しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <判決の谷>

2023-05-29 | ヨエル書
「判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。」(ヨエル3:14,15新改訳)

世界歴史の終末に世界中の軍隊が聖地に攻め寄せるときは「主の日」とよばれ、旧約の預言者たちがその模様(もよう)を記している。ヨエルもしかり。▼判決の谷とはいわゆる「ヨシャパテの谷」といわれる場所でエルサレム近郊(きんこう)の深い谷をいうのであろう。主が地上に再臨されるときには大地震、つまり地殻変動(ちかくへんどう)が起き、地形が変わると思われる。判決の谷とはそこにできる谷をいうのかもしれない。▼主がエルサレムに降りて来られる姿は圧倒的な威厳と栄光に満ち、その御口(みくち)から発せられる声は天地を震わせる。そのようにして主イエスはご自身の民をかばい、侵略軍(しんりゃくぐん)に対しては恐るべき攻撃の火ぶたをきり、またたく間に焼きつくしてしまうにちがいない。▼かつてナザレのイエスとして十字架につけられたお方の復活の威容(いよう)に人はおどろき、立ちすくみ、ひれ伏すことになる。あくまで抵抗する者は文字通り、焼き尽くされるであろう。


朝の露 <泣いて祈れ>

2023-05-25 | ヨエル書
「神殿の玄関と祭壇の間で、主に仕える祭司たちは泣いてこう言え。『主よ、あなたの民にあわれみをかけてください。あなたのゆずりの地を、国々のそしりの的、物笑いの種としないでください。諸国の民の間で、「彼らの神はどこにいるのか」と言わせておいてよいのでしょうか。』」(ヨエル2:17新改訳)

これは、教会が信仰復興(リバイバル)を求めるときの祈りとして、しばしば引用されてきたものである。まさに今のキリスト教会は、これを自分たちの涙の祈りとしてささげなければならない。▼世界中にはびこる不信仰、不道徳の洪水、教会は建物だけはあっても、そこから人々をきよきに導くいのちの流れが止まって、ワジ(水のない涸れた川)になっている。世界の壮大な教会堂は観光名所ではあっても、祈りや賛美が天に上ることはなく、閑古鳥(かんこどり)が鳴く。▼聖霊が注がれるリバイバルを求めてうめく聖徒たちはどこへ消えたのか。なぜ私たちキリスト者の顔には、涙のあとが見られないのか。祈りの火はどこに行ってしまったのか。

  • 御霊よ滅ぶる世人のため 我をも遣わし叫ばしめよ                                御神は世人をいつくしむと
  • 御霊よ聖徒に救い主の みかたち成るまで悩ましめよ                                産みの苦しみもわれ厭わじ
  • 御霊よ主イエスの花嫁らの 装い成るまで忍ばしめよ                               耐えがたく思う試みをも
  • 御霊よ誓いの時来たらば 我にも栄えを仰がしめよ                               そのとき嘆きは跡なく消えん
(折返) 御霊よ言い難き汝が嘆きを 我にも分かちて祈らしめよ                                 賢き御思い我は慕う
             <インマヌエル讃美歌130 詞:中田重治、1930>

朝の露 <主の日は近い>

2023-05-24 | ヨエル書
「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る。」(ヨエル1:15新改訳)

ヨエル書の主題は「主の日は近い」である。しかもその日は神の怒りによる審判という性格をもって臨み、この上なくきびしいものになる。ただし、ヨエルは審判から逃れる道も示しており、それは自分たちの罪を心から悲しみ、断食と真剣な悔い改めをもって神の前に出ることだという。▼ユダ王国の末期は霊的にいえば悲惨であった。神に対する敬虔な信仰が失われた結果、自然は荒廃し、収穫はわずかになり、人も動物も野山をさ迷い歩いていた(18)。害虫は空と田畑をおおい(4)、略奪者たちは国内を走り回り、神殿に来る人々はごくわずかで、祭司たちも苦しんでいた。だがまだ遅くはない。断食ときよめの集会を招集し、誰もがエルサレムの宮に集まり、泣いて祈れ、ヨエルはそう叫ぶ。これは現代の霊的荒廃とまったく同じだ。主はキリスト者たちが涙の祈りをささげるのを、どんなに待っておられることか。▼血と汗にまみれながらゴルゴタの刑場に向かうイエスは、悲しみながらついてくるエルサレムの婦人たちに言われた。「わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。」(ルカ23:28~30同)▼やがて全世界に「主の日」が到来する。大患難は「全地の表(おもて)に住むすべての人に突然臨むのです」(ルカ21:35同)とも主イエスは言われた。私たちの備えは核シェルターを設けることではない。人の英知に期待する淡い夢を抱くことでもない。人の罪悪性は甘いものではなく、かならず暴発するのである。真の備えは、誰もがイエス・キリストを信じて永遠のいのちを与えられることなのだ。なぜなら、そのいのちだけが何物にも焼き尽くされず、永遠に存続して、新しい神の国に至るからである。

