しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅱサムエル24章 <ひそかな誇り>

2020-06-25 | Ⅱサムエル記

「さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。『さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ』と。」(Ⅱサムエル24:1新改訳) 

この個所はⅠ歴代誌では、「さて、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした」(21:1同)と記されている。神はダビデが、晩年になって自分の繁栄と成功に酔い、得意満面になった心を見逃さなかった。サタンはそこにつけこみ、自分の性質である高慢を彼に満たそうとしたからである。私はネブカドネツァル王を思い出す。「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか。」(ダニエル4:30同)▼神はバビロン王と同じように、ダビデをきびしく撃たれた。その結果、彼は塵灰に伏して神を礼拝する祭壇を築いた。それがエルサレムの基となり、キリストも同じ所で十字架につけられた。全人類の高慢を全身に負い、神にのろわれ、捨てられた犠牲の羊として・・・。キリスト者である我々も、心ひそかに誇りを抱いている場合がある。自分はこれだけの働きをし、これだけ主に用いられた。そして、生涯にわたる「成果」をひそかに数え、自分を慰める。そんなとき、誰かが自分を評価し、ほめそやしたりすると心から嬉しいのだ。そんな経験がないだろうか。でもイエスは言われる。「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです」(ルカ6:26)と。▼そこで私たちは夜、床に着く前、静かに伏して自分の霊性を神の光に照らしていただくことが大切である。私の満足、平安、喜びはどこから来ているだろうかと・・・。ダビデは思った。「私の国にはこれだけ多くの民がいるのか。そして武装した兵士がこんなに多くおり、私の命令で動くのか。私はなんと幸福者よ。かつてはわずかな羊の群れの番をしていた少年だったのに、国の頂点をきわめたのだ。満足でこれ以上言うことはない」と。▼そのとき、あなたの前に、何もかも失い、天の位から落ち、はだかで血に染んだ痩躯を釘づけられたお方が現れなければならない。そしてあなたは、顔を恥赤らめ、心に大きな間違いを犯そうとしている自分を悔い改めるべきである。

 


朝の露 Ⅱサムエル23章 <三勇士>

2020-06-24 | Ⅱサムエル記

「こう言った。『主よ。そんなことをするなど、私には絶対できません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。』彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。」(Ⅱサムエル23:17新改訳)

喉が渇いたダビデのために、三勇士がいのちがけで水を汲んで来たとき、ダビデが言った言葉である。私は「いのちをかけて行って来た人たちの血」とのみことばを読むと、イエス・キリストの十字架をどうしても思ってしまう。▼思えば私たちが手にしている神のことば=聖書も、1ページごとに御子の血潮が注がれている書である。ただ印刷された文字が並んでいると考えてはならない、永遠の犠牲としてご自身をささげたひとり子のいのちから成る本なのだ。▼さらに、何千年にわたって、各時代の信仰者たちが、文字通り自分たちの全存在をかけて守り伝えたもの、彼らの涙、汗、労苦が全ページに染み渡る。その一言一句を調べ、意味を追求し、後代に伝えようと自らをささげている多数の人たちが今も存在する。思えば聖書は神の永遠の愛の結晶、同時にそれに答える信仰者たちの愛と献身の結晶でもある。これを大切にせずして何を大切にするか。▼「たえなるいのちのみことばあり、そのうるわしさはたぐいあらじ、いのちに満ち、まことに富む、聖書はたえなるいのちのふみ、聖書はくすしきいのちのふみ。みことば頼りにゆるしを得よ、みことば受け入れ、安きを得よ、ほかにあらじこの御救い、聖書はたえなるいのちのふみ、聖書はくすしきいのちのふみ。」(インマヌエル讃美歌390)

 

 

 


朝の露 Ⅱサムエル22章 <生涯の歌>

2020-06-23 | Ⅱサムエル記

「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル22:7新改訳)

