しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <父のそばで泣き>

2023-11-20 | 創世記
「ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて、父のそばで泣き、父に別れの口づけをした。」(創世記50:1新改訳)

父の顔の上に崩れ落ちて、との表現からヨセフの悲しみがどんなに大きかったかが想像できよう。二人は特別な愛情で結ばれていた。最愛の妻ラケルが生んだ息子、すなおで従順、そのうえ神をおそれて歩んだヨセフ、ヤコブは目に入れても痛くないほどかわいがり、ほかの息子たちを忘れても、特別に愛した。▼親と子の愛は理屈では説明しきれない。ヤコブとヨセフの関係は、天の父と御子イエスの交わりを模型的(もけいてき)にあらわしたものである。父はひとり子をこの上なく愛し、全人類の罪を負うなだめの子羊としてこの世にお送りになった。いわば、ナザレのイエスは天父の愛を一身に受け、それを美しさの極みともいえる晴れ着として着たお方である。▼ときの指導者たちは大工の息子とあなどり、いやしめたが、彼らには傲慢(ごうまん)と罪が顔おおいとなり、イエスの栄光(すなわち晴れ着)が見えなかったのだ。しかし今、御聖霊は私たちの内にその栄光を輝かせておられる。キリスト者は主のはなよめとして、「晴れ着の美しさ」に見とれながら信仰生涯を夢中で走り、やがて天に於いて「顔と顔とを合わせて」相見(あいまみ)えるのである。

朝の露 <実を結ぶ若枝>

2023-11-16 | 創世記
「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの、実を結ぶ若枝。その枝は垣を越える。」(創世記49:22新改訳)

ヤコブは臨終(りんじゅう)の床(とこ)で、息子たちを祝福し、その将来を預言した。その内容はとても深い。▼預言の中では、なんといってもユダとヨセフがきわだった祝福にあずかっている。ユダに関して「王権はユダを離れず」(10)とあるのは、キリストがイスラエルのみならず、全世界の王となることを示すのであろう。主は「ユダ族から出た獅子(しし)」と呼ばれている(黙示録5:5)。またヨセフについての祝福もメシアに関してであり、特に異邦人をも含む世界支配への預言と見ることができよう。▼思えばヨセフはふしぎな摂理(せつり)により、当時最大の帝国エジプトの宰相(さいしょう)となった。そのときは世界全域に大飢饉(だいききん)があり、諸国民が救われようとしてヨセフのもとに集まって来た。つまりヨセフはまだ三〇代の青年でありながら、当時の世界の救済者(きゅうさいしゃ)とあがめられ、尊敬されたのだ。これはまさに、いま世界中の教会であがめられ、やがて地上に出現する神の国の王として賛美されるキリストのひな型といえよう。

朝の露 <先祖の地に>

2023-11-15 | 創世記
「イスラエルはヨセフに言った。『私はまもなく死ぬだろう。しかし、神はおまえたちとともにおられ、おまえたちを先祖の地に帰してくださる。』」(創世記48:21新改訳)

神はアブラハムに、彼の子孫が四百年間外国で寄留者(きりゅうしゃ)、奴隷(どれい)となって苦しんだ後、そこから出てカナンの地に帰ってくる、と仰せになった(創世記15:13~16)が、イサクもヤコブもそれを知っており、信じていた。だからヤコブは自分が死んだときは、必ず先祖の墓に葬(ほうむ)ってくれとヨセフに命じたのである。▼いまパレスチナ南部のヘブロンには、アブラハム夫妻、イサク夫妻、そしてヤコブ夫妻(ヤコブと妻レア)の眠る墓所(ぼしょ)がある。その上にはイスラム教の寺院が建ち、守られているという。この埋葬地は彼らの信仰を表すものである。▼やがてイエス・キリストが再臨されるとき、エルサレムが世界の中心となり、旧約時代の信仰者たちも復活するであろう。彼らの喜びはどんなに大きいものであろうか。神への信仰を抱いて眠るのは、永遠の報いを受ける条件であることを、この墓地は私たちに物語っている。


朝の露 <先祖の墓に>

2023-11-14 | 創世記
「『私が先祖とともに眠りについたら、エジプトから運び出して、先祖の墓に葬(ほうむ)ってくれ。』ヨセフは言った。『必ずあなたの言われたとおりにいたします。』」(創世記47:30新改訳)

神はヤコブに、「わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう」(創世記35:12同)と仰せられた。その約束を信じていたヤコブは、どんなことがあっても自分はカナンの地に葬られたいと望んでいたのである。▼ふつう私たちは、死ねばどこに葬られようとかまわない、と考える。しかしヤコブにとっては、生きていようと死んでいようと、神が与えてくださった約束の地に存在することがすべてであった。これは、彼が生死を超えた信仰を抱いていたからである。▼私たちキリスト者も、彼と同じ信仰を抱くべきではないだろうか。それは、ある意味で、今地上に生きているときから、信仰によって来るべき神の国に住むことにほかならない。「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(コロサイ3:3同)




朝の露 <ゴシェンの地に>

2023-11-13 | 創世記
「もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、こう答えてください。『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。羊を飼う者はみな、エジプト人に忌み嫌われているからです。」(創世記46:33,34新改訳)

この章はヤコブ一族がエジプトに移住したときのことを記している。一行は70名であった。むろん異民族であるヤコブたちがエジプトに住むには、ファラオの許可が必要である。その面会の時に備え、ヨセフは念入りに計画を立てた。ここにはヨセフの賢さ、注意深さがよくあらわれている。▼ヤコブ一族はあくまでも寄留者(きりゅうしゃ)にすぎず、エジプト人の下にある。彼らの好意を得てこそ住むことができるのであって、決して優越感(ゆうえつかん)などを態度に出してはならない。ヨセフは長年の生活から身に染(し)みてそれを理解していた。エジプト人が忌み嫌う牧畜(ぼくちく)業者なら、農耕民族の競争相手にならず、国の片隅(かたすみ)に住まわせてやってもよい、そのような印象を与えることが重要なのだ、ヨセフは熟慮(じゅくりょ)のすえ、中央から離れたゴシェンの地を提案し、ファラオの許可を得た。その実、ゴシェンはナイル川の河口にあり、肥沃(ひよく)な土地だったのである。