しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <真珠よりもはるかに尊い>

2022-05-09 | 箴言

「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」(箴言31:10新改訳)

イエス・キリストが十字架で死の苦しみを受け、血を流されたのはしっかりした妻を得るためであった。アダムが深く眠ったとき、神がその脇腹から骨を取り、エバをお造りになったことは、その予型だったということができる。すなわち、崇高な神のひとり子の愛は聖霊によってあらゆる時代と民に宣べ伝えられ、証しされ、それによってキリストをひとすじに愛し慕う一群の人々が生まれた。これがキリストのはなよめと言われる人たち、新しいエルサレムの実体である。▼彼女たちの心深く存在する純粋で無垢(むく)な愛を知っているのは、夫キリストだけである。そして主はその愛に心が奪われるほど感動しておられることが、雅歌に歌われている。「あなたは私の心を奪った。私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りのただ一つの宝石で。」(雅歌4:9同)▼すなわち御聖霊は私たち罪人を神の愛を満たすことにより、信じられないほど「しっかりした妻」として完成されるのである。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙示録19:6~8同)▼「御使いは私に、『子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい』と言い、また『これらは神の真実なことばである』と言った。」(黙示録19:9同)

 

 


朝の露 <その子の名は何か>

2022-05-05 | 箴言

「だれが天に上り、また降りて来たのか。だれが風を両手のひらに集めたのか。だれが水を衣のうちに包んだのか。だれが地のすべての限界を堅く定めたのか。その名は何か。その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」(箴言30:4新改訳)

アグルがなぜこのような聖句を記すことができたのかふしぎに思う。創造主の名とその子の名は、いうまでもなく天の父と御子キリストであるが、アグルは「あなたは確かに知っている」とイティエルに語りかけている。私がもしイティエルだったら、「うん、私は知っているよ。救われて天のおとう様と御子イエスを教えてもらったからね」と答えるだろう。▼旧約聖書では天の父とそのひとり子イエス・キリストについての啓示が完全ではなかった。だからアグルはもう一歩のところまで迫りながら、その先が見えなかった。「私は聖なる方の知識を持っていない」(3)との告白はそのとおりであった。しかし今、私たちは答えることができる。新約の光のもとに置かれ、しかもキリストの救いにあずかったからだ。ロウソクの光で真理を見ていたアグルのような当時の人たちからみれば、太陽の光の下で何もかも見える福音時代に生きる人たちは、うらやましくて仕方がないであろう。私たちは自らの幸せを思うべきである。▼むろん今は福音時代といっても、キリストを信じて新しく生まれなければ、アグルの挙げた疑問は解決しない。宇宙の果てまで届く望遠鏡や機器をもっても、何もわからない。わからないままで短い生涯を終えて行く人々は不幸である。一刻も早く救い主のところに来るべきである。

<罪の闇路に>

①罪の闇路にさ迷う者を、哀れと思し神は 御子を遣わし招き給えり、疲れし者よ来れ

②世人の罪を身に負い給い、十字架につきし神は 救い主なり、担い来りし重き汝が荷を降ろせ

③主のみことばに聞き従わば、永遠のいのちを得べし 招きの声を聞かばただちに行きて 救いを受けよ

④悲しき知らせ人ごとならじ、もろきは人のいのち されど救いを受けなば永遠に生くるを得べし、得べし

<折返>今ぞ今ぞ!主の恵みの日は今ぞ!救いの時の過ぎ行かぬ間に、来り救いを受けよ 

(新聖歌178 歌詞:中田重治、1870-1939)

▼罪という暗やみをさ迷いながら人生を終わる人間を、神は深くあわれんで、かけがえのないひとり子をお遣わしくださった。だから疲れ切っている人よ、神のところにお出で!▼すべての人の罪を負い、十字架に死んでくださった神こそ救い主なんだ。だれでも心の重荷をそこで下ろすことができるよ。▼招いておられる神様の声に今すぐ従って永遠のいのちを受けよう。▼私たちは今日無事でも明日はわからない。そんなにもはかなく、もろいのが人のいのちじゃないか。だけどイエス様を信じて救われれば、永遠に生きることができるんだ、ほんとうに!▼さあ今だ、今だよ。信じれば誰でも救われる恵みの時代は今なんだ。短い人生が終わっちゃう前に、早く主のもとに来て救いをいただかないか?


