しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <神をほめたたえよ>

2022-03-15 | 詩篇

「角笛を吹き鳴らして神をほめたたえよ。琴と竪琴に合わせて神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神をほめたたえよ。」(詩篇150:3,4新改訳)

詩篇の結び・第一五〇篇はハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる。そしてあいだに「神をほめたたえよ」が十一回挿入され、まさに神への賛美が大波のとどろきとなり、天地にこだましている。▼聖書に記された人間の歴史は、エデンの園における悲しい堕罪からスタートした。そして旧新約六六巻は涙と苦しみ、神への叫びに満ちて終わる。しかしそれがなんだというのか。あらゆる人の生は創造主による悠久の御計画から見れば、無きに等しいもの、神の偉大さと讃嘆の声に呑まれ、跡形もなく消え去ってしまうものにしかすぎない。▼人間の罪と堕落、反逆の実相は、逆に三位一体の神がどれほど智慧と大能と愛に満ちたお方であるかを全天地に輝かすものとなった。だから悲しみと涙の全てはハレルヤの大合唱に呑み込まれ、やがて永遠の栄光に変貌していく。しかも、大合唱の中心にいますのは、死の苦しみを受け味わい、あがないを成就し、新しい復活の世界を開かれた「神のこひつじ」である。▼しかり、やがて出現する新しい世界、復活のいのちに満ちた世界は、父・御子・御霊の神が永遠の昔から計画しておられたもの、そこに満ちている大気は愛と謙遜の大気である。神にあがなわれたものたちは、その大気を呼吸するのである。最初のアダムは土から造られ、神の息を吹き込まれて生ける者となった。だが新しい息は十字架で死に、よみがえられた御方から出た息である。「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20:22同)▼じつに、私たちの内にいます御聖霊こそ、新世界を満たす大気であられ、すでにこの方によってキリスト者は復活世界の「息を呼吸している」のである。「音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。息のあるものはみな主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:5,6同)

 


朝の露 <主にほめ歌を>

2022-03-14 | 詩篇

「踊りをもって 主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて 主にほめ歌を歌え。」(詩篇149:3新改訳)

人間社会から、喜びの踊りや数多くの楽器と演奏がなくなったら、世界はさぞ味気なく殺伐としたものになるだろう。音楽はどれだけ人を豊かにし、うるおいを与えていることか。▼ ただ、注意すべきは、豊かな表現の舞踊やオーケストラなどを演じる目的が、「人間にその力を与えておられる創造主をほめたたえる」という目標からはずれてはならないことである。なぜなら、偶像をほめたたえる祭りや、恍惚状態で肉的欲望を満足させる忌まわしい歌と踊りが世界にあふれ、中には理性を失わせ、恐ろしい結果をもたらすものもあるからだ。▼エリヤのとき、バアルの預言者たちは一日中壇の周囲を踊り回り、しまいには自分のからだを自分で傷つけ、血を流しつつ「バアルよ、答えたまえ」と呼び続けた(Ⅰ列王記一八章)ことが記されている。教会での賛美や踊りには、御父と御子イエスをほめ、その救いのみわざを心から喜ぶ敬虔さが伴うべきである。聖なる神の臨在はそのようなところに満ちるからだ。

