しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <回復への祈り>

2023-07-04 | ミカ書
「どうか、あなたの杖で、あなたの民を、あなたのゆずりの群れを牧してください。彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。どうか、彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで、草をはむようにしてください。」(ミカ7:14新改訳)

これまでミカはユダ、イスラエル両王国の罪と不正を取り上げ、神の前に訴え、責めてきたのだが、最後になって、彼らの上に主のあわれみが注がれるよう請(こ)い求める。▼彼らがどれほど罪深く、反逆してやまない状態にあったとしても、「あなたの民」、「あなたのゆずりの群れ」ではありませんか。彼らは自分の思うままに生きているように見えますが、唯一の神であるあなたから離れたなら、あわれで孤独な存在になるしかありません。神よ、どうかもう一度あなたの杖で、彼らを正しく導き、牧してください。緑の草原で草をはんでいた幸せな時代に戻してください、ミカはこのように、哀願(あいがん)の祈りをささげて本書を閉じた。彼の祈りは最終的に、キリスト再臨のとき成就(じょうじゅ)することになる。▼人はどこまで行っても被造物であり、創造主ではない。その被造物が「自分はかぎりなく発展し、高くなり、ついには創造主を越えることができよう」と考えるのは限りなく滑稽(こっけい)であり、漫画的(まんがてき)でさえある。しかし21世紀の現代人はまさに、これを地で行こうとしているのである。「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」(ローマ9:20同)▼悔い改めとは、人間が創造されたままの立場と姿に戻り、心からその事実を受け入れることであって、それ以外のなにかではない。あの放蕩息子が父の財産を湯水のように使い、ぼろぼろになったとき、はじめて自分の立場に開眼することができた。逆に言えばそれをできないままでいることが、罪の罪たる姿にほかならない。



朝の露 <神とともに歩む>

2023-07-03 | ミカ書
「あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。取っておいても保つことはできず、保っていたものは、わたしが剣に渡す。」(ミカ6:14新改訳)

乳と蜜の流れる約束の地に入って数百年、どうしてイスラエルは繁栄と祝福を失ってしまったのであろう。ミカは彼らが不正のかぎりをつくして歩んでいるせいだという。そして一日も早く、神が喜ばれる正しい道に戻れ、という。▼この本章の中心聖句は8節で、ミカ書全体の心柱(しんばしら)でもある。「それは、ただ公正を行い、誠実(せいじつ)を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(8)と、まさにこれが旧約聖書全体を貫いている柱であり、神とイスラエルが契約を結んだときの要石(かなめいし)なのであった。しかし今はどうか。商取引のときに用いる秤(はかり)には「いつわりの目盛(めも)り」を刻(きざ)み、金持ちも一般市民も平気でうそをつき、あらゆる罪を平然(へいぜん)と犯(おか)し続けて何とも思わない。だから神のさばきは民全体の上に臨(のぞ)み、食べても満ち足りることはなく、畑も町々もあれはて、争いと剣(つるぎ)がどこに行っても満ちている。▼心から主を恐れ、誠実な生き方をすることが国家百年の計であることがよくわかる。ミカはするどい言葉で当時のイスラエルとユダ両王国の不正を指摘しつつも、明るい希望を語るのを忘れなかった。私たちの待ち望むメシアはかならずお出でになる。そして平和な神の国はそのとき実現するのだ。だから、その時代に備えるために、不正をやめ、誠実な生き方をせよ、と。この預言は今の私たちにも語られたものである。なぜならイエス・キリストの再臨は確実に近づき、その日を待ち望むことにおいて、私たちはミカと同じ立ち位置におかれているからである。

朝の露 <ヤコブの残りの者>

2023-06-29 | ミカ書
「ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎるときには、踏みにじり、かみ裂けば、助け出す者はいない。」(ミカ5:8新改訳)

