しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主が来られる>

2023-08-16 | ゼカリヤ書
「私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。・・・主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」(ゼカリヤ14:5~9新改訳)

ゼカリヤ書一四章はキリストの地上再臨の光景を詳しく描いた預言書で、旧約聖書でも特筆すべき箇所である。特に5~9節はおごそかさに満ち、私は読むたびに、からだが震えて来るのを禁じ得ない。▼イエス・キリストが、かつて昇天して行かれたオリーブ山に降臨(こうりん)されるとき、すでに復活栄化し、携挙(けいきょ)されたはなよめたちがいっしょに降りてくるであろう。しかも千々万々の天使たちもその周りを取り巻いている。ああ、それはなんという光景であろう。かつて涙とともに地上を歩んだ無数の信仰者たち、その人たちが光り輝き、天の歌を合唱しながらイエス・キリストを取り巻いている。その背後には、これまた御使いたちの大賛美、天地を震わせる喜びの歌声が鳴りひびく。エルサレムに集結していた地上軍は、茫然(ぼうぜん)と立ちつくし、あっけにとられながら天軍を見つめるであろう。そして逃げ惑い、隠れ場を探して散り散りバラバラになるであろう。▼「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は『確かで真実な方』と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。その方は血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』と呼ばれていた。天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。・・・また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。」(黙示録19:11~19同)


朝の露 <羊飼いを打て>

2023-08-15 | ゼカリヤ書
「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえー万軍の主のことば―。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。」(ゼカリヤ13:7新改訳)

このみことばは、ゲッセマネで起きたことの預言である。そのとき主は、十二弟子たちに言われた、「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです」(マルコ14:27同)と・・。そしてそのとおりになった。最初、弟子たちは「どんなことがあってもあなたを離れません」と口々に言っていたが、いざ、主が捕縛(ほばく)されると、皆イエスを見すてて逃げてしまった(マルコ14:50同)のである。▼ゼカリヤは五百年も前にそのできごとを書き記していたが、はたせるかな、その通りになったのであった。預言とはいかに驚くべきものであろう。私たちは、やがて来るイスラエルの悔い改めも、キリストの来臨も、預言どおり、寸分(すんぶん)たがわず実現すると信じている。しかもそのときは、時々刻々(じじこっこく)近づきつつある。


朝の露 <ひとり嘆く>

2023-08-14 | ゼカリヤ書
「この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」(ゼカリヤ12:12新改訳)

患難時代の最後に、「地のすべての国々はエルサレムに向かって集まって来る」とゼカリヤは預言した。理由はあきらかにされていないが、諸国はユダヤ民族を攻撃し、エルサレムを包囲するのである。▼戦いはひじょうに激しく、聖地は全滅(ぜんめつ)寸前になると思われるが、そのときダビデの家とエルサレムの住民の上に「恵みと哀願(あいがん)の霊」すなわち聖霊が注がれ、人々は待ち望んでいたメシアが、かつてゴルゴタで十字架につけられたナザレのイエスその方だと知らされる。▼その結果、人々は戦いどころではなくなり、武器を放り出し、ひとりひとりが自分の罪深さに打ちのめされ、胸をかきむしりながら、よよと泣くであろう。夫婦も親子もなくなり、あらゆる人が自分自身の罪深さをおぼえ、転げ回って泣き悲しむのだ。イエス・キリストにお会いする、とはこのようなことなのである。想像しただけで深い感動をおぼえるではないか。

朝の露 <審判と救い>

2023-08-10 | ゼカリヤ書
「それは、わたしがもはや、この地の住民にあわれみをかけないからだ。―主のことばー。見よ、わたしは、人をそれぞれ隣人の手に、また王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」(ゼカリヤ11:6新改訳)

神はユダヤ民族にご自身のひとり子をお送りになった。慈愛(じあい)と結合(けつごう)という二本の杖(7)はそのことを示すのだろう。しかし彼らはそれを拒み、主は十二弟子のひとり・ユダに銀貨三十枚で売られ(11~13)、十字架つけられた。▼その結果、民族はローマ軍に占領され(王の手とはローマ皇帝と思われる)、聖地は徹底的(てっていてき)に破壊されてしまった。本章は主イエスによって伸ばされた慈愛と結合の手をふり切った選民に対し、失望と怒りを表わした章ともいえよう。▼羊の群れを見捨(みす)てる能なしの牧者(17)とは主を死刑にした当時の大祭司、議員などユダヤ指導者たちのこと。だが、神の偉大な御手はその上を行き、彼らの反逆を逆に福音が成就(じょうじゅ)する機会に変え、暗黒の中に滅びつつあった私たち異邦人まで救われることになったのである。



朝の露 <アッシリアから集める>

2023-08-09 | ゼカリヤ書
「わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリアから集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。」(ゼカリヤ10:10新改訳)

これも将来におけるイスラエル回復の預言である。かつてのアッシリア捕囚(ほしゅう)、バビロン捕囚はたしかにつらく、悲しい歴史であった。だがその結果、イスラエル民族が世界のあらゆる国々に存在するようになったといわれる。たしかにこれは歴史の不思議といってよい。▼ふつうの民族なら、国を失い、離散(りさん)すると百年もたたないうちに消滅(しょうめつ)していく。つまりその特徴(とくちょう)を失い、離散した国の人々に吸収、同化されてしまうのである。ところがイスラエルは2千年を経ても民族的特徴を失わず、生き残って来た。これは彼らの力、能力というより、神ご自身が消滅をゆるされなかったからである。▼その理由は、イスラエルから救い主キリストが出るという目的があったからだ。さらにそのキリストにより、永遠のあがないが成就(じょうじゅ)し、想像もできない父なる神の愛、知恵、いつくしみがかがやく、というのが最終目的なのである。イスラエルだけでなく、人は神から与えられた目的を知り、その実現のため生きるとき、もっとも価値ある人生を送ることができる。現代人の多くは何のために自分がこの地上に生まれ出たかわからないままに、あてどなく日々を生きている。生まれた以上、しかたがないから生きる、働く、結婚する、家を支えていく。そんな人がほとんどではないだろうか。▼自己の生涯が崇高さを持つのは、永遠の神により生かされていることを知ったときである。「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ 滅び失せる獣に等しい」(詩篇49:20同)とコラ人が歌ったように、創造主とキリストに出会うことがないと、人間は(神のかたちに造られたのにもかかわらず)山野にいる馬、鹿と変わらない存在で終わってしまう。惜しんでも惜しみきれないとはこのことである。