これはダビデの生涯を総括した歌ともいうべき詩篇である。しかも「サウルの手から救い出された日に歌った」とあるのが印象的だ(1)。▼サウルはダビデに対し、ねたみ深く、冷酷、卑劣であり、生涯、不倶戴天の敵であり続けた。いったいダビデは何度、彼によって絶体絶命の立場に追い込まれたことであろう。しかし同時に、サウルがいたからこそ、珠玉のようなダビデ詩篇が生まれたともいえる。悪魔のような憎しみをもってサウルは彼を追い回し、ユダの荒野に、砂漠の洞窟に、水無き岩場や死の陰の谷に、最強の部下を引き連れて追い迫ったが、ダビデは天の聖所に向かって涙の叫びをささげた。ただ、自分を王として選んだ神に訴えること、それができるすべてであった。ダビデ詩篇はかくして産み出されたのだ。▼彼の子孫、キリストもそうであられた。ご自分を死から救い得る方に涙と叫びをもって祈り、その敬虔さのゆえに聴かれたのである。


朝の露 Ⅱサムエル21章 <ペリシテ戦>

2020-06-22 | Ⅱサムエル記

「これら四人はガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。」(Ⅱサムエル21:22新改訳)

強敵ペリシテ人との戦いは、ダビデが晩年になっても続いた。前王サウル一家はペリシテ人との戦いで戦死していたから、どんなに手強い相手だったかがわかる。▼しかしダビデのもとには多くの勇士たちがおり、彼らが王を助けて敵を打ち破った。ここにはアビシャイ、シベカイ、エルハナン、ヨナタンの四人が挙げられており、彼らはダビデが巨人ゴリヤテに勝った場面をみごとに再現した。ひとりの人が神の油注ぎを受けると、その周囲にまで祝福が広がり、多くの人々が御霊に用いられて悪魔の陣営を破ることがわかる。ダビデ軍の強さは神によるものであったことを、ダビデ自身が歌っている。「主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。この神は私のために、復讐する方。諸国の民を私のもとに下らせる方。神は、敵から私を携え出される方。あなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行なう者から私を救い出してくださいます。」(Ⅱサムエル22:47~49同)▼二千年前、地上に出現し、神の栄光を現した全き人イエス、このお方に用いられ、様々なしるしと不思議を行った人々は数えきれない。考えてみれば、私たちも「ダビデの部下」のようである。王なるキリストは天にあって大祭司の職につき、御聖霊は地上のキリスト者たちの内にあって力の基となり、福音の戦いは今日も続いて行く。主が再臨されるその日まで・・・。


朝の露 Ⅱサムエル20章 <アマサの死>

2020-06-18 | Ⅱサムエル記

「王はアマサに言った。『私のために、ユダの人々を三日のうちに召集し、あなたも、ここに帰って来なさい。』」(Ⅱサムエル20:4新改訳) 

ヨアブはダビデ軍団の長として、王を助ける立場にあったが、たびたびダビデの邪魔をし、苦しめた。そのためダビデは本章でヨアブを退け、アマサを代わりに任命しようとしたのである。アマサはヨアブの親戚であった。▼ところがヨアブは自分の地位を守るため、アマサを不意に襲って殺した(10)。その冷酷さ、残忍さにはあきれる。自分の地位を守るためなら、親族でも殺すのをなんとも思わない、こうして彼は軍の長であったアブネル、次にアマサを虐殺した。さらにダビデの懇願にもかかわらず、ためらいなくその子アブサロムまで殺したのであった。▼悪魔的なヨアブの性格は、やがて死をもって罰せられた。というのはダビデがソロモンへの遺命として次のように語ったからである。「また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは彼らを虐殺し、平和なときに戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。だから、あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい。彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない。」(Ⅰ列王記2:5,6同)▼そこで新しく王になったソロモンは、父王ダビデに逆らって罪なき人々を殺した彼を死刑にしたのであった(Ⅰ列王記2:34)。残酷な生涯を送り、悔い改めなかった者は、再臨の主によってきびしくさばかれる。反対に、そのような罪を犯した者でも心底から悔い改め、主のあがないにすがれば赦され、御国に入れる。あの十字架上の犯罪人のひとりのように・・・。