朝の露 <血に飢えた者>

2022-05-04 | 箴言

「血に飢えた者たちは誠実な人を憎み、心の直ぐな人のいのちを狙う。」(箴言29:10新改訳)

主イエスをなんとかして十字架にかけ、殺そうとした祭司長や学者、パリサイ人たち、彼らはまさに血に飢えた者たちであった。恐ろしいことである。彼らはそうすることで自分たちが神に仕えていると信じ、永遠の火に落ちる道を歩んでいるとは夢にも思わなかったのだ。罪と欲の道を歩んでいると、誠実で神の御心に従い、直ぐな道を歩む人が憎むべき存在に映り、一刻も早く殺してしまわなければ、と思いこむ。▼しかし主イエスはすべてを知っておられた。ご自分のいのちをねらう指導者たち、彼らは実のところ、自分で自分の心臓を矢で射ぬこうとしていた。主はその大きなまちがいが悪魔の計画から出ていることを見通しておられた。だから「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分たちが何をしておられるのか分かっていないのです」と十字架上で祈られたのである。罪により盲目とされた人ほど哀れなものはない。

アダムの最初の子カインは、自分の供え物が神に受け入れられなかったことに腹をたて、弟アベルを殺した(創世記4:8)。神は「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになったが、カインは「知りません。私は弟の番人ではありません」とふてくされて答えた。万物の創造主であり、人を土からお造りになったお方に対し、むくれて口答えするとはなんという傲慢であろう。この反逆性が罪の姿であり、血に飢えて他者を殺すという性質の本体であることに目が開かれなければならない。▼そこでヘブル書は心から勧めるのである。「兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」(ヘブル3:12,13同)


朝の露 <主に拠り頼む人は>

2022-05-03 | 箴言

「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし、主に拠り頼む人は豊かにされる。」(箴言28:25新改訳)

よく、「遺産相続の話し合いをするとき、そこは修羅場(しゅらば)になる」といわれる。ふだん仲の良い兄弟たちでも、自分の取り分をめぐって、くんずほぐれつの喧嘩をする。それを見ていると、つくづく人の性(さが)のどうしようもない面を見て暗然とする、そう話してくれた人がいた。▼また、法律の世界に生きる方が離婚調停の場でくりひろげられる争いを話してくれたことがある。かつては愛を誓い、ベッドを共にし、子供まで授かったのに、互いに口をきわめて非難し合い、慰謝料や親権を巡って相手を悪魔よばわりする。地獄を画に描いたようだ、と語られた。▼キリストの御生涯は、すべてを捨てて天の父により頼む生き方が見えるかたちで現されたものといってよい。自分の上着を取る者に対しては下着まで与えよ、と仰せられ、いっしょに一里行け、と言う人とは二里行きなさいと言われた。主は言われただけでなく、実際にその通りにされたお方である。十字架におつきになったとき、兵士たちはその下で上着を四等分し、下着はくじ引きにしたのであった。神の子は心だけでなく、文字通り「からだまで、完全に裸になられた」お方であった。その愛と謙遜を見られた天の父はご自身の右の座に御子をおすわらせになった。それは全天全地で最も高く、一つしかない大祭司の御座だ。▼私たちの人生は束の間である。その短いひとときを、神のおゆるしがあるなら、キリスト・イエスの愛をながめつつ暮らしたい。職業柄、やむをえず「地獄のような世界」を見て生きなければならないとしても、そこにも輝いている愛とゆるしのゴルゴタから決して視線を離さない者であり続けたいと願う。


朝の露 <人は称賛で試される>

2022-05-02 | 箴言

「銀にはるつぼ、金には炉があるように、人は他人の称賛によって試される。」(箴言27:21新改訳)

主が五つのパンと二匹の魚で五千人以上の群衆を満腹させたとき、感激した人々は王様にかつぎあげようと迫った。だが主はひとり、山に退き、その熱狂から逃れたと記されている(→ヨハネ6章)。天の父はひとり子イエスに、十字架で宥め(なだめ)の供え物となる道をお与えになった。そのため主は無数の支持者に囲まれ、称賛の嵐が降り注ぐ立場に立っても、惑わされることはなかったのである。このように、私たちが人々のほめことばに左右されず、まっすぐな道を歩み続ける秘訣は、神の御心から絶対に目を離さないことにある。▼主イエスと正反対の道を行ったのはヘロデ・アグリッパであった。彼がきらびやかな服を身に着け、王座から演説したとき、集まった会衆は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた(→使徒12章)。たぶんヘロデはその声を聞き、満足しながら演説を続けたのであろう。ところが、そのとき虫が喰いつき、あえない最後をとげたのであった。人は他人から称賛を浴びた時、どんな態度を取るかによってその心の真相を現わす。傲慢か謙遜か、敬虔か不敬虔かがあきらかになる。人の称賛に酔いしれたり、それを人生の生きる力にする者は、永遠の溶鉱炉・ゲヘナに落ちて行く危険あり、と聖書は警告してやまない。だからどんなことがあっても、それを避けることがほんとうの知恵である。▼「群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった』と言った。・・・すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んだ。『皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。・・・』こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。」(使徒14:11~18同)