「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(Ⅰテモテ4:14新改訳)
私が洗礼を受けたとき、司式者は、「イエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖霊の賜物を受けん」(使徒2:38文語訳)を引用して短く勧め、祈り、洗礼を授けてくださった。▼その時から半世紀、私は聖霊が内住されて今日に至ったことを露ほども疑ったことはない。思えばふしぎである。おなじように、テモテに臨んだご聖霊は、教会を指導し、また特にみことばを解き明かすという説教の賜物を与えられたのだろう。▼牧師が説教するというのは、聖書を学ぶことを含むのはもちろんだが、それ以上のものである。御霊がその人を牧会者、説教者として立てるのでなければ、どんなに自分の力で努力しても、絶対的に「何かが足りない」という状態になる。そして聞く者はそれに気づく。▼昔も今も、教会は規模の大小にかかわらず御霊の支配する世界、言葉に表せない、一種言いようのない敬虔さに満ちた世界である。私に洗礼を授けてくださった先生はよく言われた。「教会は、御霊が手をお引きになったら、すべてが終わりである」と。▼住居にとり、新鮮な空気は欠かせず、それには換気が必要だ。御霊という「霊の風」が自由に吹いてくださる教会は生き生きとし、止まった教会は淀み、腐敗していく。原因は不従順の罪であり、隠せる罪である場合が多い。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻もしめされなかった」(Ⅰサムエル3:1新改訳)とあるが、その原因はイスラエルの霊的中心、神の幕屋で、祭司が罪を犯していたからであった。すなわち、祭司エリと二人の息子ホフニとピネハスである。そのため、国中に重苦しく、沈滞した空気が満ち、何をやってもうまくいかなかったのである。私たちも恐れおののいて神の前にひれ伏し、原因を示していただき、悔い改めて出直すべきではないだろうか。