これも侵攻軍とイスラエル軍の戦いを記したものと考えてよい。歴史の中でもたびたびこのようなことが起きた。たとえば、サムソンが信じられない力でペリシテ人たちを打ち砕いたこと、ヒゼキヤ王のとき、一夜のうちにアッシリア包囲軍十八万五千人が急死したこと、などがそれである。▼ただ、イスラエル軍にも大きな犠牲が出ることはたしかであろう。「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」(ゼカリヤ14:2同)▼すべての勝因はキリストの御再臨にある。主ご自身が突如、エルサレムに多数の聖徒たちを引き連れて降臨し給うのだ。まさに地上における神の国開始の日がそれにほかならない。かつてミカはメシア、キリストがイスラエルの小村ベツレヘムにひっそりと降誕されることも本章に記した。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ書5:2同)▼すなわちミカはこの章でメシアの初降臨と再臨の両方を預言している。そのご計画は永遠の昔から定まっている神の不変の計画なのだと・・・。


朝の露 <娘シオンよ>

2023-06-28 | ミカ書
「娘シオンよ、さあ、脱穀せよ。わたしが、あなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国民を粉々に砕き、彼らの不正な利得を主のために、彼らの財宝を全地の主のために聖絶する。」(ミカ書4;13新改訳)

娘シオンとはエルサレムのことで、患難時代の最後に、エルサレムが世界中の軍隊から攻められる様子を描いており、次章まで続く。▼イスラエルはひとたまりもなく負けるとの予想に反し、神の力によって奇蹟的に強められ、世界中から集まった侵攻軍(しんこうぐん)を砕いてしまうであろう。もちろんそのことは地上再臨し給うイエス・キリストによってであり、悔い改めと回心がイスラエルに起きるからである。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願(たんがん)の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10同)▼いうまでもなく、その者とは地上に再臨されるイエス・キリストご自身である。それにしてもミカの預言はなんとなぐさめと希望に満ちたものであろう。「主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍(やり)を鎌(かま)に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」(ミカ4:3同)と・・。何千年にわたって戦いに明け暮れて来た人間社会、そこに流された血はだれも計ることができない量にのぼる。水の惑星といわれる地球も、神の御目からみれば真っ赤な血に染まった惑星である。しかしミカはそれが永遠に止むときが必ず来る、と預言する。ここに私たちの希望、キリストの来臨を待望する動機が存在するのだ。▼今日も世界中で「御国が来ますように」との主の祈りが口ずさまれている。それは空しく終わらない。かならず実現するのである。永遠の平和の君、主イエスよ、すみやかにおいでください。


朝の露 <不正でエルサレムを>

2023-06-27 | ミカ書
「これを聞け、ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。流血でシオンを、不正でエルサレムを建てている。」(ミカ3:9,10新改訳)

イザヤとミカはほぼ同時代の預言者だが、当時のユダ、イスラエル両王国がいかに荒れすさんでいたかをミカは告発する。▼もちろんヒゼキヤ王のような善王も出たが、大部分は悪王であり、それに追随(ついずい)する指導者や預言者も本章のように腐敗(ふはい)をきわめ、悪のかぎりをつくしていた。神の都エルサレムでさえ、罪のない人々の殺された血が満ちるほどであった。アハズ王やマナセ王といった人物は、これがダビデの子孫かと思うほど無慈悲(むじひ)、残虐(ざんぎゃく)、偶像礼拝に狂っていたのである。だからミカは言う、「それゆえ、あなたがたのゆえにシオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫(がれき)の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる」(12)と。▼はたせるかな、それから数十年後、バビロン軍のためにエルサレムは瓦礫(がれき)の山となった。21世紀の今もエルサレムに神殿はない。しかし真のエルサレム神殿であられるイエス・キリストは、聖霊によって世界中のキリスト者たちの内にとどまっておられる。十字架に流されたこひつじの血潮は、信仰者たちの心をきよめ、流血や不正の悪を追い払い、神の都エルサレムを創出した。この都こそ、キリストのご来臨により、永遠の神の国と新しい天のエルサレムにつながっていくのである。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。」(黙示録21:2同)