しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <富者への勧め>

2022-04-23 | Ⅰテモテ

「善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」(Ⅰテモテ6:18,19新改訳)

富裕なキリスト信者に対するパウロの勧告である。高慢にならず、与えられた富を惜しみなく施しに使いなさい。そうすれば、神の国が到来したとき、主のために働いたことが評価され、永遠の祝福となって戻って来るであろう。▼そもそも金銭ぐらい頼りにならないものはない、それを愛することがあらゆる悪の根であることを忘れてはならない。万物を所有しておられる神にだけ目を留め、恐れを抱いて地上生活を送らなければならない、パウロはこのように富者たちに教えるよう、弟子テモテに命じたのであった。▼富める者が神の国に入るのはひじょうにむずかしいことだ、と主イエスも仰せられた。あらゆる時代のキリスト者は、主の御警告を強く心に刻み、金持ちになりたがる心をキッパリ捨てなければならない。施しと祈りに専念し、祝福にあずかったコルネリウスの生き方を思い出したい。「さて、カイザリアにコルネリウスという名の人がいた。イタリア隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」(使徒10:1,2同)

私たちはコルネリウスと対極的な立場にいた者として、イスカリオテ・ユダを心にとめておくべきであろう。あきらかに彼は金銭への強い執着心を持っていた。なぜなら、12弟子たちの公金を預かる会計係をしているうちに、その中から幾分かを抜き取り、私腹を肥やしていたからである。しかも11弟子の中でそれに気づいた者はいなかったから、とても巧みに繰り返していたことが想像できる。▼そうしているうち、彼はひそかに忍び寄る闇の敵に次第に心が支配され、主イエスを売り渡すための実行犯としてあやつられて行ったのだ。犯すまじきは罪である。ユダはほかの弟子たちとともに、主イエスのあらゆる奇蹟を見たし、その説教も聞いていたことはたしかだ。だが、次第に感覚がマヒし、何の感動も覚えなくなっていったと思う。富への関心が心をふさいで、霊的盲目になってしまったのである。もちろんそこには、敵の強い働きかけもあった。これは本当に恐ろしい事である。▼原罪を持つ人間心理のもろさ、ゆがみのような姿を見ないわけにいかないからである。あのエマオへの道におけるクレオパたちも同様であった。復活された主イエスを自分たちの目で直視し、耳でその声と話しを聞き、質疑応答を交わしながら数時間歩いていたのに、彼らはなお、主イエスを認め得なかった。なんと不思議な光景であろう。不信仰で心がふさがれる、あるいは富や何かへの強い関心のため心が閉ざされ、肉眼で見ているのに認識できない。これがわたしたち人間なのである。それでも戯画ですめば失笑程度で終わるかもしれない。▼しかし、それではすまない。ユダは最後に誰につかまったか。どこへ落ちて行ったかを思うべきである。愛してはならないものを愛する、執着してはならないものに執着する、そこには永遠の滅亡へつながる陥穽(かんせい)が口を開けていることを深く心にとめなければならない。

 

 


朝の露 <テモテの苦労>

2022-04-22 | Ⅰテモテ

「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。」(Ⅰテモテ5:23新改訳)

テモテはまだ若者だったと思われるが、パウロの指示に従って、各地に形成された教会を巡回しながら指導に当たっていた。▼これは彼にとり、今ふうに言えばストレスがたまる務めであったらしく、神経性胃炎に悩まされていたようだ。それで冒頭にある聖句のように、パウロから注意を受けていたのであった。この章には1世紀当時、異邦人教会の直面していた問題が記されており、たいへん興味深い。▼教会が扶助(ふじょ)すべき寡婦(やもめ)が多くいて、その名簿が作られていたこと、しまりのない生活をしている寡婦を訓戒し、指導すること、各教会で牧会にたずさわっている長老たちへの尊敬と謝礼のこと、また反対に訴えられた長老の扱い、罪を犯した信徒たちをどうさばくかという問題などなど・・・、たしかにこれらを処理するテモテの苦労は並大抵(なみたいてい)ではなかったろうと想像する。ローマ帝国中に増え広がる教会、それを組織化し、異端や異教徒たちの攻撃から守っていく務め、教会の課題は実に多種多様であった。▼とはいえ、私たちにとってはなぐさめでもある。当時も今も教会が直面するところは同じなのだ、と思うと勇気と信仰がわいてくるではないか。やがて天に行った時、私たちは同様の苦労を通ったテモテ達、初代教会の聖徒たちとともに喜ぶことができよう。

 


朝の露 <良心が麻痺し>

2022-04-16 | Ⅰテモテ

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。」(Ⅰテモテ4:1、2新改訳)

キリストの再臨が近い終末の時代になると、平気で偽りを語り、偽善の道を歩む人々によって多くの人たちがだまされ、悪霊の教えに影響されて正しい福音から離れるようになる、とパウロは述べる。▼今ぐらい、この預言に当てはまる時代は、かつて一度もなかったと思う。数えきれない人々の良心がマヒし、社会的地位の高い人、尊敬されるべき職業に就いている人でも、平気で恥ずべき罪を犯し、人生を台無しにしている。この現象は人間の心理や気質だけでは説明がつかない。御霊が言われるように、その背後には悪魔とその手下である悪霊たちのそそのかしがあることはあきらかだ。神が人間に祝福のしるしとしてお与えになった結婚や食物まで否定し、禁欲的行為が大した信仰の行為であるかのごとくおしえる異端的キリスト教まで現れている。▼使徒が愛弟子テモテに勧めるように、私たちは心をたしかにし、聖書を健全に信じる道からそれないよう歩んで行かなければならない。

