しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <御父の命令>

2022-09-10 | 第二ヨハネ
「私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」(Ⅱヨハネ6)
御父の命令と愛をたずさえ、私たちの内においでになられた方は真理の御霊とよばれる御聖霊である。そして御父の愛はイエス・キリストの別名でもあるから、結局のところ、三位一体の神そのものが信じるキリスト者のうちに来られ、そこを御住まいとされる、それが新約における福音の恩寵(おんちょう)が意味することだ。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます<そして私たちは彼のところに行って、彼とともに私たちのすまい(すみか、特別な住居)を作る>。」(ヨハネ14:23同)▼これはなんとすばらしい事実であろう。考えてもみたい、神からはるか遠く離れ、罪の暗黒を這いまわっていた私たち異邦人、その果ては永遠のほろび以外になかった私たちが、十字架の恵みにより神の子とされ、聖なる神の住まいする家とされたのである。あのガダラ地方でレギオン(六千名の部隊)と名づけられた狂人、あるいは七つの悪鬼に占領されていたマグダラのマリア、それと大差なかった私たちだったことを思えば、神の愛といつくしみが、筆舌に尽くしがたいものであることを認めないわけにいかないではないか。(<>内は詳訳)


朝の露 Ⅱヨハネ <本当の愛>

2020-03-20 | 第二ヨハネ

水仙

「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。」(Ⅱヨハネ1)

使徒ヨハネが「私はあなたがたを本当に愛しています」と言うとき、それはただの挨拶や美辞麗句ではない。彼は三年半イエス・キリストと共に歩み、神の愛を現実に見たのである。そして御子が、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9同)と言われるのを、自分の耳で直接聞いたのであった。▼ヨハネにとり、愛とはナザレのイエスから流れ出したいのち、人を活かしてやまない天的生命そのものであった。主の公生涯で数えきれない人々がそれに触れ、生き返り、立ち上がり、死から生に移されて行くのを、その場でヨハネは見た。そして今、私もその愛で本当にあなたがたを愛しています、と言う。やがてキリストが再臨したもうとき、私たちのからだを含む全存在を栄光の姿に変貌させるのは、彼の愛がそうするのである。◆愛の使徒ヨハネはしかし、本書できびしい警告も発する。すなわち、キリストが人となって(すなわち肉のうちに)来られたことを告白しない人々は反キリストに支配されている、だからそういう人はキリスト者だと言っても、家に入れてはいけない、挨拶の言葉をかけてもいけない、と。◆イエス・キリストは「復活のからだ」をもってオリーブ山から栄光のうちに昇天して行かれた。そしてまた「復活のからだ」をもって栄光のうちに再臨したもう。だからこそ、そのとき私たちは自分のからだまで復活、栄化し携挙にあずかるのだ。この希望をもって地上を生きる信仰者が「きよい生活を送る」ことを熱心に追求するのは当然であろう。「からだとその行いはどうでもよい、墓に入り朽ち果ててなくなるのだから」と考えるのは大きなまちがいである。再臨の希望を持っているキリスト者は「キリストがきよい方であるように、自分をきよくします」(Ⅰヨハネ3:3同)とあるごとく、御霊に導かれつつ生きるのである。

 


朝の露 第二ヨハネ <真理のうちを歩む>

2015-03-14 | 第二ヨハネ

リンカトリアンセ「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」(4新改訳)

ヨハネの晩年、つまり一世紀の終わり頃になると、神が肉体をとって世界に来られたということを信じないキリスト者たちが出て来た。▼今日でも、すべてのキリスト者が処女降誕、十字架、復活、再臨をそのまま信じているわけではない。

だがヨハネは、神の子の受肉を信じない人々は、真理のうちを歩んでいないので、家に受け入れてもいけないし、あいさつのことばさえかけてもいけない、と言う。愛の使徒といわれるヨハネが、これほど厳しい言葉を出すのは注目に値する。▼ナザレのイエスを神の子と信じる信仰は、知的な納得や合理的説明から生じるのでなく、聖霊の働きによる。そしてまことの教会は、このような信仰により、新しく生まれた兄弟姉妹によって形造られる。私たちも決して妥協しないようにしたい。永遠のいのちは、この信仰にかかっているのだから。

[リンカトリアンセ]