しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅱテサロニケ3章 <パウロの確信>

2014-10-04 | 2テサロニケ

10月のアサガオ 札幌「もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。」(14新改訳)        

パウロは自分の教えに神よりの権威をおぼえていた。それは威張っていたのでなく、「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」(ガラテヤ1:11同)との確信に強く立っていたからである。

自分の語ったことばによって、彼自身もさばかれること、神が彼に福音のメッセージを与えられたということは、それほど厳粛な事実なのだということを骨の髄まで体感していたからなのだ。そうでなければ、「私たちの指示に従わない者とは絶交せよ」との強い言葉は出て来ないはずである。

福音宣教を託されるということは、かくも重いことだが、私を含め、はたしてどれだけのキリスト者がその重大性を自覚しつつ世に向かっているだろうか。もういちど使徒の自戒を聞こう。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27同)

[写真:札幌ではアサガオがまだがんばっています]


朝の露 2テサロニケ2章 <再臨信仰の堅持>

2014-10-03 | 2テサロニケ

きれいな札幌の夕焼け「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」(2新改訳)

教会にとり、再臨ほどすばらしい希望はないが、それだけに悪魔も働く。初代教会から今まで、騒ぎまわったり、脱線したりする人々があとを絶たないのはそのためである。

しかし、それだからといって、アレルギーのようにこの教えを遠ざけた信仰生活をしているなら、別の意味で欺かれていることになろう。むしろ混乱や行き過ぎ、異端が多く起きるのは、敵にとって致命的なダメージを与えている証拠なのだ。

そこで私たちはパウロが「堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(15同)と勧めるのに従い、常に聖書を注意深く調べ、賢く正しい良心で再臨信仰を堅持すべきである。花婿を待つ10人の娘(マタイ25章)を分けたのは賢さと愚かさだったことを思い出そう。
[写真:きれいな札幌の夕やけ]


朝の露 2テサロニケ1章 <聖徒の苦しみ>

2014-09-27 | 2テサロニケ

大阪のバス「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」(5新改訳) 

リビング・ルームを飾る美しい磁器や色ガラスの花びんなどは、見る人に平和と静けさを与えてくれる。だが、そうなるまでには、デザイン家の産みの苦しみ、千度を超える炎に焼かれるという作品自身の苦しみが必要だった、ということを多くの人は忘れがちである。▼同じ事が信仰の世界でもいえよう。来たるべき神の国を飾るのは天のエルサレムだが、ヨハネはそのすべてが高価な宝石のように輝いていたと、おどろきをもって描写した。(→黙示録21章)▼私たちが今、いささかでも福音のために苦難を経ているなら、じつに幸いなことである。そしてなお輝きを増したいため、いっそう熱い火を願うなら、さらに幸いというべきだ。「それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるため」(1ペテロ4:13)なのだから。 [大阪のバスはにぎやかなデザイン]