しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 ルツ記4章 <摂理のうちに>

2020-03-23 | ルツ記

キンセンカ

「するとその買い戻しの権利のある親類は言った。『私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなたが買い戻してください。』」(ルツ記4:6新改訳)

律法によれば、土地所有者が子を残さずに死んだときは、親類のだれかが買い取り、その妻をも娶って子を得るべきであった。この場合、親類はエリメレクの畑を買い取り、嫁のルツによって子孫を設け、将来は畑と財産を一家に返還しなければならなかった。そうすればエリメレク家が後々まで続く。しかし相続のとき、生まれた子は親類の家とエリメレクの血筋にまたがるので、いろいろな問題の起きる可能性がある。買い戻しの権利のある親類はそれを心配し、辞退したのであろう。ボアズには何らかの理由で嫡子がいなかったのかもしれない。しかも彼は主を心からおそれる人物だったから、喜んで信仰の人ルツを迎えたのである。かくてボアズ家はルツとの間に生まれたオベデが継ぎ、やがてダビデ、ついにはマリアの夫ヨセフに至った。◆ここにはもうひとつ、神の恩寵の広さ、豊かさが輝いている。モアブ民族はロトが自分の娘との間にもうけた子孫であり、イスラエルに対する冷たい仕打ちのゆえに、神から呪われた民であった。しかもその偶像礼拝は有名だったのである。その民の中からルツが出て、メシアの家系に加えられたとは、いかに驚くべきことであったか。ルツ記はそれを語っている。すなわちどのような出自の人であれ、神を愛し敬い、ただ信仰によって従うなら、一切の呪いや不利益から救い出され、神の祝福の中に無代価で入れられると言う事実である。マタイの系図によれば、そこに記された四人の女性は本来なら祝福に遠い人ばかりであった。タマルは自分の舅ユダにより嫡子を設けたカナン人、ラハブは詛われた町エリコの出身、ルツはモアブ人、ウリヤの妻バテ・シェバは夫を殺され、殺したダビデの妻にさせられた人、本来であれば救い主の家系に入るのにふさわしくない人々ばかりである。◆だが、神はわざわざメシアの家系図にこの女性たちの名を特記するのを良しとされた。そこに輝くのは、「ただ一方的な恵みと憐れみによって」という神の栄光なのである。パウロとともに叫ぼうではないか。「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:6同)

 


朝の露 ルツ記3章 <夜の会見>

2020-03-19 | ルツ記

tulip

「彼は言った。『あなたはだれだ。』彼女は言った。『私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。』」(ルツ記3:9新改訳) 

「覆いを私の上に広げてください」とは、自分を妻にしてください、との意味である。次節からわかるが、ルツはボアズより相当年下で、彼の娘のように若かったことが想像できる。それにもかかわらず、彼女が自ら結婚を願い出たのは、姑ナオミを敬愛し、亡き舅(しゅうと)エリメレクの家をどうしても再興したいとの思いからで、浮薄な男女間の愛情などではなかった。▼暗い畑で男性に近づき、その裾をめくって伏す行為は、一歩間違えば大変な結果になる。しかしナオミもルツも、イスラエルを導かれる真の神を仰ぎ、すべてをゆだねて行動したのであった。そしてボアズもまたその誠意を正しく受け止め理解し、神の導きを信じて行動すべく決心したのである。すべてを支配し、見通しておられる神の恵みの栄光が、ルツ記には輝いている。◆この章で印象深いのは、ナオミという女性のもつ思慮深さ、ルツに対する助言の適切さであろう。謙遜とは、いたずらに引っ込み思案になることではない。それは信仰によって果敢かつ大胆に行動することも意味する。ナオミはボアズの信仰と気質を見抜き、神の保護を信じてルツに大胆きわまりない行動をとらせた。それはモーセ律法に則(のっと)った権利だったから当然といえば当然だが、モアブ人で貧しきナオミの嫁にすぎないルツをボアズに近づかせるには、夜間秘密裡に出会わせるのが一番と思ったのである。◆ここでもルツの従順が光を放っている。「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします』」(5)と。イエス・キリストは人となって地上に来られたとき、御聖霊の命じるとおりに行動された。御聖霊はヨルダンから上がられた御子にとどまり、ただちに荒野に連れて行き、主を必要な試練に会わせたもうた。ゲッセマネにも導き、十字架の道を示し、御子は苦祷の後にゴルゴタに従容と進まれた。すべては第三位の神の命じるままに行動されたといえる。その結果、あがないが完成し、ペンテコステとなり、御霊はすべての信仰者のうちに内住し、全時代全地域から主のはなよめが選ばれるという福音の時代がもたらされた。なんと賢く、無限の洞察力に満ちたお方であろうか。じつにナオミはそのお方を示すひな型として、摂理のうちに行動したのであった。

 


朝の露 ルツ記2章 <ボアズの畑で>

2020-03-18 | ルツ記

ミモザ

「彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。『どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。』」(ルツ記2:10新改訳)

