「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」(へブル4:10新改訳)
私は牧師という職業上、多くの人たちの葬儀をし、死に顔も見て来た。キリスト者の眠った顔は安らかなものがほとんどだ。眉間に深く刻まれたしわもなくなり、重い荷物を下して軽くなった。それを見て私も何かしらホッとする。▼ところで、あの日の夕方、もしアリマタヤ・ヨセフの墓に入り、主イエスの顔おおいを取って眺めたとしたら、どんなお顔であったろうか。そこには言葉に表現できないほど、平和で静けさに満ちたお顔があったのではなかろうか。▼主は「すべてが終わった」(ヨハネ19:30口語訳)と言い、十字架で息絶えられた。これは古い世界のすべてが終わり、あがないが完成したことを証しするひとことである。「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世記2:3新改訳)▼天地創造のあと、神が喜び満足し、休まれたように、十字架のあとにも神は喜び満足し、休まれた。それは花嫁を創造するみわざ、愛が完成したからである。この神のお喜びと満足の中に入れられること、それが私たちキリスト者の安息である。▼多くの人たちは、イースターといえば、墓の戸が開き、御使いの輝き、ローマ兵の恐怖、女たちのおどろきが起こったことを想像するであろう。しかし私は、前日の墓の静けさと、そこに横たわられた主イエスのおからだ、墓中に満ちていたであろう安息になぜか心惹かれる。パウロは言う、「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」(ローマ6:5同)と。▼金曜日には十字架における死の苦しみ、土曜日にはすべてが終わり、静けさに満ちた死と安息、そして日曜日には神の御力による復活、この順序には深い意味があると私は思う。個人的にはキリスト者が通るべき信仰体験の道筋のように思えてならないのである。