「族長たちはみな全会衆に言った。『私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。』」(ヨシュア記9:19新改訳)
ここでもヨシュアたちの油断が仇(あだ)となった。もちろんギベオン人たちも必死である。聖絶されれば一人も生き残ることはできない。どうすればよいか?「私たちはカナン人ではなく、はるか遠くの外国人で、イスラエルと親睦関係を結びたいのです」とウソをつくしかない。そう考えた彼らの計画は成功し、生涯、イスラエルの奴隷となったが、全滅はまぬかれた。▼後代のダビデ王とヨシュアの違いが、ここに表れているといえるかもしれない。ダビデはペリシテ人やサウルに追跡されたとき、そばにいた祭司を通して「主よ、私たちはどのようにすればよいでしょうか?」とかならず尋ねている。(しかしヨシュアはそれをしなかったのだ。)それゆえダビデは、敵が数々のワナをしかけてきても、神の指示により、さらにその裏をかくことができたのであった。空前の勝利をおさめたときなどは、全軍の長たる者の「神の前における霊的資質が問われる」のだ、ということがわかる。▼私たちも、どんな些細なことでも、いちいち主イエスに尋ねることを怠らないようにしよう。聖なる道を踏み外さないために。