ルツ記を読む私たちが、いつもすがすがしい気持ちになるのは、登場人物の心に流れる謙遜の清流を感じるからだと思う。特にそれが顕著なのはモアブの女性ルツである。「私はよそ者ですのに」とか、「私はあなたのはしための一人にも及びませんのに」(13同)と言った言葉には少しの嫌味もなく、素直でありのままのおどろきが現れている。なんと美しい心根であろう。▼ルツは福音により、御国の民として天の名簿に加えられた異邦人キリスト者のひな型といわれる。パウロが、「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27同)と記すとおりだ。私たちは内なるキリストの霊により、ルツが抱いた信仰と謙遜にあふれ、神の選びにふさわしい生涯を送る者となりたい。◆雅歌には、花婿のはなよめに対する愛の告白が、「あなたは私の心を奪った。私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りのただ一つの宝石で」(雅歌4:9同)と記されている。花婿をイエス・キリストと捉えれば、花嫁はキリスト者となる。とすれば、このおどろくべき告白ははなよめのどこを見て発せられたのであろうか。私はその鍵こそルツの謙遜にあると思う。イスラエルが軽蔑する民、モアブ人のルツ、しかし彼女の内にある謙遜と誠実、イスラエル人にも見られない美しさをボアズは見てとったのであった。◆キリストの御本質は御父への全き謙遜と従順、誠実で貫かれている。人となることにより、それが見えるかたちで私たちの前に現された。その徳性が聖霊の内住によって私たちキリストの性質となり、輝いているのである。イエス・キリストはそこに自らの伴侶としての美をおぼえておられるといえよう。私たちの内に主に向かう純愛、純真、まじりなき心があるとすれば、それは十字架の血潮により、新しく創造されたもので、生まれつきの性質では決してない。永遠の昔から神がそう御計画なさり、時満ちたときにひとりひとりのうちに与えられたものなのである。いかに驚嘆すべき選びであり恩寵であろうか。

 


朝の露 ルツ記1章 <ルツの信仰>

2020-03-17 | ルツ記

うすむらさき

「ルツは言った。『お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』」(ルツ記1:16新改訳)

今まで読んで来た士師記は、決して明るい物語とは言えないものだった。そこにはイスラエル士師記時代の民の堕落、不道徳、偶像礼拝の有様が遠慮なく、むしろ赤裸々に描かれ、私たちの心は重く沈みがちであった。もちろんそれはそれで、ひじょうに大きな教訓であったが・・・。▼しかるに、同じ士師時代でもルツ記はすばらしい内容に一変している。そこには暗黒と思える士師の時代にも、これほど信仰あつく、主を敬虔におそれる人たちがそんざいしていたのだ、というおどろきと、神の御手の偉大さ、慈しみの深さが如実に現れ、私たちの心は賛美にあふれるのだ。わずか4章の小話・ルツ記だが、その内に秘められた真理は新約の福音そのものとさえいえる。イエス・キリストの祖となったダビデの一生につながっている明るい橋にもなぞらえることができるできごと、それがルツ記である。▼ルツはモアブ出身の女性で、モアブ人とイスラエル人とは犬猿の仲であった。むろん宗教も違っている。そのルツがどうしてこのように真実で純粋な信仰を抱いたのであろう。おそらく彼女は姑であるナオミからイスラエルの神についての話を聞くうちに、この神こそほんとうの神であると知り、出身民族であるモアブの神々が無に等しいことを悟ったのであろう。▼それにしても、夫や舅が死に、ナオミがイスラエルに帰ろうとしたとき、ついて行こうと決心したのはよほどのことである。なにしろ、故郷と先祖の神々と完全に決別するわけだし、見ず知らずの土地でどんな生活が待っているか見当もつかないのだ。しかしルツの決心はゆるがなかった。彼女の心には、活ける神に対する本物の信仰が宿ったのである。異邦人の中からキリストのはなよめとして選ばれ、召された教会、キリスト者たちの姿、それが投影されているのがルツであり、キリストのそれはいうまでもなくボアズである。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21同:使徒パウロの告白)

 

 


朝の露 ルツ記4章 <七人の息子にもまさるあなたの嫁>

2015-09-02 | ルツ記

あさ「その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」(ルツ記4:15新改訳)

かつて神は、「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。・・・彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない」(申命記23:3~6)と言われた。それは彼らが偶像礼拝と不道徳によって堕落し、おまけにイスラエルに敵対したからである。

だがルツのように、神への真実な信仰を抱いた者に、こののろいは適用されない。彼女がイスラエルの神に対して抱いた信仰とナオミへの忠節はベツレヘムで評判となり、町中の人々が祝福する中、ボアズとの結婚に導かれていった。▼思えばはるか昔、アブラハムと行動を共にした甥のロト、その子孫からキリストの血筋に加えられる女性が出たのである。信仰さえ持つなら、捨てられた血脈に生まれようと問題ではない。キリストの人知を超えた愛により、その新婦(はなよめ)として御国に迎え入れられるのである。