昔、出エジプトしたイスラエルは荒野にいたとき、モアブ民族による誘惑を受けた(民数記25章)。すなわちモアブの女性たちが偶像祭にイスラエル人を招き、巧妙に計画された誘惑のワナにかけたのである。その背後にはにせ預言者バラムがいた。▼彼は神からイスラエル民族を呪うことをきびしく禁じられたが、モアブ王が呈示した莫大な報酬に目がくらみ、奸計を編み出した。つまり、選民を直接呪うことはしなかったが、自発的に罪を犯すよう仕向けたのだ。淫欲に満ちた偶像祭に誘い出し、イスラエルが自分の意志で罪を犯すならバラムのせいではない。彼はこう考えたのだろう、綿密な計画を立案準備すべくモアブ王に知恵を授け、イスラエル人を誘わせたのである。▼その結果イスラエル人の多くの男子がそれにのり、罪を犯し、神にのろわれるものと(みずからの意志で)なった。バラムはほくそ笑んだにちがいない、してやったり、これで金銀がたっぷりふところに入ると。これはエデンの園で悪魔がエバを誘い、罪を犯させたことと本質的に同じである。この問題はキリストの御再臨まで教会にも続いていることを忘れてはならない。「けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。」(黙示録2:14同、ペルガモン教会に対する御霊の警告)

 


朝の露 <贖いの代価として>

2022-04-09 | Ⅰテモテ

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」(Ⅰテモテ2:6新改訳)

ここは簡潔ながら、福音の根幹をなす真理をあらわしたみことばである。▼人が罪を犯すというのは、永遠なる神の御心を破壊する行為である。したがってそれを償おうとすれば永遠の罰を代価として支払わなければならないのは当然であろう。永遠を台無しにしたのだから。▼しかるに人は永遠者ではないから、それができない。コラ人が歌うとおりだ。「兄弟さえも人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:7,8同)▼だからここに永遠の神が全き人となる必要が出て来たわけである。すなわち、アダムたちが罪を犯した時点で、神の御子の受肉は必然となった。しかも、その御子が完全な贖いの代価として、十字架に宥めのそなえものとなることも必然であった。これ以上に不思議で感動に満ちたできごとは天にも地にも存在しない。

<ああ驚くべきイエスの愛よ>

①ああ驚くべきイエスの愛よ 罪を消し去るおおみ恵みよ いかなるものも立ち返らば 救い給う主の恵みよ 

②ああ驚くべきイエスの愛よ 我をもみ子となし給えり 罪の鎖を打ち砕きて  自由なる身となし給えり

③ああ驚くべきイエスの愛よ 自由なる身となすのみかは 心を変えてあらたになし みそば近く召したもうとは

〔折返し〕

恵みの深さ広さ 測り得るものなし 深さ広さ誰かは測り得る けがれにけがれし身も 恵みにて救わる 尊き御名をたたえよ たたえよ

<新聖歌224 詞:Haldor Lillenas.1885-1959>

 

 


朝の露 <この務めに任命して>

2022-04-08 | Ⅰテモテ

「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。」(Ⅰテモテ1:12新改訳)

パウロは決して強い人ではなかった。使徒の働きなどを読むと、彼の激しい性格、妥協しない態度が強く表れている印象を受ける。だがそれは彼の一面であり、本当は神の前における弱さを深く自覚した人であった。▼たとえばエペソ教会への手紙では、福音の奥義を大胆に語れるように祈ってほしい(6:19,20)と要請し、ローマ書では、不信仰な人々から救い出されるため、力を尽くして私のため神に祈って下さいと願っている(15:30~32)。▼これからわかるのは、ほんとうに強い人とは自分の弱さをありのまま認め、「私は神の力によってのみ強くされるのだ」と心から自覚している人だということ。▼宣教生涯において何度も死地をくぐり抜け、奇蹟的な活動を続けたパウロほど自分自身の弱さと無力さを知っていた人はいない。逆にいえば、それが真に強いということだ。私たちも「どうか私のため祈ってください」と率直に祷援を依頼する者になりたい。

我々はしばしば、聖霊に満たされることを、サムソンのようなパワーにあふれることだと想像しがちである。だがパウロの書簡全体を通して浮かび上がる「宣教の巨人」像は、そのようなものではない。祈らずには何もできない、主のあわれみと恵みを抜きにしては自分の存在すら保ち得ない、というひとりのキリスト者の姿である。▼教会の諸問題のため途方に暮れ、しばしば夜も眠れずに嘆願する聖徒、ある時は喜び、ある時は悲しみ、敵の餌食になってしまう信仰者たちに失望して呻き祈る神の器、それが教会歴史上最大の「神の人」であった。御霊のきよめと力に満たされるとは、御子と御父の前でありのままに生きることが真にできる人を指すのではないだろうか。「私を強くしてくださるキリスト・イエスに感謝しています」と心から言うことのできる生涯、それこそがキリスト者生涯のすべてであることを思い、喜びながら歩みたく願うものである。