しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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枯骨の谷

2019-12-29 | エゼキエル書

「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。」(エゼキエル37:1口語訳)

2019年最後の聖日、主は私にエゼキエル37章を中心に語るよう導かれた。いわゆる枯骨の谷の異象である。▼預言者がおどろきのうちに眺めた光景、それは谷を埋め尽くすような人間の骨、しかも干からびてまったく生気のない骨であった。主はエゼキエルにお尋ねになった。「人の子よ。これらの骨が生き返ることができるのか」と。▼科学の世界には、いわゆるエントロピーの法則がある。この宇宙にあるすべての現象は秩序→無秩序に向かい、その逆は起きないというものである。この法則に従えば、枯れた骨が再び生身の人には決して戻らない。私たちの常識でもそれは当然であろう。しかし主に命じられたエゼキエルが預言すると、なんと、映画のコマを逆回転させるように、骨と骨が相つらなり、肉が生じ、皮膚が生じ、はなはだ大いなる群衆となったのである。▼わが国一つ取り上げても、まさに人々は枯骨の谷の骨のようではないだろうか。干からびて骨のくずのようになっている人々の姿を見る。子供の頃、日本は今の何十分の一の経済力であった。ほんとうに粗末な生活だったのである。人々は食うや食わずの生活をしていて、何百万もの餓死者が出るかもしれないとでうわさされたのである。▼だが今にして思うと、人々の目に一種の輝きがあった。生きて行かなければならない、という決意のようなものが誰の目にもあった。悲しいことに、満ち足りた日本に見える現代、人々に生気がない。生きることに心配がなくなったが、生きる意味がつかめないもどかしさがある。▼この日本に真にいのちを与える者は何か。神のいのちの息である。このいのちの息をにぎっておられるのは、神の聖霊であられる。いや、このおかたこそ息それ自身であられる。そして神は「人の子よ、息に預言せよ」と命じられるのである。ではだれが息に預言できるのか。もしあなたがクリスチャンであるなら、その人である。とてもできない、と言うなかれ。枯骨の谷を生きた群衆で満たすのは御聖霊であり、そのお方に預言できるのはクリスチャンである。私たちはそれをしなければならない。なぜなら、同胞のたましいが泣いているからである。「われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる」と。それゆえ、私たちは骨に預言しなければならないのだ。