しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <来たるべき都>

2022-07-08 | ヘブル書

「私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。」(ヘブル13:14新改訳)

ヘブル書の記者は、「地上のエルサレムはいつまでも存在する都ではなく、やがて新天新地といっしょに出現する新しいエルサレムこそ永遠に存続する都なのだ」、と強調する。▼本書の受け取り手は、たぶん、聖地に住むユダヤ人キリスト者たちだったろう。彼らは非キリスト者のユダヤ人から排斥され、エルサレム神殿に入ることをゆるされなかったと思われる。▼だがそれは問題ではない、地上のエルサレムはいずれ破壊され、なくなってしまうのだ。それにくらべ、私たちキリスト者が待ち望むエルサレムは永遠の都、現在の天地が消滅したとき現れる復活の世界に属しているのだ、と記者は励ますのである。▼このことばのとおり、パレスチナのエルサレムはAD70年と135年の二回にわたり、ユダヤ人の反乱を鎮圧しに来たローマ軍のため攻略され、神殿は灰燼(かいじん)に帰した。そのときから21世紀の現代にいたるまで、再建されていない。だが教会は心の中にほんとうの神殿、イエス・キリストの内住が与えられている。世界中の信仰者たちは心に存在する神の宮を通して、いつでもどこでも真実の礼拝をささげることができるのである。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(Ⅰコリント6:19同)


朝の露 <聖さがなければ>

2022-07-02 | ヘブル書

「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14新改訳)

キリスト者は地上生涯を通し、神の前に聖なる生き方をつらぬくべきである。ただ聖さといってもパリサイ人のように、うわべだけの、人前に見せる外面的聖さであってはならない。ほんとうに聖いとは、「私はキリストのあがない無しには一日として生きられない」と心から告白できる霊的、信仰的状態をいう、と私は信じる。▼使徒パウロは殉教も近い晩年、愛弟子テモテに、「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15同)と書き送った。これから明らかなのは、聖さ=自分は罪人のかしらだという自覚、ということである。もちろんこのことは、罪を犯していてもよい、という意味ではない。文字通り、イエス・キリストのあがないが私のすべて、という意識を持っていること、つまり完全な謙遜の状態を指すのである。▼そのようなキリスト者は決して人と争わないであろう。八方美人ではないが、柔和と謙遜に支配され、いかなる侮辱や攻撃にも耐える力をもち、平和な関係を造り出すことができるにちがいない。再臨信仰に生きるとは、まさにそのことではないだろうか。

 


朝の露 <もっとすぐれたものを>

2022-07-01 | ヘブル書

「神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」(ヘブル11:40新改訳)

私たちは、この章に出て来る旧約時代の信仰者たちが受けた苦しみ、迫害のすさまじさに息を飲む。彼らは石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺された。経済的にも生きる手段をうばわれ、動物以下の扱いを受け、荒野、洞穴、地下の暗やみなどに逃れたのである。それでも、彼らは信仰を捨てるよりは、守る道を選択したのだ。▼このように信仰というものの価値、輝きは旧約の歴史を通して輝きわたっている。しかしヘブル書の記者は言う。イエス・キリストが出現して開かれた福音の時代はさらにすばらしいものであると。ペンテコステの聖霊降臨により、御子のからだである教会が生まれたが、それは旧約の人々が切望した時代であり、奥義の時代、神の救いの御計画が完成する期間であった。かくてすべての時代のすべての聖徒たちがキリストにあって一つになり、永遠の御国が出現する。彼らはどんなにその日が来るのを待ち望んでいることであろう。▼「これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」(ルカ9:28~31同)


朝の露 <永遠の完成>

2022-06-25 | ヘブル書

「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」(ヘブル10:14新改訳)

一つのささげ物とは、十字架につけられた主ご自身のことで、主は自分から進んで神にのろわれる者となられたのであった。なぜなら「木にかけられた者はみな、のろわれている」(ガラテヤ3:13同)とあるからだ。つまり、キリストは御父に従うことにより、ご自分をのろわれた存在として十字架上に差し出されたのであった。▼しかしここにもう一つ、のろわれたものがある。それはパウロが言う「私のうちに住んでいる罪」(ローマ7:20)、すなわち本章22節の邪悪な良心である。他の表現では「古い人」ともよばれている。そうすると、この二つの事実を突き合わせると、十字架においてキリストと古い人は一つになってのろわれていることになる。これはまるで炎と氷が一つになったようなもので、私たちの常識や理性では決して理解、納得できないものだ。しかし聖書はそれを事実として宣言していることを信じ認めなければならない。パウロは断言している。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです」(ローマ6:6,7同)と…。▼これはなんとすばらしい事実であろう。何千年もの間、人間が苦しみ抜いて来た罪の本質、心にまとわりついて、どうしても離れなかった古い人が、キリストの十字架により、取り除かれてしまった。これこそきよめの本質、福音の中心そのもの、まさに喜びのおとずれである。


朝の露 <ご自分をいけにえとして>

2022-06-24 | ヘブル書

「もし同じたとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」(ヘブル9:26新改訳)

人類が過去、現在、未来の歴史で犯して来た罪の総量は、この天地宇宙を満たしてもなお足りないほどのものであろう。なぜなら、人は罪を犯しても、時がたてばその記憶が心から消えるかもしれないが、神の御心にはその人の行為として永遠に刻まれるからである。▼一方、イエスが十字架でお受けになった苦難はただ一度であった。時間からいえば六時間である。だがその苦しみによって、信じる人間のすべての罪は完全にきよめられ、神の御心から取り除かれたのである。これは、主イエスの流した御血潮が、神の御目には犠牲動物のそれと違って、測り知れない価値と尊さをもっているからにほかならない。▼私たちは聖餐にあずかるとき、また、礼拝で十字架のあがないを賛美するとき、主のいのちが持つ無限の効力、価値を真摯(しんし)に受け止めているだろうか。感動に心を震わせながら救い主の前に進み出る、それが礼拝ではないだろうか。天にあっては、今も、屠られた子羊への賛美と感謝が鳴りひびき、宇宙が揺れ動いているであろう。そのありさまを、信仰の耳に聞き得る者でありたい。