人宣教に生きたのであろう。それだけに、ほかの使徒よりも神の恵みを深く広く味わい、涙しつつ生涯を生き、キリストの御愛を証しし続けた人こそパウロであった。主の福音は悪しき者の憎しみや告発さえも、神の栄光の発現へと変えてしまういのちそのものなのである。