「ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて、父のそばで泣き、父に別れの口づけをした。」(創世記50:1新改訳)
父の顔の上に崩れ落ちて、との表現からヨセフの悲しみがどんなに大きかったかが想像できよう。二人は特別な愛情で結ばれていた。最愛の妻ラケルが生んだ息子、すなおで従順、そのうえ神をおそれて歩んだヨセフ、ヤコブは目に入れても痛くないほどかわいがり、ほかの息子たちを忘れても、特別に愛した。▼親と子の愛は理屈では説明しきれない。ヤコブとヨセフの関係は、天の父と御子イエスの交わりを模型的(もけいてき)にあらわしたものである。父はひとり子をこの上なく愛し、全人類の罪を負うなだめの子羊としてこの世にお送りになった。いわば、ナザレのイエスは天父の愛を一身に受け、それを美しさの極みともいえる晴れ着として着たお方である。▼ときの指導者たちは大工の息子とあなどり、いやしめたが、彼らには傲慢(ごうまん)と罪が顔おおいとなり、イエスの栄光(すなわち晴れ着)が見えなかったのだ。しかし今、御聖霊は私たちの内にその栄光を輝かせておられる。キリスト者は主のはなよめとして、「晴れ着の美しさ」に見とれながら信仰生涯を夢中で走り、やがて天に於いて「顔と顔とを合わせて」相見(あいまみ)えるのである。