私は毎朝早く、ひとしきり5~10曲ほど賛美を歌うことにしている。さいわいヒム・プレーヤーがあるので、音程もテンポも、音色もリズムも自由に選び調節できる。会堂で一人で歌うとき、これが神へのささげものなのだと実感でき、とても恵まれるのである(ヘブル13:15)。▼私の場合は新聖歌を使っているのだが、譜面の上に小さく作詞者、作曲者、原曲の題名、年代等が記されており、必ずそれを見ることにしている。中には百年も前の詞や曲もあり、無名の人々に歌われて来た歌詞も曲もあって、興味がつきない。あるとき歌いながら作詞者名をみると、アッシジのフランシスとあり、800年前となっているではないか。若い頃、「ブラザー・サン、シスター・ムーン」という洋画を見たことがあったが、彼の純真な信仰が印象的だった。あたかもハレルヤ詩篇のような曲を歌っていると、当時の民衆の素朴な霊性に触れるようである。▼賛美の歌詞だけ味わっても、その世界は深く広く、長く高いことを感じる。いわんや、旧新約時代に神に向かってささげられて来た賛美は数千年の広大な歌声の総体であり、天を埋めている。無数の御使いたちの賛美、地上の信仰者たちの賛美、それらが大合唱となって神の宝座を取り巻き、子羊をたたえているとは。▼我らの神は全被造物からの賛美を受けるにふさわしい唯一の御方である。選びと救いにあずかった幸福に胸ふくらみながら、早朝のひとときを賛美のそなえものの座とさせていただく。これに勝る喜びがあろうか、と思いながら。

 

 


朝の露 <ほめたたえよ、ほめたたえよ>

2022-03-10 | 詩篇

「ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で 主をほめたたえよ。」(詩篇148:1新改訳)

本篇を味わっていると、神をほめたたえる声がさながら竜巻または旋風のように天地を駆け巡り、渦潮のように、あるときは激浪のように万物を震わせ、その振動が心の底まで伝わって来る。▼ここでは1~6節が天にある被造物への呼びかけ、7~14節が地にある被造物への呼びかけである。ほめたたえよ、ほめたたえよ、ほめたたえよ、と記者は天の御使いたちはもちろん、あらゆる被造物に呼びかけ、命じる。小さな人間が、感動のあまり、もろもろの天とその中に存在するすべてにハレルヤを叫び、命じるとは何という光景であろう。▼神の前では身分や上下の違い、生物、無生物の区別など意味をもたない。天地宇宙、過去現在未来も意味がない。おおよそ考えられる存在、ありとあらゆる個体、事象は主をほめたたえなければならない。それが存在している理由だからだ。人よ、自己の小さなことに悩む愚かさをやめよ、天地万有の大合唱に身を投ぜよ。

「獣よ すべての家畜よ。這うものよ 翼のある鳥よ。地の王たちよ すべての国民よ。君主たちよ 地をさばくすべての者たちよ。・・・主の御名をほめたたえよ。」(10~13)▼モーセ律法では、地上の生物や国民も汚れたものとそうでないものに分けられた(レビ記)。が、ここではその区別が消えていて、全被造物が主の御名をほめたたえよ、と命じられている。それはイエス・キリストの出現により、完全なあがないが成就したときのことを歌っているからだ。パウロもそのことを記す。「その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」(エペソ1:9,10同)▼すでに十字架により、御子の血潮によって神と被造物の和解が成り、大団円のときが迫って来た。その中心にいますのは神のこひつじ・キリストと、そのからだであるはなよめである。私たちはその宴(うたげ)に新婦として招かれた。その心備えができているであろうか。若い男、若い女、年老いた者、幼い者から選ばれた私たちは、今すでに主の御名をほめたたえ、主の御名だけをあがめる生活に入っているか。来るべきときに備えて。

 

 


朝の露 <主の英知は測り知れない>

2022-03-09 | 詩篇

「われらの主は偉大であり 力強く その英知は測り知れない。」(詩篇147:5新改訳)

一口に神の英知といっても、その広大さ、精緻さは人間の理解がとうてい及ばないものだ。人類はいまだに宇宙の広がりも、その果てがあるのかないのかも完全には理解していない。物質の究極の姿もわかっていないし、力の正体も突き止めることができていない。わかっているようで実は何もわかっていない、というのがほんとうである。それなのに、人間は万物の本源なる神に対して「まいりました。降参します」と言わずに、飽くことなく学問と称する探求を続けている。私にいわせれば、結局のところ傲慢で頑(かたく)ななのだ。▼神は人間に「愛を知る力」だけを与えられた。何がわからなくても、私たちは自分をお造りになった神を知り、愛されていることを感知することができる。そしてほめたたえ、礼拝することがゆるされている。これはじつにすばらしいことではないだろうか。しかも子供から老人に至るまで、全ての人が礼拝に参加できるとは、これぞ神の英知である。

