しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

新島襄

2014-12-01 | 日記

函館港にて函館港岸壁にはひとつの記念碑がありました。新島襄出発の地という碑銘。

徳川末期の1864年、どうしても海外に渡りたかった新島襄は、鎖国の禁をおかし、夜ひそかに小船で岸を離れ、沖合いの米国船に乗り、アメリカにわたりました。

そこでキリスト教に入信、ミッションスクール設立のビジョンを抱いて帰国、仏教の中心・京都に同志社を開いたのです。

岸に立つと、一人の青年のうちに熱くたぎった海外渡航の火が、こちらにも伝わってくるような感じがしました。深い摂理のうちに、神は新島を捉え導き、キリストの器として育てた後、日本に送り返しました。いつでもどこでも、歴史はまず一人の心から始まります。ルターしかり、パウロしかり。

今の若者はなっていない・・・よくそんな声を耳にします。でももしかすると、どこかで神は21世紀の新島襄を、すでに捉えているかもしれません。御国のため、熱く燃え滾(たぎ)った心を抱く青年を! そのことに期待しましょう。神様の御腕は力に満ち、失敗などありえないのですから。


布団をたたむ

2014-11-26 | 日記

はこだて丸私は毎朝ふとんをたたんで押入れに入れるのが習慣である。それはもちろん、寝室が畳敷きだからだ。冬にもなると、敷布団、掛け布団、毛布などが結構な枚数になるから、ちょっとした運動でもある。

あるとき、欧米文化はベッドだから布団片付けは要らない、楽でいいなぁ、と思った。しかし、神様とともに歩む日常では、事情がちがってきたように感じている。▼布団を四角にたたんで押入れに収め、きれいになった部屋を眺めると、あらためて「これで新しい一日が始まったのだ」と、なにやら新鮮な気持ちがわくのだ。

人は天のお父様の愛といつくしみがあってこそ、生きていられる。だって考えてみると、昨夜心臓がストップしなかったのも、頭の毛細血管がつまったり、切れなかったのも偶然ではない。今朝目がパッチリ開いて、あたりがきれいに見えるのも、あたりまえのことではないのである。だから、少し大げさかもしれないが、「ああ、天のお父様は、私に、今日も一日元気で生きることをゆるしてくださっているのだ」と考えると、感謝が自然にわいてくるのである。

その昔、エレミヤという預言者は詠(うた)った。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22、23新改訳)と。考えてみれば、私たちの人生は「朝ごとに新しい」のである。昨日の残りが続いているのではないのだ。毎日、私にだけ与えられた天よりの新鮮な一日が、父とイエス様から降ってくるので、その日は私だけが生きられる一日、他の人が決して取って代われない一日である。というわけで、お布団をたたんで、押入れにしまうというのは、日本文化が与えてくれた価値ある習慣だと思っている。

そうそう、忘れられない俳句があった。「ふとんたたみ、ぞうきんしぼり、別れとす」である。新聞の俳壇に載っていたもので、ある死刑囚が詠んだものである。とつぜん呼び出しが来たのだろう。その日、刑が執行されることになり、地上の生活と別れるのだ。彼はいつもしているように、房内の布団をたたみ、バケツの水で雑巾をゆすぎ、絞ってたたみ、脇に置く。あたりまえの動作がこの世との決別である。とっさに、紙片か手帳に一句を書き付け、同房の囚に託したのかもしれない。天の父がお呼びになられたとき、「はい」と返事して、喜び勇んで出立する、これほどすばらしい人生はないだろう。罪が十字架にゆるされ、復活の信仰を抱いたとき、私たちにもそのことが起きるのだ。
[写真:箱館丸・日本で最初に造られた近代的帆船・函館港で]