しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ああ愚かな者たち>

2023-07-29 | ルカ
「そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。』」(ルカ24:25新改訳)

復活されたイエスがいっしょに歩いているのに、それがイエスだとわからない。クレオパたちの姿は、読む人たちを考えこませる。なぜだろうか?と。▼二人の心には「人は死ねばそれですべて終わり」という思いが厚くかぶさっており、まさか、眼前にいる方が三日前、十字架で死なれたイエス自身であるとは想像すらできなかったのだろう。▼しかし私たちもそうではないだろうか。毎週集まって奉(ささ)げる礼拝、そこには主イエスが臨在(りんざい)しておられる。なぜなら、「二、三人がわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」と約束されたからだ。けれども会衆のうち、何名がイエス・キリストの臨在を心の目でとらえているだろう。たぶんほとんどの人たちが、それを意識しないで習慣的な礼拝をささげている。つまりクレオパたち二人とかわらないのだ。「ああ愚かな人たちよ」と、主はいまの私たちをごらんになって仰せられるのではなかろうか。

朝の露 <あざ笑って言った>

2023-07-28 | ルカ
「民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。』」(ルカ23:35新改訳)

いったい、神のみ子が私たちの罪を背負ったとは、具体的に何をさすのであろうか。▼それは「人々からあざけられ、これ以上落ちるところはない、というところまで落ちた」ことを意味していると思う。それが「罪を負う」ということなのだ。ユダヤ人指導者たちはイエスをあざけるだけあざけり、屈辱(くつじょく)とはずかしめの底に落とした。兵士たちと道行く群衆、両わきにくぎ付けられた犯罪人までがイエスを馬鹿(ばか)にし、なぶった。▼弟子たちもひとりのこらず御子を見殺しにした、すなわちすべてのものが御子を見捨て、落としたのである。これがイエスに「罪を負わせる」ということではないだろうか。イエス・キリストは十字架で「のろわれ、すてられた存在」になり切った方である。もしそうしなかったら、私たちの罪は残ってしまい、私たちは解放されなかった。▼天の父のみわざは何と徹底(てってい)したみわざであろう。人には今や、賛美と礼拝しか残されていない。「また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。『御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。』すると、四つの生き物は『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」(黙示録5:13,14同)


朝の露 <神の国が来る時まで>

2023-07-22 | ルカ
「あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」(ルカ22:18新改訳)

昔のイスラエルでは、婚約式のとき、喜びを表すため葡萄酒(ぶどうしゅ)を飲んだそうである。ただし飲むのは女性の婚約者(こんやくしゃ)だけで、男性の婚約者は飲まないのが習慣だったという。婚約の期間はふつう一年ほどだったそうだが、その間、男性は結婚式に備えるため、飲酒や宴会(えんかい)さわぎをつつしみ、花嫁となる女性のため真面目にきよく正しく過ごさなければならなかったといわれる。▼イエス・キリストはやがて空中まで来られ、愛する花嫁となる教会をご自身のみもとに引き上げたもう。そして天の父の御前で、聖なる結婚の式を挙(あ)げられる。その日の大いなる喜びを待ち望み、主は今、大祭司として御父の右にあり、花嫁たちの準備がすっかり整い、完成されるための務めを果たしておられるのだ。「わたしはその日を迎えるまで、祝宴(しゅくえん)や喜びの葡萄酒を決して味わうことはない」、主のお心を想像するとき、私たちもまた待ち遠しい気持ちになる。▼救いにあずかったとはいえ、弱くもろいからだを持つ私たちは、自分のちからだけで信仰生涯をまっとうできると考えるべきではない。天父の右にいますイエスが昼も夜も目を注ぎ、私たちの完成のためとりなしておられるからこそ、日々走ることができる。主のお心に答えるように地上に遣わされた御霊はキリスト者のそばにいて守り、支え、必要な助けを与えておられる。その上、御使いたちも遣わされ、十重二十重に取り巻き、見えない城壁となって花嫁たちを守り、悪しき勢力が手を触れないようにしておられるのだ。▼キリストの花嫁が完成されるということは、天においてはこれほどの重大事である。はたして私たちはそのことを意識しながら日々の馳せ場(はせば)を走っているであろうか。「物見の人々、雲のごとく、群がり囲みて我を眺む。わき目もふらずに走り進め、栄えを授くる主はよびたもう」と昔の賛美にあったが、そのとおりである。


朝の露 <その日が罠(わな)のように>

2023-07-21 | ルカ
「あなたがたの心が、放蕩(ほうとう)や深酒(ふかざけ)や生活の思い煩(わずら)いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然(とつぜん)あなたがたに臨(のぞ)むことにならないように、よく気をつけなさい。」(ルカ21:34新改訳)

放蕩(ほうとう)や深酒(ふかざけ)や生活の思い煩(わずら)い、これほど現代の生活によくあてはまる表現は、まずないだろう。科学技術の絶え間ない発達(はったつ)で、便利さとともにあらゆるかたちの知識や生活上の心配が私たちにおおいかぶさってきている。朝から夜まで、情報(じょうほう)が五感を通して心に入り、それらが不安材料になり、心とからだをくさりのようにしばるのだ。▼私たちはかしこく対処(たいしょ)する必要があるという理由で毎日走り回り、解決方法(かいけつほうほう)をさがしては疲れ、心もからだも弱っていく。そこから少しでも解放(かいほう)されたいと、酒や種々の飲料、スポーツ、レジャーなどを追い求め、結局さらに疲労困憊(ひろうこんぱい)していく。▼主がおいでくださる再臨の日を考えようにも、気持ちがそこまでついて行かない。これが現代的生活の姿ではないだろうか。が、それだからこそ主のおことばに耳をかたむける必要があるのだ。だれも好き好んであちこちにワナがしかけられた道を行きたいとは思わない。ましてそのワナが永遠の滅亡に通じていると知ったら、どんなことがあってもそれを避けるだろう。▼この世で完全にワナが存在しない道、心から安心して歩める道、それはイエスが語られたことばという道だ。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(ルカ21:33同)と主ご自身が言われるからである。

朝の露 <律法学者たち>

2023-07-15 | ルカ
「律法学者たちの何人かが、『先生、立派(りっぱ)なお答えです』と答えた。彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。」(ルカ20:39,40新改訳)

何とかして主イエスを言葉のワナにかけようとユダヤ人たちが質問を浴(あ)びせた、というのが本章。▼彼らは信じられないほど高慢(こうまん)かつ愚(おろ)かであった。天地万有(てんちばんゆう)の創造主であるお方が、人となって目の前に立っている。そのお方を、土から造られた被造物(ひぞうぶつ)にすぎない彼らがワナにかけようというのだ。はたして次々と敗北し、引き下がったが、何人かの学者たちは素直(すなお)に降参(こうさん)し、「先生、立派なお答えです」と答えた。しかし彼らも依然(いぜん)としてかたくなであった。なぜなら、主を「立派な答えをした先生」としか見ていなかったからである。▼そうではない、このお方こそ神が人となられた存在にほかならないのだ。そう悟らなかったところに、深い霊的盲目(れいてきもうもく)さがあった。マタイ二三章で、主がパリサイ人たちを「わざわいなるかな、偽善者(ぎぜんしゃ)たちよ」と七回も責めておられるのはそのためである。