しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅰテモテ3章 <監督と執事>

2017-04-14 | Ⅰテモテ

ベニバナマンサク「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(Ⅰテモテ3:6新改訳)

この章では監督、執事など教会指導者の資格について述べられている。キリスト教会はこの世でもっとも尊い集まりであり、その世話をする立場の重要性はいわずもがな、だ。指導者にふさわしい条件は、夫婦生活に正しく、謙虚で節制心があり、温和で金銭欲もなく、それでいて威厳があり、家庭で子どもたちから慕われ尊敬されている、というものだった。▼大切なのは、監督も執事も条件に「ひとりの妻の夫である」と明記されていることであろう。旧約時代には複数の妻を持つことが容認されていたのに、教会はそれが決して好ましいことではないと認識していたことがわかる。アブラハムとサラ、ハガルの葛藤、ヤコブの妻レアとラケルの争いなどをみれば、複数の妻を持つことがいかに悲劇を生むかは、すでにあきらかだったからである。これらに正しく対処し、家庭や一族を治めていた範として、エルサレム教会最初の執事に選ばれたピリポ、異邦人初の信仰者コルネリオなどの姿が浮かび上がってくる。▼また、もっとも警戒されたのは高慢だった。高慢は罪の最奥部にひそむ邪悪性である。神に用いられれば用いられるほど、高慢と隣り合わせになり、滅びに落ちる危険性が増す。この手紙を記した大使徒パウロでさえ、高ぶりの小さな芽も出ないよう、からだに一つのトゲ(何らかの欠陥)を神から与えられ、死ぬまで過ごした。その彼が、キリスト者といえど高慢になれば「悪魔と同じさばきを受ける」と表現しているのは強烈である。なぜなら、悪魔のさばき以上に厳しいさばきはあり得ないからだ。▼教会が組織体として地上に存在する以上、指導者や治める者が必要であることはもちろんである。私たちは自分の属する教会で、指導者として選ばれた人たちが高慢という誘惑から守られ、最後まで謙遜、謹厳、率直に務めを果たせるように、心を合わせて祈らなければならない。