しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <とつぜんの大漁>

2023-10-13 | ヨハネ福音書
「シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。」(ヨハネ21:11新改訳)

ふしぎである。ペテロたちは夜中ずっと漁を続けたにちがいないが、「その夜は何も捕れなかった」(3)。つまり、付近一帯に魚はまったくいなかったのだ。そのことを誰より知っていたのはペテロやヨハネ自身だったにちがいない。彼らは若い時からずっと漁師だったのだから。ところが、「舟の右側に網を打ちなさい」と主がいわれると、とつじょ、水中に魚が出現し、網にかかったため、舟が沈みそうになった。これは主イエスのおことばが創造主のそれであることを示している。▼復活の主は今も私たちと共におられる。私たちの周囲の状況がどれだけ暗黒で絶望的であろうと、心配する必要はない。全能の神は死の暗やみを、次の瞬間、復活の曙光(しょこう)に変えることがおできになる方だ。教会とともに、ひとりひとりのキリスト者とともに、この主が今もおられる。そのことを固く信じようではないか。「見よ、山々を形造(かたちづく)り、風を創造した方、その御思いが何であるかを人間に告げる方。暁(あかつき)と暗闇(くらやみ)を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。」(アモス4:13同)▼主よ、世界は今も暗黒と困難、カオス状態の中におかれているかのようです。でも、復活されたあなたは、たしかに、21世紀の世界に君臨し、これを統御しておられます。今夜、ただの一匹も取れない不漁だとしても、私たちは失望しません。あなたが共におられ、最善を以って世界を導いておられますから。


朝の露 <復活のいのち>

2023-10-07 | ヨハネ福音書
「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。』」(ヨハネ20:17新改訳)

私たちに与えられた復活のいのちは、復活された主イエスといのちと同じである。だからヨハネは詳細(しょうさい)な表現でそのことを記したわけである。くり返すが、復活後のイエスとキリスト者は、創造者と被造者の区別があるのに同じ兄弟であり、神は両者にとって同じ父であられる。このように全く新しい関係が復活により生じたことは、いくら驚いても間に合わないほどの喜びといえよう。▼地上におられたとき、主は「天の父よ」と親しく呼びかけられたが、今も大祭司として神の右にあり、その交わりの中におられる。ところが私たちもその交わりに入れられ、区別がなくなった。であればこそ、パウロは「私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(エペソ2:6同)と記したのであった。

朝の露 <あなたの息子です>

2023-10-06 | ヨハネ福音書
「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に『女の方、ご覧なさい。あなたの息子です』と言われた。」(ヨハネ19:26新改訳)

四福音書に出ている十字架の光景のうち、もっとも詳細(しょうさい)な記事はヨハネのものであろう。それは彼がマリアたちと共にイエスのいちばん近くにいたからにちがいない。たぶん最初はきびしく見張(みは)っていたローマ兵たちも、午後になると、女性や群衆の何人かが十字架のそばに近寄(ちかよ)ることを黙認(もくにん)したと思われる。▼母マリアにとり、イエスは「腹を痛めて産(う)んだ息子」にちがいなかった。しかしその悲しみも忘れ去るほど厳粛(げんしゅく)な空気が、あたりを包(つつ)んでいた。ふつうの死であれば、「お母さん」とか「ママ」と呼びかけるのに、この息子は「女の方」と尊敬の念をこめ、マリアに語りかける。▼万物をあがなう「なだめのそなえもの」としての死が今や完了しようとしていた。だが主イエスはマリヤの将来(しょうらい)も決して忘れたまわない。「あなたの息子がそばにいます」と仰せられたのである。こうして愛する弟子ヨハネはマリアを引き取り、生涯その世話をした、と言い伝えられている。▼まもなく、イエスは万物と人類の審判者として、私たちの前に立たれる。だがそれは同時に、ひとりひとりの地上生涯をつぶさに見つめ、関心と愛をもって見つめてこられた審判者としてである。私たちの家族、隣人、すべての地上における生活、あり方を主は無視されることはない。人はキリストのご関心が自分の人生のすべてのすべてにわたっていたことを知り、驚嘆(きょうたん)のまなざしをもって御子イエスを見上げることになる。


朝の露<過越の食事>

2023-09-30 | ヨハネ福音書
「さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸(そうとくかんてい)に連れて行った。明け方のことであった。かれらは、過越(すぎこし)の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸(かんてい)の中には入らなかった。」(ヨハネ18:28新改訳)

ユダヤ人は異邦人の家に入ると汚れ、聖なる過越の食事ができなくなると考えていた。そこでピラトの官邸に入らなかったが、イエスのことは縄(なわ)でしばり、さっさと渡した。▼モーセ律法には、野外で死んだ動物の肉は汚れたものとして決して食べてはならない。自分を汚すことになるから。ただし、その動物は異邦人に売っても差支(さしつか)えないとある。つまり、イエス・キリストは汚れた動物のように異邦人に渡され、異邦人もまたこれを価値なき者として厭(いと)い蔑(さげす)み、犯罪人たちといっしょに十字架につけた。これが十字架刑の意味するところなのだ。▼ああ、主はすべての人間から、ぼろ雑巾(ぞうきん)よりも価値のない存在として捨てられ、始末されたのであった。このように、主の自己卑下(じこひげ)はおどろくべきものであり、徹底(てってい)の極(きわ)みである。このことがわかれば、どうしてイエスの十字架を涙なしに仰ぐことができようか。このご謙遜(けんそん)がなかったら、私たちの救いも永遠になかったのだ。



朝の露 <永遠のいのちとは>

2023-09-29 | ヨハネ福音書
「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3新改訳)

永遠のいのちは、何かのプレゼントのように、一度もらえばそれで終わりというものではない。それは御父と御子の不断(ふだん)の交わりである以上、絶えず続いていくものである。▼たとえば人間どうしの結婚でも、ふたりが共になることによってお互いを知り始めるのだが、それは一生続いて行く。これで終わり、完成した、ということはなく、死ぬまで継続(けいぞく)していく。つまり、日増(ひま)しに交わりが深まり、広がり、充実(じゅうじつ)していくのが「知り合う」ということである。▼私たちが永遠のいのちを与えられたということもそれと同じで、地上に生きる限り、御父と御子を日ごとに知りつつ生きるのである。しかもそれは、年を重ねるごとに、いよいよ深く、広く、満ち足りたものになっていく。それが永遠のいのちにあずかるということであり、神と人が家族になるということの実態(じったい)にほかならない。思えば、キリスト者の一生は豊かで喜びに満ちている。まさにハレルヤである。