しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <素知(そし)らぬ顔で>

2023-06-14 | オバデヤ書
「他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。」(11新改訳)

その日とは、バビロン軍によるエルサレム占領の日を指しているのであろう。彼ら(バビロン軍)は少なくとも三回エルサレムを侵略(しんりゃく)し、略奪(りゃくだつ)をほしいままにした。このとき周辺の民族もいっしょになってエルサレムを荒らし、このときとばかり財宝を奪い取ったのである。▼その中に、イスラエルと兄弟関係にあるエドムもまじっていたのである。彼らは弟にあたるイスラエルを助けるべきであったのに見て見ぬふりをした。それどころか苦しむイスラエル人たちを笑い、貴重品をうばい(13)、諸国に逃げようとする者たちを殺し、生き残った人々を捕虜としてバビロン軍に引き渡した(14)。なんという冷酷(れいこく)な仕打ちか。すべてを天から見ていた神が、今度はエドムをさばかれる時が来るのだ。「おまえは、自分がしたように、自分もされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る」(15)と言われるように。▼イエス・キリストが地上に再臨されたとき、生き残っていた世界中の人々が集められ、審判を受けると記されている(マタイ25章)。その審判で神の国を相続するという祝福にあずかる人々に主は理由を提示される。「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです」(マタイ25:35~36同)と・・・。つまり、神の国を相続する人たちは、オバデヤ書に出て来るエドム人たちとは反対のことをしたのであり、それをすべて天から見ておられたのが主イエス・キリストなのだ。「では、主イエスの兄弟とは誰のことを言うのですか」などと質問すべきではない。私たちのそばにいる悩み苦しむ人、打ちひしがれている人たちはすべて「主イエスの兄弟」である。見て見ぬふりをしているなら、やがての日、永遠に後悔することになるであろう。

朝の露 オバデヤ書 <エドムの審判>

2018-11-26 | オバデヤ書

赤なでしこ「おまえは彼らのわざわいの日に、わたしの民の門に入ってはならない。ほかでもないおまえが、彼の破局の日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。」(オバデヤ13新改訳)

エドム人への神の審判は必ず降る、とオバデヤ(ヤーウェの礼拝者という意味)は預言する。▼エゼキエルなど各時代の預言者は、異口同音にエドム民族がさばかれずにはすまないことを預言した。理由は、彼らがヤコブの兄エサウから出た民なのに、弟にあたるユダの人々を敵視し、苦しみを傍観しただけでなく、侵略者たちの略奪や殺戮に加わったからであった。▼今日も多くの国々と勢力がイスラエルに反対し、中東政策を非難する。それにはやむをえない理由もあるが、神と聖書を抜きにした上、「今なおイスラエルは神から捨てられていない」という事実を無視しているのが問題である。つまり、根本には、まことの神とその御心への不信仰がひそむ、と私は見る。やがて終末には、全世界の軍隊が嵐のようにイスラエルに攻め寄せるであろう。「その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々はそれに向かって集まって来る」(ゼカリヤ12:3同)と預言されているからだ。◆主イエスは地上最後の夜、あなたがたは互いに愛し合いなさい、との命令を残して十字架におかかりになった。だから、兄弟愛に生きたかどうかが、最後の日に神より問われ、それによって永遠の運命が定められるにちがいない。「では私の兄弟とはだれを指すのですか?」と、貴方や私が主に尋ねるなら、それは自分が正しいことを示そうとして「では、私の隣人とはだれですか」(ルカ10:29)と主に質問した律法の専門家と変わらないことを証明することになる。◆私の兄弟とはだれを指すのか?は、質問すべきことではない。貴方や私と共におられる御聖霊が、とうの昔に示しておられ、語っておられることなのだから。「あなたも行って、同じようにしなさい」と。