しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

聖日の朝に <コラ一族>

2024-06-23 | 聖書エッセイ
「モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼ら(コラ一族)の足もとの地面が割れた。地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を呑み込んだ。彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。」(民数記16:31,32新改訳)

ねたみほど恐ろしい罪はない。その典型となったのがコラ一族の死であり、彼らは生きたままよみに落ちたのであった。▼コラたちはレビ族の、ケハテ氏族に属する民であった。神はレビ族のうちからアロンの一族を選び、祭司として神殿で仕える務めを与えた。アロンたちもケハテ族だったが特別に選ばれたのである。しかしほかのケハテ氏族は祭司にはなれず、幕屋の聖具を運ぶ仕事を専門職として神より与えられた。▼これもまた実に尊い務めであったが、コラ族はアロンたちに命令され、仕事をすることに不満を抱いたのであろう、それをねたんでモーセに文句を言ったのだ。神がお与えになった立場に感謝しないで、他の人々をねたみ、さまざまな理屈をつけて文句を言う。この根底にはいちばんみにくいねたみの心理があった。コラたちはそれを表面に出し、モーセに逆らうようにみえて、じつは神に反逆したのである。これは最高の天使といわれたルシファーが自分の置かれた立場に満足せず、神の上に出ようとして悪魔になった経緯とよく似ていた。▼だから神は決してゆるさず、生きながらよみに落ちて滅びることを良しとされたのである。ねたみは骨の腐れといわれるほど(箴言14:30)いまわしい霊魂の腐敗性である。これから自由になる道は、謙遜が人となって現われたイエス・キリストのみもとに行くほかはない。神とひとしくある立場を捨て、世のもっとも低い場所・十字架にまでご自身を落とされた御子イエスこそ私たちの聖潔のみなもとである。御聖霊の導きにより、キリストと共に十字架につけられることが、キリスト者の地上における最大の目標とならねばならない。

聖日の朝に <偶像礼拝>

2024-06-02 | 聖書エッセイ
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。」(出エジプト20:4新改訳)

十戒の最初に記されているように、偶像礼拝は最大の罪である。たとえば私たちが木の小像をこしらえ、天の神よと呼んで礼拝するなら、それは全宇宙を創造された無限の神を、天から地にひきずり落とし、いやしめ、ごく小さな存在としてはずかしめることになる。それは、はかりしれない罪悪なのだ。▼わが国は昔から八百万(やおよろず)の神といって、何でも神にして拝み続けて来た。私たちキリスト者もその中で暮らしており、あまりに多くの神々に囲まれているので、信仰的・霊的感覚が鈍くなっていて、その罪悪性をするどく感じることが少ないのではなかろうか。▼海外の旅行客が大勢来て買い物や見物をしていると、日本人は「お金が入る」と喜んでいるが、彼らが心の中で日本を偶像でいっぱいの国と見下げ、失笑しているのを知っているだろうか。創造主をはずかしめ、自分を尊大(そんだい)に見せようとすることほど愚かで卑(いや)しい生き方はない。もし今のままなら、日本が世界で最も尊敬され、評価されることは決してありえないであろう。どれほど精巧(せいこう)で美しい物を次々と作り出している民族でも、霊的・信仰的に無知蒙昧(むちもうまい)な民として軽視されるだけである。ご聖霊がこの列島を顧み、偶像礼拝から解放してくださいますように。

聖日の朝に <血肉のからだは>

2022-09-25 | 聖書エッセイ
「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15:50新改訳)
私たちは現在の肉体を持ったままで、再臨される主イエスの前に立つことはできない、とパウロは断言する。それはなぜだろうか。現在の肉体はそのままでは朽ちて腐敗していくものであり、不朽の永続性を持っていないからである。むろんその原因は、始祖アダムが罪を犯した結果、のろわれて死ぬ運命下におかれたことに起因している。従ってそれはやがて来る永遠の神の国に存在したくても耐えられないのだ。▼たとえば使徒ヨハネはパトモス島で復活の主が現れたとき、その姿に撃たれ、死人のように倒れてしまった(黙示録1:17)。聖徒中の聖徒といわれているヨハネさえそうだったのだ。私たちの現在のからだは、永遠の不朽性をもった存在に出会えば、滅びてしまうしかない存在であることがわかる。▼そこで栄光の主にお会いするためには、私たち自身も復活して栄光のからだをいただく必要がある。それが「終わりのとき、ラッパの音とともに起きる」復活、栄化、携挙のみわざにほかならない。この奥義は神の一方的な恵みとして起きるが、目的は私たちを恐れなくキリストの前に立たせるためである。神はその御愛と憐れみのゆえに、信仰者が滅びることを望まれない。だからこそ私たちはその御力によって栄化にあずかるのであり、私たちの功績や自分の義によるのではない。▼主が天から来られる時、私たちは復活栄化に入れられるのだが、そのために、いま私たちに内住され、準備してくださっているのが第三位の神、御聖霊である。「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」(ローマ八11)。なんというすばらしい出来事であろうか。その日を待ち望んで生きる生涯こそ、もっとも幸福な人生である。「聞きなさい。私はあなたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:51、52同)▼ふだんから御霊によって歩んでいることの大切さがここにある。