朝の露 ヨエル書3章 <シオンの都>

2018-11-07 | ヨエル書

赤い小花「あなたがたは知るようになる。あなたがたの神、主であるこのわたしが、わが聖なる山、シオンに住むことを。エルサレムは聖なる所となり、他国人が再びそこを通ることはない。」(ヨエル3:17新改訳)

地上に再臨された主はエルサレムに復活の栄光をもってとどまり、世界に神の国、いわゆる千年王国が始まる。キリストは活ける神殿なるお方ゆえ、エルサレムは初めて名実ともに神の都となるであろう。AD70年、ローマ軍が攻めて来た時、パレスチナのユダヤ人たちはエルサレムに逃げ込んだ。ここは神の都だから守られると信じ、全財産をもって避難したわけである。結果は悲惨で百万以上の人が死に、都は血の廃墟と化した。その有様は、ヨセファスのユダヤ戦記にくわしく記されている。▼神の都は、キリストが臨在されてこそ神の都となるのであって、美麗な建物群が満ちていても、それ自体に意味はない。これは私たちキリスト者にとっても、教会にとっても事実である。使徒パウロはコリント教会へ「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16同)と書き送った。▼現在、教会とキリスト者ひとりひとりには御聖霊が内住しておられるが、この事実を信仰によって受け止めるなら、私たちはすでに神の国に入れられ、千年王国に生きているのと変わらない。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3同)と主が仰せられたとおりに・・・。しかしはたして、この驚くべき事実を信じるキリスト者は果たしてどれぐらいいるであろう。かえって不平、不満、高ぶり、肉の欲の奴隷になっている信仰者が多いのではないだろうか。▼だから心貧しく、謙遜に生きる必要がある。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべての事に感謝しなさい、が自然に日々の生き方となるまで。

 


朝の露 ヨエル書2章 <聖霊傾注>

2018-11-06 | ヨエル書

うさぎ「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2:28,29新改訳)

この預言はペンテコステの日、エルサレムで成就した。そしてエルサレム教会が生まれた。現代はその続きであり、世界中のあらゆる民族、階級、いっさいの区別を乗り越えながら広がり、とどまるところを知らない。地域において強弱はあるが、恵みの大雨が降りしきっており、特に異邦人たちが次々に御国の門をくぐっているとは、嬉しいかぎりである。▼そして時が満ちると、今度はイスラエルにこの雨が降り出すにちがいない。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ」(ゼカリヤ12:10同)と明記されているからである。神はすべての民族、ノアの子どもたちをキリストにおいて一つに集め、来るべき永遠の御国を造りたもう。こひつじとはなよめの聖なる婚姻の日がそこまで近づいた。◆たしかに、主の教会はエルサレムから始まり、ユダヤ人たちが土台となった。が、しばらくすると福音は異邦人世界に広がり、今日に至っている。それは彼らの大部分がキリストを拒否し、福音を拒んで今日に及んでいるからだ。しかし、世の終わりにもう一度イスラエル全体が主イエスを信じ受け入れるときが来るであろう。◆教会は受肉した神のことば、ナザレのイエスにお会いしたユダヤ人たちから始まったが、歴史の終わりに、受肉した神のことばが再臨し、もう一度彼にお会いするユダヤ人たちによって締めくくられる。その間にはさまれるようにして異邦人の救いの歴史が造られているともいえる。パウロはそのことに言及して次のように言う。「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです」(ローマ11:25,26同)と。神の救いの御計画は、なんと妙なるもの、神妙不可思議としかいう言葉が見つからない。