サマリアの一女性は、村はずれの井戸でふしぎな人に出会った(ヨハネ4章)。いろいろな会話を交わすうちに、話はメシアの来臨に及び、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」と彼女が言うと、その人は「あなたと話しているこのわたしがそれです」と言われたのである。つまりこれは「わたしは在りて在るもの(エゴー・エイミ)」と、神の自己顕現のおことばであった。▼小さな村に住む零落した女性は、予想もしていなかったのに、万物の本源であるまことの神にお会いし、その御姿を見たのである。こんなふしぎなことがあるだろうか。まさにこれが「神の英知」である。創造主から遠く離れ、永遠のいのちの何たるかも知らず、露のように現れたが露のように消え、永遠の暗黒に呑み込まれて行く私たち人間、その目の前に神が現れなさった。▼もし神が本来の栄光と輝き、太陽よりも燃える炎のまま現れたら、女性は一瞬のうちに消滅したであろう。ところがそうではなかった。「あなたと話しているこのわたしがそれです」と語るひとりのユダヤ青年として現れたもうたのである。いかに罪深く、いかに反逆していても、いかに傲慢そのものであっても、それを怒らず撃たず、永遠の火に落とさず、救おうとして近づき、手を差し伸べられた神、そこに無限の英知と愛を認めないわけにはいかない。それが私たちの主、イエス・キリストである。


朝の露 <幸いなことよ>

2022-03-08 | 詩篇

「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし その神 主に望みを置く人。」(詩篇146:5新改訳)

詩篇第一篇にも「幸いなことよ」(1)とあり、ハレルヤ詩篇の最初である本篇にも「幸いなことよ」とある。では何が幸いなことかといえば、第一篇では主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ謙遜な歩みを指し、ここでは主の助けに一切の希望を置く生き方を指している。両者は結局ひとつなのである。▼昔、イスラエルが荒野を流浪したとき、その陣営の中心はモーセの幕屋(神殿)であった。そしていつも、神殿の周囲に十二部族が一糸乱れず、整然と宿営したのである。この形はあらゆる時代を貫く信仰の原理であって、教会生活の中心にもイエス・キリストの臨在が常に崇められていなければならない。それどころかキリスト者個人の人格の中心にも、またクリスチャンホームの中心にも主の御臨在が尊ばれているべきで、それが「幸いなことよ」との呼びかけが意味することである。▼私たちの地上生活は、中心が明確であればあるほど、星雲のように正しく回転することを心に刻みつけたい。

天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方、とこしえまでも真実を守る方(6)が、助けを与えようと常に目を注いでおられる人々は、①虐げられている人々、②飢えている人々、③捕らわれている人々、④目の見えない人々、⑤かがんでいる人々、⑥寄る辺のない寄留者たち、⑦みなしごとやもめたちである。社会では片隅に追いやられる人たちだが、実際は幸いなのだ。神は決して忘れることがなく、ご自身の真実をもってかならず扱い給うからである。▼主イエスが人として地上を歩まれたときも、あわれみと同情の手を差し伸べたのはこれらの人々に対してであった。言葉を変えて言うなら、キリストによって神の国が地上に開始されたのである。詩篇146篇が具体的なかたちをとって実現し出した、それが主の福音宣教であったといえる。しかもそれは一時的、臨時の神の国ではない。キリストの御復活は、永遠の神の国が開始されたという告知であった。滅び、朽ちて行く今の世の中に、永遠が姿をとって現れたのだ。まさに「喜びの訪れ」を知らせる鐘の音が私たちの世界に高らかに高らかに鳴りひびいたのであり、その音が二千年間天地をふるわせているのである。どうして「ハレルヤ!」と叫ばずにいられよう。どうしてこの大賛美に加わらずにいられよう。▼パウロ先生といっしょに歌おう、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:32~39同)